3-5 夜鷹の止まり木5
温泉回。
浴衣を持って部屋を出た出雲は廊下を歩き、大浴場の場所を示す看板を見つけて中庭の方向へと足を向ける。
出雲が宛がわれた部屋は東館の2階の端に位置しており、大浴場は逆側、西館の1階の端に存在しているようであった。
中庭の脇を通る廊下はガラス張りになっていて、屋内からでも中庭を観賞できる様にとの配慮を感じさせる。
外の景色とは裏腹に、完全に人の手によって作られた、ある種の調和によって成り立っている中庭へと視線を向けながら歩く出雲は誰ともすれ違わないことをありがたいと思う反面、果に案内されて部屋へと至る間にも誰とも遭遇しなかった事を不思議に思っていた。
施設を出てからここまでカレンダーなどの正確に日付がわかる物を見ていないが、少なくとも長期休暇や行楽シーズンでなくとも旅館に自分たち以外の客が一人もいないというのはそれはそれで問題なのではと考える出雲であったが、なんにせよ現在の格好を見られた日には言い訳の仕様もない事には変わらない。
ならば早々に証拠を隠滅してしまおうと歩む足取りを早めて思考を打ち切る。
程なくして見えてきた暖簾に安堵を浮かべ、そそくさと白抜きで温泉マークの描かれた青色の暖簾を潜って脱衣所へと入れば、檜の香りに混じる温泉独特の硫黄の香りが鼻腔を擽った。
脱衣所に誰もいない事にほっと胸をなでおろした出雲は念のためと脱衣籠をさらっと見て周り、何も入っていない事で風呂場に誰もいない事を最終確認する。
浴衣を一緒に持ってきた大判サイズのタオルと共に籠のひとつに収め、ボロ布に近くなってしまった衣類をささっと脱ぎ捨てて丸め、浴衣を置いた籠の隣の籠をひっくり返してその中にしまってぱっと見ても見つからないように苦し紛れの偽装を行ってから、手拭いを腰に巻いて意気揚々と大浴場へと繋がる曇りガラスの扉を開ける。
途端に、脱衣所の比ではない硫黄の香りと、湯気を孕んだ熱せられた空気が顔に辺り、出雲は久方振りの風呂への期待を高くして後ろ手に扉を閉め、シャワーへと向かった。
シャワーから吐き出される暖かな流水を頭から浴び、シャワーの近くに置かれていたシャンプーとコンディショナー、ボディソープで入念に身体を洗い、随分ととさっぱりした気分になった出雲は機嫌よく湯船へと向かう。
硫黄臭が立ち上る乳白色の液体で満たされた広々とした湯船の横に外へと通じる曇りガラスの扉を見つけ、逡巡の後にせっかくならばと露天風呂へと向かう事を選んだ出雲は扉を開けて外へと出る。
外へと出た瞬間、まだ日も沈んでいないというのにシャワーによって少しばかり温められた身体には冷たいと感じる風が吹きぬけ、湯気を上げる水面へと早く身体を沈めたいと足早に露天風呂へと向かった。
「……はぁー」
足からゆっくりと身体を沈めた湯船は屋内と同じ乳白色をしていて、自身の胸元すらも消してしまうような濃い白色に包まれ、温泉特有のぬくもりが身体を芯まで温める感触に出雲は思わず目を細め、口からは小さく声が漏れる。
「(本当、湯船にゆっくり浸かるなんて何時振りだろう……)」
ぐっと乳白色のお湯の中で身体をいっぱいいっぱいまで伸ばしながら、開けた空へと目を向けつつ、出雲は身体の疲れとは別に、どこか、内側に凝り固まっていた物が解れて行くのを楽しんでいた。
暫くそうして時間を忘れゆったりと寛いでいると、耳を占めていた水音以外の人工的で硬質な音が響き、出雲は屋内へと続くすりガラスの扉へと目を向ける。
ここ数日ですっかり見慣れてしまった赤い髪がドアから現れ、カガリも湯船に浸かった出雲を認識して声をかけてくる。
「お、よう出雲。お前もか」
「はい、南条さんにお勧めされたので」
「あー……」
「僕の格好、あんまりだったのを指摘せずに遠まわしに教えてくれたんですよ。気配りが上手でいい人ですよね」
「……そうだな」
はにかむように微笑む出雲に、なんともいえない表情で言葉を濁すカガリであったが、あえて話題を切るように湯船へと身を沈める。
その様子に出雲は内心首をかしげるも、あえて深く突っ込む事もないかと言葉を飲み込み、改めて浮かんできた別の疑問をカガリへと向ける。
「……そういえば、煤賀さん、って呼ばれてましたけど、カガリさんの名前ってやっぱりコードネームってやつですか?」
「ああ、三肢鴉は知ってのとおり、お前が監禁されてた政府の非合法施設みたいな所を襲撃したりするからな。面で顔隠してコードネームで呼んで、素性バレを避けるわけだ」
「へぇ……」
「まぁ、お前みたいに既に顔が割れてて本名じゃ普通に生活できねぇって奴とか、元の名前を捨てたいって奴なんかは普段からコードネームで呼び合ったりするな」
「なるほど……」
ミケ姐なんかは本名隠したいタイプだぜ、と。
付け加えたところで、カガリは自身がまだ本名を名乗っていない事を思い出し、ついでとばかりに自己紹介を済ませる。
「ま、そんな訳で、俺の本名は煤賀燎だ。改めてよろしくな」
「はい、よろしくお願いします」
「燎のカガリ、ってな。わかりやすいだろ?」
「判りやすくていいんですか?」
「俺の場合は本名で活動する分には問題ねぇからな」
カガリ――燎はこう見えて、奇抜な髪の色を除けばどこにでも居るような青年であり、事実、実名報道されるような犯罪行為を素顔で行ったこともない。
ゆえにコードネームを名乗るのは一種のスイッチの様な物なのだと説明すれば、出雲はなるほどと納得すると同時に素朴な疑問を燎へと向ける。
「……そのコードネーム、自分で決めたんです?」
「いや、気に入っちゃ居るが、考えたのはリーダーだぜ。っつか、コードネームとか偽名を必要としてる奴の名前を考えんのは大体リーダーだな」
「じゃあ、僕の名前もリーダーが考えてくれるんですね」
「そういうこった。……っつか、お前もう生まれついての名前を名乗れないってのに、あまり落ち込んでねぇんだな」
「……あぁ。その事ですか」
簡単な事ですよ。
と、出雲は言葉を区切って緩やかに笑みを作った。
ズキリと胸の奥が痛んだ気がしたが、それも気のせいだとごまかすように、切なさと苦しさを諦観で塗り潰した様な、仄かな病的さを滲ませる笑みで出雲は答える。
「――道敷出雲は、もう死んでいますから」
温泉に浸かっている身体は暖かいはずなのに、どこか温度が下がったような、ひやりとした悪寒が燎の背を這う。
しかし、そのような表情を見てしまった燎は安易な言葉を吐く気になれず、無理に笑ったような出雲の濡れた頭をくしゃりと撫でる。
「……さて。長湯しちまったな。俺は能力の性質的にのぼせるって事はねぇが、お前は大丈夫か?」
「はい、僕はまだ平気です」
「明日は支部を案内すっから、今日はちゃんと休んどけよ」
それだけ言うと、燎は湯船から立ち上がって屋内へと戻っていく。
その背中を見送り、出雲は再び乳白色の不透明な水面へと視線を落とし、そこに映る自身の顔をじっと見つめる。
「僕は……何なんだろう」
小さくつぶやかれた言葉は絶えず注ぎ込まれる湯の立てる水音にかき消されて消え、出雲が温泉を後にしたのはそれから暫く経ってからの事であった。