11-15 枯崙西下層区
枯崙の住民たちと別れ、人気も微かな灰色の路地を歩く黄泉路達の耳に届くのは、どこか遠くに感じる生活音。
先ほどまでの喧騒が嘘の様に遠くなり、入り組んだコンクリートによって減退した音は息を潜めている様にすら感じられた。
既に随分と歩いた、そんな感想が遙の思考に交じり、警戒心という名の集中力が途切れかかって来た頃、不意に子軒が口を開く。
「この辺りカら、崙幇、管理、放すしタ、してしまった、場所」
「四異仙会の影響力が強い区画という事ですか」
「そうダ。豊崙、今、西と東、別レるしてる。西、下層に、四異仙会の手下、良くイる」
相槌を打つ黄泉路は、ちらりと周囲に意識を向け、なるほどと内心で小さく納得する。
同時に、四異仙会とその息の掛かった連中が最近枯崙にやってきたとなれば、それまで生活をしていた西側の住民はどうしたのだろうという疑問が沸き上がる。
「では、先程の方は西側に住んでいる人だったんでしょうか」
「違ウ。今の西側、元々住んダいた者、多い、しかし、新参、四異仙会の手下、いっぱいで、息潜メルしている」
どうやら住民特有の連絡網の様なものがあるのだろう。それによって西側の情報はある程度わかるらしいとなれば、今後の活動の助けにも出来そうだと黄泉路は気配を探りながらも自然体で子軒の隣を歩く。
その数歩後ろを歩く彩華は西側に踏み込んだ頃より変わった気配に警戒する様にピリついた雰囲気を漂わせ、周囲を警戒していた。
遙はそんな彩華の隣を歩きながら、曲がりなりにも不良として表社会の水底――裏社会の薄氷の上に揺蕩っていた頃の感覚から違和感を察しつつ、黄泉路と彩華の対応の落差にやっぱりなと小さく溜息を吐く。
「(リコリスはやっぱプロってだけあってすげぇ警戒してんのに、あんなに呑気に歩きやがって……俺だってわかるくらいヤバい場所だってわかんねぇのかよ)」
散々彩華に素人と酷評された自分すら、と、自虐と正しい認識からくる比較でもって黄泉路の後ろ姿に思わず睨みつける様な視線を投げかけてしまう遙であった。
当然、そんな様子も周囲を警戒している彩華には筒抜けであり、彩華の中で遙に対する評価がまた一つ下がる。
明確に境界線が引かれている訳でもない為、東から西側へと移動したといっても風景に変化はなく、通路に並ぶ扉や鉄格子がはめられた窓の奥では時折人の気配があるのも、一見廃墟に見えるこの町に人が根付いている事を示していた。
だが、同じく潜められるような生活音や人の気配にどこか張り詰めたような空気が漂っている。
それこそが崙幇によってまとめられている枯崙と、四異仙会によって占拠されている枯崙の違いだとでもいう様に、両者に流れる空気は素人の遙にすら分かりやすい程に息苦しいものであった。
「――李さん」
「ああ」
やがて、西側の下層でもやや開けた――言い換えれば、枯崙という入り組んだ土地の中でも比較的余所者が分かりやすい――路地の付近で黄泉路が足を止め、隣を歩いていた子軒を制止する様に手を翳す。
子軒も心得ているとばかりに短く応えると、ちょうど胸の辺りに出された黄泉路の手を掴んで道を外れる様に近くの扉へと歩いて行く。
彩華と遙がそれに従って移動すれば、今は誰も使っていないのだろう廃屋の暗がりで子軒が口を開いた。
「この先、扉で中、繋ガる、してる」
「助かります。それじゃあ彼岸ちゃん、いつも通りに」
「ええ」
子軒に示された屋内を抜ける構造の扉へと、子軒と黄泉路を追い抜いて彩華が歩み寄る。
既に黄泉路は扉の奥に多くの人の気配を捉えており、それが件の四異仙会の末端構成員たちであることは子軒が保証してくれている。
であれば当然の役割分担だという風に扉の前に立った彩華が靴のつま先で扉を軽く蹴る。
――さりさりさりさりさりさり……。
蹴った箇所から錆びの浮いた鉄製の扉が鈍色の蔦に変わる。
まるで子供向けのファンタジーアニメーションのような光景に何度見ても慣れない遙が目を見開くのも束の間。中の気配が騒めくのも構わず足を踏み入れた彩華と、それを追う様に子軒を隠す様に続く黄泉路に、遙も置いて行かれぬように慌てて中へと足を踏み入れる。
『何だこのガキ!?』
『今のは能力か!!!』
『それよりみろよ、あの後ろにいる子供――』
異国語の騒めき、その方向性が混乱から好戦的なものに一瞬で変わるあたりはさすがと言った所だろう。
元々が大きめの食堂だったらしい痕跡の残るがらんどうの薄暗い廃墟はそこそこの広さがあり、屯していた男達と黄泉路達の間にはそれなりの距離があった。
そして――
「この程度なら大したことなさそうね」
それだけの距離があれば、戦場彩華は最大限の力を発揮するに支障ない。
再び、突入時にも見せたつま先でつつく仕草を床へと向ける。
その瞬間、弾ける様に膨張した鈍色の蔦が鋭い葉を携えて男達へと野放図の様に広がる。
『ッ! 物質変化能力か!』
『屋内じゃ分が悪いぞ!!』
『ギャアアアアアアッ』
動揺が硬直に現れ、幾人かが刃に抱かれて悲鳴を上げる。
だが、腐ってもマフィアの末端、それだけで終わる素人や、拠点の外に出される様な半端者とは違うと示す様に、他の男が盾になって無事だったものや比較的後方に居たことで到達までに余裕があった者が動き出す。
『つってもガキだ! 後ろの崙幇の頭を獲れば大出世だ!!』
暗黙の了解とでもいうように四方に散った男たちが懐から自動拳銃を引き抜く。
間髪入れずに暗い室内にマズルフラッシュが明滅し、火薬が弾ける音が枯崙の潜められた静けさを裂いて中空に鉛の弾をバラ撒いた。
「《重刃盾菊》」
弾が吐き出されるよりも早く防御の手を打っていた彩華の声に応じ、咲き誇った大輪の菊が銃弾を受け止めて壁や天井、床へと流して痕を刻む。
危うげなく後ろに向いていた銃弾までをも叩き落とした彩華は鳴り響く銃声と金属同士が弾き合う甲高い音に眉を顰めながら能力を使うにあたって鍛えられた構造理解力によって菊の盾越しに敵の配置を朧気に当たりを付け、足元から生やした蔦を蛇行させながら男達へと差し向ける。
「(こうも銃に頼り切った戦法を取るって事は、末端には想念因子結晶は配備されてない……? どちらにせよ、捕まえてみれば良いかしらね?)」
誰がどう見ても圧倒的優勢。盾が弾く弾幕も頻度が落ち、射手である四異仙会の構成員が徐々に戦闘不能になっている事を表す現状は、後方で初めて能力者の戦いを見る子軒や、実際に銃が撃ち込まれてなお平然と対処する姿に圧倒される遙にとって緊張や警戒を投げ出す程の物であった。
――だからだろう。
「李さん!」
「ッ!?」
黄泉路の声に身を強張らせた子軒の手を手繰り、黄泉路が子軒に覆いかぶさるように引き寄せる。
直後、黄泉路の背に衝撃が走り――
「あ、あ……」
「は? え? はぁっ!?」
背中から胸に突き抜けた刃の先端から滴った雫が子軒の首筋に掛かり、その温さと粘度のある液体が肌を伝う感触に子軒の目が見開かれ、詰まったような声が漏れる。
その光景をすぐ横から目撃してしまった遙は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
子軒を黄泉路が庇った、その事実だけを目に焼き付ける様に硬直し、黄泉路の背に乗る様に小刀を逆手に握った男の舌を打つ音で我に返る。
だが、我に返ったとはいえ身体は硬直から抜け出すことが出来ず、むしろ、中途半端に我に返り、現実を直視してしまったが故に、数日間の付き合いとはいえ、つい今朝がたには一緒に朝食を摂っていた相手が殺されたという事実に遙の理性が崩壊を起こす。
「あ、う、あ、あああぁああぁあぁあッ!?」
喉の負担など慮外の純然たる悲鳴が溢れる。
だが、その悲鳴も黄泉路の背に乗った男と視線が交わった瞬間に本能的に飲み込む様にぴたりと止まる。
男からすれば悲鳴に気を取られて視線を向けた、ただそれだけのことだが、遙にとっては次の標的に選ばれた可能性が頭に浮かび、人を容易く殺す存在に目を付けられたという認識から身体が後ろへ引こうと、しかし、上手く動かない身体を無理矢理動かそうとした影響で躓いて尻もちをついてしまう。
「――煩いわね!!」
「ッ」
悲鳴が止むと同時、遙を現実に引き戻す様に彩華の叱声が響く。
遙は一瞬、彩華がいれば助かると希望を抱くが、その視線が捉えるのは彩華が男達の相手をしていてこちらに寄ってくる気配もないということ。
見捨てられたのかと目を見開くと同時、彩華の叱声の中身が理解に追いつき、あれだけ慕っていたらしい仲間があっさりと殺されたのに、その反応はあんまりじゃないかという怒りまで湧いてくる。
「ふん。日本人か。どういうつもりか知らないが、運が悪かったと思え」
黄泉路を刺した下手人が遙を見下す様に――事実、戦場で奇襲された程度で悲鳴を上げて尻もちをつく様な子供なのだから仕方ないのだが――流暢な日本語で呟く声に、遙はびくりと肩を揺らす。
黄泉路から刃を引き抜き、本来の標的だった子軒を殺した後に遙を殺さんと男は腕に力を入れる。
しかし――
「ぬっ」
男は漸く、決定的な違和感に気づく。
「あ。やっと気づいたんだ?」
自身が立っている、殺したはずの少年の身体が揺らぐことなく自身の足場として機能し続けているという事実に。
「ッ!?」
引き抜けない小刀を咄嗟に手放し、男が黄泉路の背を蹴って高く飛ぶ。
その身体が空中でくるりと反転して逆さになり、天井に吸い込まれるように下半身が消えたことで、後を追って動く遙の目が見開かれる。
「なるほど。影に潜る能力……かな?」
「死にぞこない相手と言えど教えるわけがないだろう」
「それもそうだね。まぁ、気にするほどのことじゃないかな」
未だ、胸元から刃の先端が覗いたままの状態で男を見上げる黄泉路が問えば、内心の苦々しさなどおくびにも出さない男が嘲る様に答えた。
問答を終えた男が再び影に沈み込んでゆく中、黄泉路は自身の胸元に生えた刃を掴み、
「お、おい――」
「よいしょっと」
「ッ!?」
あまりにも軽い掛け声と共に、ぐっと強く引くことで、柄ごと身体を貫通させて取り出してしまう。
その様子を間近で見せられた子軒は思わず絶句してしまい、遙に至ってはそんな自殺めいた行為に思わず吐き気が込み上げてむせ返る血の臭いがトドメとなって思い切り嗚咽を漏らして俯いた。
「うぷ、おぇ……げぇ……」
「あー。ごめんね。いつもの癖で。大丈夫?」
「だい、じょうぶ、なわけ……あるかバカ……ッ」
「あはは。ごめんごめん」
「い、イや、【不朽】は大丈夫なのカ?」
心配する様に、それでも一応の体裁を保とうとする子軒が問いかければ、黄泉路は安心させる様に口元から零れた血を袖で拭ってから笑みを浮かべる。
「不死身だと知っていたのでは?」
「喩えだト」
「まぁ、そうですよね。ともあれ、遙君と李さんは僕が守りますので、心配はいりませんよ。あの人の相手は僕がします」
抜き去った小刀の刃を手づかみしてパキリとへし折る間にも、傷口から溢れ出した赤い塵が収まり、服に空いた穴から白い肌が覗くのを子軒と遙は確かに見た。
そして、影の中から窺っていた男もまた、黄泉路が致命傷でもなんでもなく、あの程度の傷では何も支障がないという事実を認識していた。
「(チッ、かなり高位の再生能力者だな。身代わりには最適だから護衛をしていたのか。とはいえ、俺の能力に対処する術はない。ならば――)」
男は素早く思考を纏めると、影の中でナイフを複数取り出して構える。
先ほどは自身の隠密性と確実性を重視して自ら影から身を出して襲撃したが、相手が不死身と呼ばれるほどに耐久力が高いのであれば下手に接近戦に持ち込まれては体力勝負で不利になるのは明確だ。
故に、男は影の中から手数で攻めることに決める。
幸いナイフのストックは豊富にあり、総てに対処しようとするならば一見無手の黄泉路に対処できる数は限られている。
「(多角的に攻めれば手が足りなくなる。勝負はあっちの女が雑魚を片付けるまでに崙幇のガキを殺る……!)」
ナイフが影の中で男の手を離れる。
水の中を泳ぐ様にナイフが投げ出され、とぷっ、という微かな音と共に屋内へと吐き出される。
「影の中の移動は自在、っと!」
「わああっ!?」
天井や壁、床の瓦礫によってできた影から飛び出して来たナイフを1本掴み、そのほかを叩き落とした黄泉路は子軒を庇いつつ、遙に飛んだナイフを奪ったナイフを投げ飛ばして弾き飛ばす。
余裕のある対応、だが、続けざまに先程とは別の影から飛び出すナイフは尽きる気配がない。
叩き落としたナイフが影に回収される事を懸念し、黄泉路は途中からナイフを叩き折る行程を加え始めるが、千日手めいた攻防に遙も徐々に震えが治まり始める。
「(アイツ、こんなに強かったのか……! クソ、オレだって、オレにも、何か――)」
同時に湧いてくる、今まで何処か下に見ていた黄泉路の活躍に対して自身の不甲斐なさに歯噛みする。
とはいえ、男のナイフが飛び交い、彩華の刃が防いでくれているとはいえいつ流れ弾がくるか分からない状況で動き出す勇気を持てずにいた。
「(このガキ、思った以上に巧い!!)」
同様に、陰に潜んだ男もまた黄泉路の隙の無さに舌を巻いていた。
彩華と構成員たちの戦闘も既に消化試合の様相を呈しており、そう長くも持たないだろうことは明白であった。
男は彩華が加わったとて負けるとは思っていない。だが、この場で子軒を仕留める事は不可能だろうということは確信していた。
勝負を焦る程ではないが、このまま何もせず退くというのも自身の組織内の沽券に関わる。
そんな絶妙な均衡を作り出している黄泉路はしかし、その膠着を長く続けるつもりは毛頭なく、
「うん。よし」
小さく呟いた黄泉路の手元で、いつの間に掠め取っていたのか、ナイフが鈍く光る。
丁度子軒に向かって投げられたナイフに自身の身を晒す。そこまでは先ほどまで幾度も繰り返されてきたことと同じ。しかし――
「あっ!?」
あえて回避を放棄した黄泉路の額に影から飛び出したナイフが刺さるのと、黄泉路の手を離れたナイフが影に飛び込んでゆくのは同時であった。
一瞬黄泉路の身体が硬直するが、しかし、すぐにナイフを投げた手で額に生えた柄を掴んで引き抜いて頭を振れば、ふわりと赤い塵が舞って無傷の黄泉路が小さく息を吐く。
あまりにも衝撃的な光景に再び硬直する遙と子軒、だが、すぐにあれだけ立て続けに射出されていたナイフが途切れている事に気づいた遙が思わずと言った具合に黄泉路に問いかける。
「な、なぁ、どうなったんだ……!」
「ああ。あの人の能力、たぶんだけど自分が潜ってる影と繋がってる影の出入りが自由になる能力なんだと思うんだけど、出入口を開いた後は自力でとじないといけないみたいなんだよね。ナイフが出てきてから閉じるまでに1秒とちょっとのラグがあったから。そこにナイフを投げ返したら刺さるんじゃないかなってね」
「いや、1秒ってなんだよ……意味わかんねぇ……」
あっけらかんと答える黄泉路の言葉が意味すること自体は理解できた遙だが、さすがに猶予1秒を狙う為に自らの額を差し出す真似までは理解できるはずもない。
半ばで理解を投げ捨てた遙を他所に、現実的に危険が止んだことで子軒が黄泉路に問う。
「あの男、死んだカ?」
「生きてますよ。ただ、この場からは離脱したみたいですね」
「何故わカる?」
「僕の能力の一部、とだけ」
「そうカ」
子軒の問いに答えた黄泉路が周囲を見渡す様に顔を巡らせていると、丁度末端構成員達を制圧し終えた彩華が歩み寄ってくるところであった。
「終わったの?」
「うん。撤退したみたい。たぶんそっちが片付いたら退くつもりだったんじゃないかな」
「とりあえず生かして捕まえたし、連れ帰って話でも聞く?」
「その辺は李さんに任せようか」
「――あ、ああ。我が、責任持つして、聞き出すする」
気づけばすべてが終わっていた彩華の強さに目を瞠るものの、やはり、間近で身を挺して敵の能力者の撃退までしてみせた黄泉路の力に圧倒された様子の子軒は崙幇への配慮を見せる黄泉路に感謝の意を示しつつ強く頷く。
「……遙君。立てる?」
「ッ」
話し合いが終わった黄泉路が尻もちをついたままの姿勢の遙に手を差し伸べれば、遙はようやく自分がへたり込んでいた事を思い出して腰を浮かせようとする。
だが、どうやら腰が抜けてしまったらしく立ち上がれないでいる遙に、黄泉路は淡く苦笑しながら差し伸べた手でもって遙の腕を引く。
あまりにも軽々と、ふわりと浮遊するような錯覚すら抱きそうなほどに簡単に引き上げられた遙は黄泉路の見た目に似合わない怪力に目を白黒させ、礼を言おうか言うまいかというプライドが浮かぶ以前に言葉を失ってしまう。
「じゃあ、帰ろうか。虚己さんもそろそろ僕達の拠点を見繕い終えただろうしね」
軽い運動をした、程度の気軽さで引き上げようとする黄泉路が彩華が作り出した鉄の縄で縛り上げられた男達を受け取り、軽々と担ぎ上げて扉を潜ろうとする後ろ姿にしばし呆然としていた遙であったが、最後に出て行こうとする彩華がもの言いたげな目を向けたことで漸く自分が最後だったことに気が付き、慌ててその後を追いかけるのだった。