0-3 終焉へのプロローグ4
ばら撒かれたゴミを蹴り散らして立ち上がった出雲の背後、すぐ近くにまでやってきた足音へと向けて、出雲は半ば反射的に右手に持っていた鞄を叩き付ける。
硬いものに鞄が当たる手ごたえを感じる間も惜しんで再び逃げようとする出雲の右腕が引かれた。
振りほどこうとした拍子に鞄が手から離れ、制服が破ける。
切り裂かれた腕から血があふれ出し、痛みに呻く声を噛み締めて出雲は走る。
「グルッ、ルルルルゥ゛!!!」
出雲の背後で唸り声が響いた。
まるで、ただ追い回され、嬲られるだけの玩具に思わぬ反撃を受けたのが堪らなく不愉快だとでも言う様な。
先ほどまでの殺意や害意といった感情に混じる明確な怒気に、出雲は自身の行いを後悔する。
だが、攻撃していなければ先ほどの時点で既に捕まってしまっていただろう事は明白であった。
「はっ、はぁ、はっ、はッ……ッ!」
走り続け、息も絶え絶えとなった出雲が既に背後に気を配るほどの余裕もなくした頃。
「――ぁ……ぐぅッ!?」
とうとう、普段さほど運動をしていたわけでもなかった、一般人でしかない身体が悲鳴を上げて足が縺れ、出雲は盛大に地面に転がる。
傷つけられた腕がコンクリートの地面にぶつかって痛む。
必死に足を動かそうとするも、震えて思うように立ち上がる事すらできなくなってしまっていた。
「……ひ、ぅ……はぁ、はぁ、はぁ……」
乱れきった呼吸で後ろを振り返ると、悠々と追いかけて来たであろう異形が曲がり角から姿を現すところであった。
「……み゛た、なァ゛」
ガチガチと打ち鳴らされた牙から漏れ出す、人の言葉に似たナニカに、出雲は戦慄する。
「ひっ、ァ……ッ!」
悲鳴染みた呼気が漏れ、這ってでも遠ざかろうとした出雲の身体の上に、ずしりと重たい感触がのしかかる。
すぐ近くに感じる獣染みた鼻息に、必死にもがこうと腕を動かす出雲であったが、元より膂力も違えば体格も違う。
身長は170cmに僅かに届かないといった程度の出雲に対し、異形の狼男はゆうに2mはあろうかという大きさであった。
逃れられるはずもなく、出雲の耳元で獣が楽しげに囁く。
「イイねェ……その顔、ゾクゾクすル」
「ぁ、ひ、ぃ……!?」
荒々しく吐き出された呼吸は熱く、逃れようと身を捩る出雲の姿を嘲笑うかのように、掠れた声が響く。
「女じゃねェのが残念ダ」
「――ッ、ァ゛!?」
生まれてこの方受けた事のない鮮烈な熱を伴った痛みに、出雲の視界が明滅する。
頭からさぁっと血が引いていく感覚に気が遠くなるも、灼ける様な痛みがそれを許さない。
「ん゛、ん゛ん゛ぅ゛……ッ!!!」
異形の手によって塞がれた出雲の口から漏れる嗚咽染みた悲鳴に、狼男は楽しげに噛み千切った出雲の耳を舌の上で転がしてみせる。
何のことはない。出雲にとって必死の逃走劇だったそれは、狼男にとってはただのお遊びでしかなかったのだ。
出雲の瞳から苦痛以外での涙があふれる。
「(こんな、こんなのって……いやだ、いやだいやだいやだ……死にたくない。まだ、まだ死にたくないよ……ッ)」
悔しさと悲しさと恐怖が入り混じる叫びが塞がれた口の中で暴れ、ろくに動く事も出来ない身体が悲鳴を上げる。
「サて、何処から喰ッてヤろうカ」
「――んぅーっ、んー!!」
「逃げらレても面倒ダ、足かラにスるカ」
態と聞かせるように口を歪める狼男に、出雲は覚悟を決めて足の痛みを耐えようと目を瞑り――
「――ァ、は……ッ!?」
「やッパり腹カらにしヨう」
「……ぎ――ァ……」
振り上げられた爪が、深々と出雲の腹部を貫いた。
鋭い爪と毛深く太い腕が皮を突き破り、肉を裂いて骨を砕き、そのまま背中を突き抜けてコンクリートの地面を穿って止まる。
もはや言葉に出来ないほどの痛みの中で、徐々に自身の体温が流血として溶け出していくのを感じながら、ぼやける意識と視界の中、出雲は目の前の異形を見上げていた。
「(……僕も、能力者だったら……死なずに済んだのかな……)」
能力者だから生きて、一般人だから死ぬ。
この様な痛くて辛くて苦しい死が、たったそれだけの違いで訪れるのであれば。
なんて理不尽なんだろうか。
自然と思考が澄み渡るような、そんな錯覚の中。
ただ――
【死にたくない】
そう願う意思だけが出雲の中で研ぎ澄まされていく様だった。