11-10 船底の華
隠れ潜んでいたコンテナが開け放たれ、涼やかな少女の声が響いた瞬間。遙は危機的状況にあるのは変らないにも関わらず、一瞬で身動きはおろか思考すらも凍結したように固まってしまう。
背丈からして恐らくは遙と同年代だが、黒をベースとした暖かな冬の装いとそれに見合った落ち着いた立ち姿が大人びた雰囲気を醸し出しており、もしかしたら年上なのかもしれないという印象を受ける。
顔に張り付いた植物をモチーフにしているだろう仮面は日常ではまず見る事のない代物で、顔が一切覗えないという不気味さがたしかにあるはずなのだが、遙の目には、肌の露出が限りなくゼロに近い服装と合わせて不気味さよりも神秘的に映っていた。
携帯の明かりくらいしか頼る物のない暗闇で過ごしてきた遙には船室の明かりすらも眩く、開け放たれた扉から差し込む光は仮面の少女の後光のようで。
だが、なにより遙が意識を持っていかれたのは、少女に付き従う様にコンテナの扉から変異して侍る鈍色の植物の蔦だ。
ややあって、身動きよりも先に回復した思考が遙の中で駆け巡る。
悪の組織の密輸現場。踏み込んできた仮面で身分を隠した少女。鉄の花。
それらが意味する事とはつまり、ここ最近ニュースで熱心に報じられ、遙も密かに期待した義賊。
「――リコ、リス……」
「貴方。何者?」
確信めいて、期待とも喜色ともつかない顔色を滲ませた遙が呟けば、少女は端的に怪訝な者を見る様な視線をそのまま音に乗せたような声で問う。
足元を伝う揺れに連動した重く金属が微かに軋む音だけが鳴り続ける中、内心の興奮のあまり、少女の警戒するような声音に気づかない遙は自身が考える最高に気さくな態度で少女へと話しかける。
「こんな所で会えるなんて奇遇だなぁ! オレはほら、あれだよ。同業者ってーの? っていうかマジ女の子なんだ。同い年くらいじゃね?」
「……」
遙にとってはとてつもなく好感触な対応だったのだが、当の少女――戦場彩華から返ってくる言葉はない。
代わりに、コンテナが開く直前にも聞いた、さりさりという薄い金属が擦れ合う様な音が広がり、あっという間に遙の顔の横に花が咲く。
「ぅぁ――」
「動くと死ぬわよ」
「……!」
咄嗟に身を強張らせた遙だったが、彩華の宣言通り、顔の横に咲いた鈍色の華を支える茎から伸びた刃の葉が自身の首筋に触れるかどうかという距離に迫っていたことに遅れて気づき唾を飲む。
「同業者、ね。その同業者とやらが、どうしてこんな所に?」
「あ、いや。ははっ。怪しい外国人が取引してたからさ。潜入して証拠集めしてたんだ」
遙の自信満々そうな言葉に、彩華は未だ警戒を緩めた様子の無い視線を仮面越しに向ける。
「結局、貴方が敵じゃないって証拠にはならないわね」
「おい嘘だろ!?」
「だって、貴方、最近話題らしい私を待ち伏せするために潜んでいた敵じゃないって証明できる?」
「うっ。で、でもそんなんじゃねーし! じゃあ何言えば信じてくれんだよ!」
さりさり、と。刃の花の擦れる音が耳元で囁くように響き、思わず小さく言葉を詰まらせた遙は慌てて声を荒げる。
「普通、こういう状況は互いに名乗るものよ?」
「――じゃ、じゃあそっちは!?」
「あら。名乗りが必要なのかしら。貴方は知っていると思ったのだけど」
窘める様な彩華の言葉に、さすがに本名を打ち明けることに抵抗を覚えた遙は咄嗟に言い返すも、彩華のとぼけたような口ぶりに反論を丸め込まれてしまう。
それからややあって、ぼそりと小さく呟く様に遙は口を開く。
「……真居也遙」
「証拠は?」
「ああ、もう! 財布に免許入ってるから! それでいいだろ!?」
再三の疑念に痺れを切らした遙がポケットへと手を突っ込む。
彩華が止める間もなく、二つ折りの財布を取り出した遙は彩華の方へと向ける。
そこには確かに遙の顔写真付きで原付二輪免許が収まっており、じっと仮面の奥で目を細めて認めた彩華は大きく息を吐く。そして――
「貴方、素人ね」
「んなっ!?」
溜息と共に告げられた唐突な看破に、遙はびくっと身体を強張らせて眼を見開いた。
その仕草だけでもはや正答と告げている様なものだが、遙は納得いかないという風に口を開く。
「いや、ちょっと待てよ! 証拠がどうのって言いだしたのはそっちだろ!?」
「私、免許出せなんて一言も言ってないし、なんならこういう場所に身元が分かる物を持ち込む神経が分からないわ」
「――」
あっけらかんと、自ら証拠を出せと言った口で否定に回る彩華に頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける遙だったが、言われてみれば自分はリコリスのことを何も――それこそ名前どころか素顔すらもだ――知らないことに思い至る。
「オレだけ顔も名前も割れてるなんてフェアじゃねーじゃん。そっちも紹介とかねぇのかよ」
「裏社会でフェアプレー精神を求められてもね」
「じゃあ代わりにここで何してたのか教えろよ。それくらいなら良いだろ」
「答える義理もないけれど、貴方をこのままにしておくのも問題なのよね……」
彩華が腕を組み、悩まし気に首を傾げれば、遙はチャンスだとばかりに畳み掛ける。
「なぁ、いいだろ? なんならオレも手伝うからさ」
「……はぁ」
彩華の溜息は、素人に手伝ってもらう必要性がないことからの呆れか。はたまた、裏で相談していた結果によるものか。
ともあれ、彩華は小さく靴の先で船底を叩く。
すると、するすると遙の周囲に咲いていた鈍色の花たちが退いて行き、数秒も経たずにコンテナの中は遙が忍び込んだ時とまるで変わらない状態へと戻ってしまう。
それに驚いたように眼を瞬かせている遙へ彩華が面倒くさそうに声を掛けた。
「とりあえず、仲間と相談するからついてきなさい」
「お、おう!」
たっと、寝床代わりにしていた箱から飛び降りた遙はそそくさと踵を返した彩華の隣へと並ぶ。
いきなり距離を近づけて来た遙に怪訝な視線を向けた彩華だったが、これ以上会話をしても面倒だと割り切って船室の出口へと向かうのだった。
「なぁ、こんな堂々と歩いてて大丈夫なのか?」
「今更?」
遙が困惑と若干の怯えにも似た仕草で周囲をきょろきょろと見回しながら隣を歩く彩華へと問いかければ、彩華は気にする事なく短く答える。
というのも、現在遙と彩華が歩いているのは船の通路だ。
しかも、所謂貨物船などの大型の荷物を運ぶために人員の居住快適度を代償にしたような代物ではなく、むしろ、船旅を特別な催しにする為に内装に拘った客船仕立てのもので、閑散とはしているものの、いつ誰かとすれ違うかもわからないと遙が怯えるのも無理のない事と言えよう。
「この船、客船に見えるけどただの偽装工作よ。実態は貴方が居た船底の貨物室が本体」
「あー、つまり、今この船には最低限の人しか乗ってない?」
「そ。ただ、船って積み荷や乗客の数で沈み方が変わるし、万一検閲でもされたら困るから何も知らない客も乗せているけれど。だから逆にビクビクとされた方が不審がられるわよ」
「お、おう」
意外にも丁寧に応えてくれる少女を横目で見た遙は、納得して正面を向いたのち再びちらりと隣を歩く少女を覗き見る。
船底で会った少女は貨物室から出て一般客用のフロアへと辿り着くなり、仮面をするりと糸状に溶かして袖口へと仕舞っていた。
つまり、今遙の隣を歩いているのは紛れもなく素顔の彩華であった。
「(……噂っていい加減なのが多いけど、リコリス、めっちゃ美人じゃん……やべぇ、こんな美少女が裏で悪と戦ってるって、マジか。っていうか、ここにリコリスが居るって事は何か摘発とかやる感じなのか。やべぇ! この機会に仲間に入れて貰えたりしねぇかな! さっき仲間がいるって言ってたしチャンスあるんじゃねぇ!? そしたらリコリスとも仲良くなれたり――)」
「他人の顔、じろじろ見るのはやめた方が良いわよ」
「っ」
咎める様な視線を向けられ、遙はびくっと視線を彷徨わせた後、バツの悪そうな顔を浮かべて正面へと向く。
そうこうしている内に彩華の足が客室の扉の前で止まると、遙もわずかに遅れて立ち止まった。
「私よ」
「開いてるよ」
一声かけて扉に手を掛けた彩華に応える少年の声に、遙はぴくりと眉を顰める。
「(男……? ってか声からしてガキじゃん)」
「何してるの。早く入って」
「あ、ああ」
一瞬の思考に足を止めてしまっていた遙を咎める様な彩華の視線に促され、遙は部屋へと足を踏み入れる。
遙には判断つかないことだが、一般的な客船からみてもやや広く、豪華に作られた内装。サイドチェストを挟んで並んだ二つのベッドの片方に座る少年がふたりを招くように立ち上がる所であった。
「おかえり。彼岸ちゃん」
「……なにそれ」
「リコリスだから彼岸花で彼岸ちゃん。名前っぽくて良いかなって思ったんだけど、やっぱりダメかな」
「……もういいわよ何でも」
気安く話しかける少年に対し、リコリスの態度は呆れを含む物の刺々しさはない。
そこに見えない信頼関係が垣間見える様で、遙は胃の下の方に何かが溜まるのを頭の片隅で感じつつ、ふたりに割って入る様にして口を開く。
「お前がリコリスの言ってた仲間?」
「うん。そういう君は真居也遙くんだったよね?」
「――」
先制して牽制したつもりだった遙だったが、まだ彩華が伝えても居ないのに既に自分の名前を把握されていた事に驚いて二の句が喉の奥へと引っ込んでしまう。
「まぁ、とりあえず座って話をしようか」
驚いたまま固まってしまった遙へ、少年が人好きのする柔らかな笑みを浮かべて椅子を勧める。
遙がハッと我に返ると、既に彩華は少年が腰かけていたほうではないベッドに腰かけており、少年が海を一望できる窓際のテーブル席の片側へと腰かけ遙を待っていた。
まさか、この状況で彩華の傍のベッドへと腰かけるわけにもいかず、また、少年の正面に座らないのも逃げた様で格好が悪いと遙は憮然とした態度で少年の目の前に腰を下ろす。
「初めまして。僕は迎坂黄泉路。短い間かもしれないけどよろしく」
遙が座るのを待ってから口を開いた少年――黄泉路がテーブルの上に手を差し出す。
その毒気の無さやあまりにも自然な仕草から、呆気に取られてしまう遙であったが、すぐに彩華が口にしていた言葉が頭に過って眉を顰める。
「名前、名乗らない方がいいんじゃねぇのかよ」
「偽名だから大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「っ」
さらっと偽名である事を明かす黄泉路に振り回されたような感覚に陥ってしまった遙が、せめてもの抵抗としてテーブルの上に手を出すことなく握手を態度で拒否すると、黄泉路は僅かに困った様に苦笑してから手を引っ込めた。
「とりあえず、成り行き上、君を保護する事になった訳だから、現状の説明をしたいと思うんだけど、いいかな?」
「……っつか、何でお前が仕切ってんだよ」
「迎坂君がリーダーだからに決まってるでしょう。私よりも経験豊富だしね」
「――こいつが?」
さっさと話を進めようとする黄泉路に待ったをかけた遙だったが、ベッドに腰かけた彩華がばっさりと切り捨てた言葉が信じ難く、黄泉路の顔をまじまじと睨む様に覗き込む。
「?」
「(ぶっちゃけオレと同い年かちょい下じゃね? 顔だってオレも負けてねーと思うし。ほんとにコイツがリコリスの上?)」
簡素な部屋着にも見える格好は無害な少年という雰囲気を補強する様に細い身体の線を見え隠れさせており、険の無い顔つきと相まってどうしても納得がいかず、遙は睨みを利かせたまま押し黙ってしまう。
ただ見つめられるままに時間だけが過ぎる黄泉路はどうしたものかと頬を掻く。
すると、見かねた彩華が部屋に備え付けてあったポットでコーヒーを淹れてテーブルの上へと置き、
「能力者の中身なんて顔見てたってわからないわよ。迎坂君も、律儀に付き合ってあげる必要なんてないでしょう」
「あはは……でも、表側の人には色々と混乱する事も多いと思うから。せめて少し落ち着ける時間があれば良いなと思って」
「自分が裏の人間だって言ってんのか。オレだって、チームの奴等とつるんで表から外れたことくらい――」
「うーん。結局、そういう暴走族とか、チーマーって、表からは外れ気味ではあるけど、僕らからするとまだまだ表側の人なんだよね。だって、基本的に命に関わる様なことはやらないでしょ?」
苦笑を隠す様に出されたコーヒーのカップに口を付ける黄泉路の物言いはどこか、年上が子供を窘める様なニュアンスが込められている事に気づき、遙は苛立ち紛れに彩華の入れてくれたコーヒーを手に取り、まだ熱いそれを咥内が火傷するのも構わず勢いよく傾ける。
「じゃあ言ってみろよ。お前等の言う裏の世界って奴をさ」
「……いいよ。元々、今の状況を説明する必要もあるしね」
カップをテーブルの上に戻した黄泉路はちらりと窓の外――高く昇った陽が照らす水平線を一瞥してから口を開く。
「この船は今、中華に向かっている最中だ。表向きには定期便の客船だけど、実体は遙君も知っている様に非合法品の密輸。ここまではいいかな?」
「ああ」
「僕達はある目的の為にこの船に“客”として潜り込んでる。だから、本当なら保護した君をすぐに日本に送り届けたい所なんだけど、今はちょっと難しいってことを理解してほしい」
黄泉路の物言いは一々尤もで、それでいて子供を不安がらせないような言い回しを使っていた。
本来であれば、保護された一般人の少年はそれでいいのだろう。だが、遙からすれば黄泉路の物言いは鼻につくものでしかなく、
「僕としては、君をすぐに日本に返してあげたいから、とりあえずは港につき次第――」
「んな事は聴いてねぇんだよ! 潜り込んでる理由は!? なんでリコリスが中華に向かうんだ!? オレが聴きたいのはそこなんだよ!!」
「うるさいわね。客として入ってるとは言っても騒いだら目立つでしょう?」
「……っ!」
不満を爆発させれば、怒らない黄泉路の代わりに彩華が呆れと咎めを含んだ視線を向けた。
遙はバツが悪そうに口を一文字に結び、浮かしかけた腰を再びどかりと椅子へと押し付けて背もたれに体重を預け、不貞腐れたように黄泉路を睨みつける。
「うーん……。今現在でも僕達は顔を見られているし、これからの目的を話した後で日本に帰したりすると遙君が危ないかも知れないから……」
「んなもん、今と変わらねぇだろ。オレが聴きたいのは、お前等が何のために中華に行くのかってことだよ」
「わかったよ。ただ、これは他言無用だからね」
初対面からこっち、もう何度見せたかもわからぬ困り顔を浮かべる黄泉路が小さく頷く。
遙は漸く本題に入れると内心で息を吐くが、黄泉路の口から語られた“用事”のスケールの大きさに驚き、言葉を失ってしまう。
黄泉路が語るのは、昨今の日本に潜伏する外国マフィアの台頭と治安悪化が、中華に拠点を持つとある組織が仲介または取りまとめによって行われているという情報。そして、その前線拠点を叩くことで焼石に水状態だった日本国内の情勢に一端の小休止を作るという目的。
「――というわけで、僕らはこれから危険地帯に行かなきゃならないんだ」
「わかった」
だが、言葉を失ったのも少しの間。むしろ、黄泉路が事情を開示するにつれて遙の内心に溢れ出してきたのは、この状況に対する興奮だった。
「それで……え?」
「オレもその大仕事に協力してやるよ」
このチャンスを逃したら、自分はまた平凡な日常に、退屈な表の世界に逆戻り。そんな焦りと、憧れたリコリスと共に行動できるという下心が混ざった前のめりな提案には黄泉路もきょとんとした顔をしてしまう。
「オレだって能力者だ。他の奴等とは一味も二味も違うから、戦力として期待してくれていいぜ」
彩華にアピールする様に顔を部屋の方へと向けて笑顔を浮かべるが、しかし、黄泉路は困惑を、彩華は呆れを滲ませるしかない。
「(仲間っつっても迎坂はどうせ戦えないだろ。ニュースになるのはいつもリコリスの方だし、前線に女の子ひとり放り出してる奴よりオレの方が断然頼りになるって事を証明してやる)」
「……はぁ。もう、いいわ。迎坂君。好きにして頂戴」
そんな遙の内心など知る由もない、というより、知る気もない彩華は呆れたように首を振り、後のことは丸投げと言わんばかりに黄泉路に向けて言葉を投げる。
渾身のアピールが不発に終わった遙は不満げに黄泉路の方へと向き直るが、黄泉路は未だ、決めあぐねる様に遙を見つめたまま口を噤んだままであった。
「おい。何でお前が決定権持ってんだよ」
「あはは……最近、僕が決められるようにって色々考えてくれてるみたいで」
「チッ」
「まぁ、うん。気持ちは有難いけど、やっぱり遙君を危ない目には遭わせられないよ。だから、とりあえず第三案として、向こうで拠点を確保したら仲間を呼ぶから。その時に改めてどうするか相談しよう。彩華ちゃん、それでいい?」
「迎坂君がそうすべきだと思うならそれでいいと思うわ。どうせ逃げたとしても言葉も通じない異国、秘密が漏れる心配もないし、変に日本に送り返すより良いのかもね?」
「彼岸ちゃん……」
どうしてそんな怖い事を言うんだと困り顔を浮かべる黄泉路だが、彩華は知らぬ存ぜぬという風に鞄から文庫本を取り出して眼を落とし始めてしまう。
遙対黄泉路という構図のつもりが、気づけば彩華対遙に対して黄泉路が遙を気にかけるという珍状況に陥ってしまい、釈然としない表情の遙に、黄泉路はどうフォローしようかと内心頭を抱えるのだった。