11-9 日常からの船出
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日常と非日常を分けるものはなにか。
思春期の少年少女であれば多かれ少なかれ考える事のあるそれは、得てして眼前に横たわる現実という巨大な壁によって段々と失速し、気づけば気にも留めなくなる類のものだ。
当然、多くの人々がそうであったように、その少年もそうあるべきで。周囲の人間も、そうなるだろうと思っていた。
「はー……マジ、何やってんだろうな」
11月の曇天に白い息を吐いてそう溢す、襟足のみ長い金に近い茶髪を首の後ろで小さく括った少年の声が誰に聞き取られることもなく溶けて消える。
少年、真居也遙は世間の目を避ける様に路地裏をゆるゆると歩きながら狭くなった空を見上げる。
中肉中背、特に印象に残るという程でもない、可もなく不可もない、強いて言うなら、平日の昼間に見かけるには珍しい、明らかに中高生だろうちう顔立ちだけが路地裏で浮いているくらいだろうか。
唯一目立つ点といえば、右の耳朶を重く飾り付けた大振りのピアス。不可思議に色彩を変える石が簡素な装飾の上に乗ったそれは、見る人が見ればすぐに想念因子結晶だと気づくだろう。
遙が自分は他とは違うと、同じ歳頃の少年少女と同じような考えを持つに至った理由でもあり、こうして独りになってしまっている原因でもあるそれは、どちらにせよ遙にとって特別な意味を持っていた。
真居也遙は一般人だ。
それは自他共に、環境や生い立ちに至るまで覆り様のない事実である。
東都から然程遠くないベッドタウンに家を持ち、共働きの両親と大学生になる兄がひとり。学業は不真面目のツケで最近こそ成績が下降の一途を辿っているものの、もう少し頑張れば都内有数の進学校を目指せるだけの余地があった程度には自頭は良い。中学時分から惰性で運動部に所属していた事もあって身体はそこそこしまっており、自己評価、そして他人からの評価としては決して顔も悪くない。
悩みらしい悩みなどない、学校で友達と流行の話をし、そこそこに楽しみ、ネットニュースに上がる時事ネタにわいわいと騒ぐ、そんなどこにでもいる一般的な高校生だった。
だが、遙自身が満足して受け入れているかと言われれば、それは否だ。
毎日が退屈だった。画面の向こう側、自分たちの平穏の水面下では、いつだって自分とはかかわりなく大きな事件が起きている。
遙は思う。
『どうして自分はここにいるんだろう』
それは思春期の少年少女が――自己認識を意識しはじめた人間が辿り着く割とポピュラーな悩みだ。
誰に相談する事も出来ず煩悶と蓄積された自己形成の発露は高校に入ってから。それもまた、高校デビューという割とありきたりな形でやってきた遙は、入学式の前日に髪を染めて、中学時代を知る者のいない都内の工業高の制服を着崩して登校した。
当然、周囲の人々は快い反応を返さなかったが、遙はそれが特別な様に思えて存外に気に入った。そうして不良のまねごとをしていれば、類は友を呼ぶ、本物の不良と呼ぶべき者達と絡む様になり、気づけば学校はサボりがちになっていた。
遙の両親は前述したとおりごく普通の親だ。
放任主義である、子供を信じているという言葉を盾に、自分の仕事の忙しさを言い訳に、子供の素行不良に眼を逸らす程度には、普通の親であった。
だからだろう。遙はずるずると不良のたまり場に居着く時間が増えていった。
それでも、刺激的だったのは最初だけで、たまり場が日常に変って行くにつれて、遙は周囲への失望を隠す様に薄ら笑いをすることが多くなった。
結局は表社会からはみ出しただけ、酒や煙草を調達して仲間内で回したりはしても、決定的な犯罪行為には至らない、裏社会にも踏み込めない浮ついた集団は、遙が思う様な刺激は齎さなかった。
再びの燻る様な停滞の日々に辟易していたある日。遙に2度目の転機が訪れた。
出席日数の関係で留年が決まり、その上で親との折り合いの悪さから退学を選んでグレーな風俗店に転がり込んだ不良グループの中心人物が、久しぶりにたまり場に姿を現し、とんでもないブツを手に入れたと興奮気味に告げたのだ。
最初は、本当にヤバいクスリにでも手を出したのかとグループ内は騒然としたものの、彼らのリーダーが複数のアクセサリーをテーブル代わりの台に転がすと目の色が変わった。
台の上に転がる複数の覚醒器。不良界隈でも時折噂が流れてくる、能力者に成れる道具の存在に色めき立ったグループの面々は、リーダーが自慢げに指先に火を灯して煙草に火を灯す姿を見て、我先にと手を伸ばした。
当然、遙もそのひとりで、周囲が氷や風などと言った現象を引き起こし、たまり場が興奮の坩堝と化すのは自然の成り行きだった。
口には出さない物の、彼らとて遙と同じ、非日常に憧れ、寄り集まって結局は日常の位置がずれてしまっただけの一般人だ。
能力という、眼に見える非日常を手にしてしまえば興奮するのも当然のことで、彼らは自身が身につけた能力を誇る様に振り回した。
リーダーが持ち込んだ覚醒器は職場にくる顧客からの伝手だという話で、正規品としての印はされていなかったこともあり、能力を持った面々も出来る事はそれほど多くない。
そんな中、遙だけは、本物の能力者と遜色ないと言えるレベルで能力を発現させることができた。――できてしまった。
最初こそ不良たちは遙を羨んだ。だが、それはすぐに遙という異物に対する嫉妬と不和の視線へと変わる。
当然だろう。同じように社会からはみ出し、同じように日々を過ごしていたはずの仲間がひとりだけ突出した力を得たのだ。面白いわけがない。
それは覚醒器によって能力という非日常に手が届いたという期待があったからこそ、求めていた幻想の中にも格差という現実が存在したという拒絶反応に近かった。
結局、遙は居心地の悪さからたまり場から足を遠のかせ、たった数週間前だというのに、今ではすっかり縁が切れたと言えるレベルまで関係が冷え込んでいた。
世間一般の言う日常からも足を踏み外し、その上で不良という日常の中の非日常からも転げ落ちた自分は、果たして今非日常に居るのだろうかという考えが遙の頭に過る。
結局、確固とした答えを得る事も出来ず、曖昧で浮ついた立ち位置に揺れるように学校に顔を出したりサボったり、不良グループと共にいた時と同様の生活を送っていた遙は、退屈凌ぎにネットで話題になっていた話題に眼を付けた。
俗に世直しとも、義賊とも言われ、公的には不法自治活動集団と称される“彼ら”。
能力を持ち、裏社会に潜む悪を叩き潰し、その手柄は要らないとばかりに政府に投げてよこす“彼ら”。
どこにも居場所がなく、日常の退屈と刺激不足、心に燃える物を宿せなかった遙が雲の上を見上げる様な羨望を抱くのは至極自然な成り行きと言えた。
遙ほど行動的に日常からはみ出している訳ではない青少年ですら話題にし、口に出す出さないは違えど憧れに似た意識を向けている存在を、遙が憧れないという理由がない。
会えるとは思っていないものの、もしかしたら近くで捕り物を見物できるかも。そんな野次馬精神にも似た考えで、表向きには見回りと自身に言って聞かせた路地裏の徘徊を始めたのは1週間ほど前。
だが、目新しく感じた、テンションが上がったのはほんの数日で、すぐにそんな妄想みたいな事は起きないと片隅で現実を囁く自身の心の声に、遙は気力が削り取られる様な錯覚と共に息を吐きだした。
表向きに、ただ不良が徘徊しているだけのように見せているのは、そんな内心の子供じみた期待を周囲に見せない為の格好つけ。
心の底ではありえないと分かっていながら期待している、他の有象無象と変わらない自分への失望。
先が見えない現在の自分の在り方への不安。それらが入り混じった溜息が白く濁って空へ。
現実から逸れていた意識を引き戻す様に、遙の後方から慌ただしい音が響く。
一瞬遅れてそれが足音である事に気づき、半身をずらして端に寄りつつ其方へと振りむこうとするが、足音の主はそれよりも早く遙の隣を通り過ぎる。
「っ」
避け損ねて肩がぶつかり、遙は咄嗟に文句を付けようと相手を睨む。
だが、ぶつかって来たのが異国人風の顔つきの男であったこと、何を言うでもなく、急いでいるとばかりに走り去って行く姿に呆気に取られて声を掛け損ねた遙は、次いでスリの可能性に思い至ってポケットを確かめる。
持ち物など、携帯と少額しか入っていない財布程度しかないが、それでも盗まれるのは業腹だと考えた遙はしかし、ポケットのふくらみが無事である事に安堵しつつ、ふと、足元に転がる先ほどまでなかったものに眼を留めた。
「(落とし物か……?)」
拾い上げた遙は、それが漢文で書かれている事から異国人風の男が中華系の人間である事を把握し、次いで、読めないなりになんとなく文面を追った後、小さく息を吐く。
「はぁ……仕方ねぇ。暇だしな」
落とし物を届けてやろう、などという親切心を捻り出すにも暇であるという理由を捻らなければならない自身の面倒臭さに辟易する様に、やれやれと、既に見えなくなってしまった男の跡を追いかける。
昼間の路地裏を急ぐ異国人。それを追う自分というシチュエーションに何かを期待していないといえば嘘になるだろう。
それ故に、遙は男の背中を捉えた後も、あえて声を掛けるようなことはせずに後を追いかける。
路地裏を経由し人通りの少ない方へと歩いて行く男に釣られていく内に、微かに混ざる潮の香りを嗅ぎ取った遙はつい最近あった港での大捕り物を思い出す。
「――」
久しく運動から離れていた所為か、はたまた緊張所為か。喉が渇く感触と、自分の息遣いや動悸が大きく感じる中、男の姿がとある建物の中へと消えて行く。
人目につかなさそうな場所で足を止めた遙は建物の全体を見上げ、そこが埠頭の倉庫街の端である事に今更ながらに気づいた。
それほどまでに視野が狭くなっていた自覚も出来ぬまま、遙は右耳のピアスに指を這わせて息を吐いた。
「はぁ……。よし」
息をひそめ、足音を立てないように気を付けつつ、遙は男が入って行った倉庫の扉を薄く開け、中を覗き見る。
「(何してんだ?)」
昼間だというのに暗い屋内から中華言語と思しきぼそぼそとした会話が洩れており、男ではなくとも、誰かが居る事は確かなようであった。
だが、入口からでは中に何があるのかわからない。少しの間じっとしていた遙だが、すぐに痺れを切らせて扉の隙間を大きくして身体を滑り込ませる。
幸いにして、倉庫の中は広々とはしているものの、いくつかのコンテナが大きく場所をとっており隠れる場所には事欠かず、今は積み込む予定らしい箱がいくつも表に出ている事もあって男の様子を窺うには丁度いいと言えた。
遙は手近なコンテナの影に身を隠して覗き込んでいると、話し合いが終わったのか、追跡してきた男と会話をしていた同郷と思しき男が出入口へ――遙が身を隠すコンテナの傍へとやってきてしまう。
「(ヤバッ)」
慌てて息を潜めた遙の傍を男たちが通り過ぎて行き、その足音が遠ざかったのち、扉の開閉音と同時に全くの無音へと辿り着く。
「はぁー……」
安堵の息を漏らす遙は、緊張から解かれた反動からか、この場にある荷物の中身が気になって仕舞い、そっと手近な箱の蓋をずらす。
そこに顔を出したのは、袋詰めされた白い粉。
小麦粉、と考えるのが一般的なんだろうが、遙はしかし、この場の雰囲気や最近の事件も合わせてすぐにこれが麻薬だと確信した。
確信したとはいえ、ただの一般人でしかない遙に断定できるだけの術はなく、完全な印象のみでの話だ。だが、遙にとって真偽は重要ではない。
「――マジか。ヤッベェ。闇取引じゃん。ヤバいってマジ」
明確に、裏社会という非日常に足を踏み入れたという興奮。
取引現場だろう先ほどの光景を思い出し、憧れる【リコリス】が見ているかもしれない光景と同様の物を見たという喜びが沸き上がる。
だが、すぐにその感情は取引現場らしきものを見ていたというのに何もせずに男達が消えるのを待ってしまった自身への憤りへと変わり、遙は内心で舌を打つ。
「(オレはクラスの奴等みたいにイキってるだけの奴とは違う。オレならやれたはずなんだ。なのに――)」
結局は、自分も安穏とした日常の中からテレビのニュースを見て自分ならこうしたなどと妄想を垂れ流すクラスの連中と同レベルなのかと、踏み出せなかった自身の情けなさに顔を顰める。
とはいえ、今からでも警察に通報すれば少しは格好も付くだろうか。そう考えた遙だが、すぐに頭の片隅で語り掛ける声によって踏みとどまる。
「(……今通報したって、ただの悪戯か、結局忍び込んだお小言貰うだけ。決定的な証拠と共に突き出さないと)」
思考に没頭していた遙は、ここが危険な場所だという事実が僅かの間ながら頭から抜けてしまっていた。
――ガチャ。
扉の鍵が開く音が静寂を裂き、遙はハッと我に返る。
「(ヤバッ。馬鹿かオレ! とにかく、隠れる場所――!)」
ここで能力に頼らない辺りが、遙の一般人――能力使用者である由縁だろう。
能力者は基本的に、いざという時は能力に頼る傾向が強い。それは能力が自分自身のアイデンティティに深く絡み合っているが故、能力者は自分の能力をあることが前提と考えることが多いからだ。
逆に、遙の様に覚醒器などで能力を得ている能力使用者にとって、能力とはあくまで特殊な力。本来自分が持ちえない、秘密兵器のような扱いに近い。
それでも訓練していれば天然の能力者と同じように反応する事も出来るだろうが、遙は何の訓練もしていない。
だから、咄嗟に手近な扉の空いたコンテナに飛び込んだのは、ある意味必然と言えるだろう。
「(気づくな、気づくな、気づくな……!)」
コンテナの中は積み込み途中の箱がいくつもあり、既に積み込まれた荷物の間にも隙間があることで隠れるのには困らない。
荷物の隙間で身を隠し、外の様子に耳を澄ます遙の耳に異国の言葉が流れ込んでくる。
いつまでいるのか。早くどこかに行ってほしい。
先ほどまでの捕まえてやろうなどという気勢はすっかりどこかへ行ってしまっていて、祈る様に目を閉じていた遙は、ガタリと大きく音を立てたコンテナに思わず声を漏らしそうになる。
だが、すんでのところでとどまる事が出来、安堵を浮かべようとしたのも束の間。
――バタン。
コンテナの中が闇に包まれ、音が消える。
「(は?)」
思わず顔を挙げた遙は、一瞬遅れて自分が閉じ込められてしまった事を知り、慌てて外へ出ようとしてコンテナの外でまだ音がしている事に気づいて身を固くする。
「(ど、どうしよう……)」
いつまで待てばいいのか。待ったとして、扉を開ける事は出来るのだろうか。
いくつもの不安が浮かんでは消え、結局身動きできずにいるうちに、遙を乗せたコンテナが大きく揺れた。
「おわぁっ!?」
とうとうな揺れに体勢を崩した遙が荷物に埋もれる。
幸い、蓋の空いた箱の中身は粉を積んだ袋だったため、衝撃も声も纏めて吸収された事で大事には至らなかったが、遙は自分を乗せたコンテナが動き出した事を全体の揺れから察してしまう。
「(どこに向かってるんだ……まさか、あいつらの……!? 冗談じゃねぇ! さっさと逃げないと! けど今すぐ外に出るのは無理だ、チャンスを待たないと)」
非常事態の中、自分でもよく頭が回ると自画自賛したくなる遙だが、コンテナの揺れが収まって暫く経った頃、その判断を後悔することになる。
ぎぃ。ぎぎ……ぎぃ。ぎぃ……ぎぎぃ。
船底から伝わる不規則な揺れに、暗闇の中で遙は見えない天を仰ぐ。
「船……ははっ。マジかよ……」
外の音がなくなり、それでも外に出る勇気を持てず、随分と時間が経った後で携帯で連絡を取ることを思い出した遙が圏外という表示と共に、既に22時を回ってしまっている事に気づき、もはや自棄に近い感覚と共にコンテナの扉をこじ開けた遙を待ち受けていた光景が、先の暗闇と揺れる足元。
「……オレ、何処に連れてかれるんだろ」
揺れ方からして船だろうと考え付いたのも、自身が入っていたものがコンテナで、置いてあった場所が港だったことからの想像であった。
だが、その想像は間違いではないだろう。暇を持て余し、少しでも気を紛らわせようと始めた携帯の明かりを使った周辺探索からも、出てくるのは遙が見たこともない本物の拳銃や、先程も見た薬物らしい粉、遙が身に着けているものに近い覚醒器らしきものと、明らかに公にできる物ではないのだから、直近のニュースでもあった密輸組織の仕業と考え、その手段が船だというのも頷ける話であった。
「だからどうだって話なんだけどな」
思わず自嘲気味に呟いた声が船底から伝う軋む音に呑まれて消えて行く。
半日の出来事にも関わらず、色々あり過ぎて疲労してしまった遙はコンテナの中に潜り込んで扉を閉める。
荷物をいじってクッションを作り、その上に転がれば、遙はいつの間にか意識を失ってしまっていた。
――さり。さりさり。さりさりさりさり。
意識の浮上と同時に、遙の耳に異音が届く。
「んぁ……」
ぼんやりとする頭。自分がどこで寝ていたのかも一瞬忘れ、聞き慣れない音を、金属が擦れ合う音だなとなんとなしに感想を抱く遙。
だが、直後に響くコンテナが軋み開く音には自身が今置かれている状況を思い出し、
「(ヤバい、隠れる暇が――)」
もはや身構える以外出来る事もないタイミングに、遙が身を固くして暗闇に適応した眼を凝らして扉を見つめていると、ひとりでに開かれたように見える扉の先で、小さな人影が声を挙げた。
「あら。先客がいたのね」
密輸船の貨物室という、おおよそ似つかわしくないシチュエーションを切り裂く様な涼やかな少女の声が遙の耳に届いた。