幕間7-1 永冶世忠利の事件簿5
秋も深まり始めた10月の第2週。
世間では紅葉シーズンも盛りという報道がしきりにメディアを賑わせ、各地の行楽地では紅葉狩りや、少し気の早いメディアなどはクリスマスに向けた特集などを始めている季節。
とはいえ、都内、それも環状線の内側となれば自然物は公園などにでも行かねば然程縁があるとは言えない環境であることに加え、昨今の情勢に合わせた忙しなさで季節感とは別の意味で賑わっているビルの中で職務に追われている永冶世忠利にとっては無縁のものであった。
肩書としては警視庁公安部能力対策課の課長、地位にして警視正という、本来であれば影を踏む事すら出来ない地位にその身を置いていた。
というのも、従来通りの出世コースであれば、キャリア組の中でも一際優秀であった永冶世といえども20年、長ければ30年は勤め上げなければその地位にはたどり着けないほどである。
だが、未だ30にも届かない若輩である永冶世が曲がりなりにもひとつの課を――それも公安部というエリート集団の中の一部署を――預かっているのには、昨今の法改正が多大な影響を与えていた。
能力者法案とそれらに関係する改正法。その内容は多岐に渡るが、大きな特徴としてメディアでも取り沙汰されていたのは主に、“能力者であれ非能力者であれ、優秀なものは年齢に寄らず相応しいポストに”というものだ。
資本主義の競争社会においては至極真っ当な実力重視の政策は真っ当に実力を持つ若手には大きな支持を受け、既に盤石な地位にある実力者にも概ね受け入れられており、メディアでもどのような工作があったのかは定かではない物の、世論的には受け入れた数という形で実施されていた。
永冶世はそうした流れの中、警察という国民に対する安全保障の顔とも言える機構におけるテストケースとして異例の昇進を果たしたひとりと言える。
当然、そういった流れを良しとしない、慣例で出世し、慣例で定年までやっていこうという向上心も能力もどこかへ置き忘れてしまった人々からの妨害もないではないが、そうした人材は得てしてそれなりのポストに収まっているという事もあって永冶世の職場である公安部にはさして影響があるとは言えず、実力と政治が絡み合って推挙された永冶世の働きぶりに当初は懐疑的だった部下も今ではしっかりと上司として認識されるに至っていた。
「……はぁ」
そんな永冶世が、自らに宛がわれた部屋の窓から見える秋服で彩った町行く人々を見下ろして小さく溜息を吐いていた。
行楽日和な世間に対して関われない自身を嘆いている――わけではない。
元より仕事が恋人のような生活を送って来た生真面目な男である永冶世が溜息を吐きたくなるだけの理由はむしろ、一般市民には知らされていない事情によるものだ。
「他国からの工作員がマフィアに扮して密入国しているなどと、世も末だな」
世間では日本は能力者法案をはじめとした能力に纏わる飛躍的な発見や発表、進歩的な法整備によって一躍“能力先進国”になったなどと言われているが、それはつまり、その波に乗り遅れた――というより、意図的にはしごを外されて置き去りにされた他国が黙っていないという事だ。
民間に公開された技術や能力使用者といった人材、加えて政府主導で行われている技術開発など、今や日本は世界からすれば未発掘の鉱脈に近く、どうすれば算出される莫大な富を掠め取れるかと表に裏に蠢いているのが現状である。
今は表立って“お前たちの技術をよこせ”などとバカげた主張をする国は少ない――ゼロではない、というのがなんとも救いのない話だ――が、少し政治に興味のある一般人でも他国が頻繁に口に出す技術協力や共同研究などという文言はそれに等しい意味を持っている事を容易く看破するだろう。
だが、一般人が認知しているのはそこまでであり、永冶世が対処せねばならないのはその裏側――表向きでの技術の吸い出しが芳しくない以上、裏から手を回して流出ないし奪取しようとする国々が差し向けた工作員達の対処だ。
表向き、一応は同盟国の大海を挟んだ国はまだマシだが、それよりも近い、お隣の大陸に犇めく国々の言い分は表側であれど眉を顰めるレベル。……であれば、裏で何が起きているかなど想像の遥か斜め下を行くといえばいいだろうか。
研修生に交じっている工作員の割合が7割を超える、などというのはまだ序の口で、密入国してきた不法労働者や、日本に住んでいる在日の2世や3世などを祖国での対応を釣り上げる事を条件に国外脱出の空手形までチラつかせてテロ紛いの陽動に使うなどという事件。果ては不法能力者対策局の手柄などと言って世間で持て囃されている活躍は、日本国内における裏社会の勢力バランスを根こそぎにしてしまっており、出来上がった空白地帯に誘蛾灯の如く工作員達が扮する海外マフィアや本物の外国人犯罪者組織などが多数押し寄せる形となり、いまや日本は水面下での紛争地帯と言っても過言ではない程の状況となっていた。
いくら仕事人間である永冶世といえど辟易してしまうのも無理からぬことだろう。
……そうした事情を知らせるわけにはいかない物の、それにしてもメディアの能天気さに呆れている、というのも多分にしてあるだろうが。
――コンコン。
と、そのような事情に遠い目をしかけていた永冶世は課長室の戸を叩く音に現実へと引き戻される。
「入れ」
「お邪魔するっすよ」
「……なんだ、猫舘か」
端的な入室許可の後に扉を手に抱えた段ボールで押し開けて入室してきた同期の姿に、やや気を張っていた永冶世の集中力がプツリと途切れる。
「あー。やっぱ忙しい感じっすねぇ」
「まぁな。そっちもそれなりに忙しくなったんだろう?」
「いやー、俺の方はあれっすよ。結局のところ資料室勤めってのは変わりないんで、そこそこ自由にさせてもらってるっす」
気の抜けた顔で苦笑し、労ってくる猫舘の様子に先程とは別種の息を吐いた永冶世だが、その内心は安堵や平穏といった要素はそこまで多くない。
「すまない。俺がもう少し動けていればいいんだが。巻き込んだ立場で猫舘ばかり動かして」
「いやいや。俺も一度やるって決めたっすからね。それに、永冶世さんは一番目立つ場所にいるんだから動きづらくても仕方ないっすよ」
永冶世が謝罪するのは、警察内部をはじめ、どこまで上が関与しているかもわからない闇に葬られた事件の追跡を自身が始めたにも関わらず、自身は忙しさにかまけて巻き込んでしまった猫舘に調査をほぼ丸投げしてしまっている現状にたいしてのもの。
道敷出雲という少年から始まった数年にも及ぶ調査は未だ闇を見通すには遠いが、それでも、この行為が無駄ではないという思いが永冶世と猫舘の共通するモチベーションであった。
「最近は漸く課としても纏まって動けるようになってきたからな。実働が多いのが良い経験になったというのはあまり喜べることでもないが、これで俺もそちらに割く時間を増やせる」
「程々にしてくださいよ。働き過ぎで倒れられても困りますからね」
猫舘がそう言って机の端を見やれば、つい先ほど飲み干したばかりなのだろうエナジードリンクの空き缶があり。空き缶専用らしいゴミ箱の中身も同様だろうと溜息を吐いた。
そこまで見透かされている永冶世は困った様に顔を背けるが、すぐに席を立つと軽い外出用の鞄を手に取り、
「さて。猫舘、いまから食事に出ようと思うんだが、時間はあるか?」
「お給料の違い、見せてくれてもいいんすよ?」
「ははっ。近場に安くて量があるレストランがあるんだよ」
「そんなんだから浮いた話ひとつでないんすよ」
「今はそんな話をしている場合でもないだろう?」
軽口を叩き合って課を後にした永冶世達の後ろでは、部下たちが忙しなく次に摘発する予定の闇組織の情報の洗い出しや手口についての情報を擦り合わせており、猫舘はたしかにこの様子なら永冶世がトップからあれこれ指示を出さなくとも回るだろうと感心するのだった。
「それで、進展があったんだろう?」
「そっすね……」
能力対策課のビルを抜け、涼やかな風に眩しい日差しの照り付ける歩道を歩くふたりは何気ない調子で口を開く。
同期と食事に出るというのも嘘偽りない理由だが、本題はむしろこちらにあると言って良い。
いくら公安部の部署といえど、警察上層部を含めどこに耳があるか分からない。であれば課長室といえど与えられた場所で詳細を訪ねる事は憚られた。
猫舘もそれを重々承知している為、こうして何気ない用事でともに外出する事は多く、同僚たちからは立場が変わっても続く同期の友情として暖かい目を向けられていた。
そんな猫舘たちが話す内容は、とてもではないが胸が温まる様な話ではなく。
「やっぱり、10年くらい前からの記録が意図的に歯抜けになってるみたいっす。それも――」
「我部元主任が関わっている」
「直接的には関わってない件もあるっすから、一概には言えないっすけど、単なる汚職や隠蔽の中に紛れてるっていう印象っすかねぇ。ただ……これじゃああまりにも証拠としては弱いっす」
猫舘が項垂れる様に首を振る。
それには永冶世も同意するしかないが、立ち止まる訳にはいかない。
始まりはただの汚職やもみ消し、冤罪に対する義憤であった。だが、今となっては大きな陰謀があるという、輪郭に触れた確信から真相を暴かねば、そして、もし一般市民が犠牲になる様なものであれば何としても止めなければという使命感が強くなっていた。
だが、それが途方もなく難しい事を同時に理解している永冶世はぽつりと猫舘に問う。
「最近の情勢、妙だと思わないか?」
「確かに、我部博士が発表した内容が原因で世間が騒がしいってのは間違いないっすけど……まさか、この状況まで読んでたって言いたいっすか?」
さすがにそれは無茶がすぎるだろう。どうシミュレートすれば世界情勢に爆弾を叩きつけた後まで予見できるのか。と、敵の輪郭の巨大さを補強するような物言いに疑念の視線を向ける。
だが、永冶世は冗談という雰囲気でもなく視線を前に向けたまま小さく頷いた。
「ああ。どこまで読んでいるかは定かではない。だが、俺の立場や今の状況があまりにも噛み合いすぎている気がしてな……」
その懸念は、能力対策課という新設部署に永冶世という、かつて我部の下で能力者対策を行ってきたという経験があるだけの若手をトップに据える。そしてその課はいまや日本全国の暗部に巣食う能力者や他国勢力に対抗して多大な成果を上げるに至っているという、ある意味で出来過ぎた筋書き。
その大枠の流れが、何かしら我部に対して利益があるのではないか。そうした思考が片隅から抜けない永冶世の心境そのものであった。
そう言われてしまえば、たしかにそうかもという懸念が猫舘の脳裏にも浮かぶ。
だが、気にしすぎても仕方ないと、連れ立って外出したもうひとつの話題について触れようと猫舘が口を開きかけた時だ。
――ガシャン!
真昼間の都心の歩道で聞くには不釣り合いな、ガラスが割れる様な不協和音が響く。
何事かとふたりがそちらへと目を向けると、そこにはニット地の覆面を被ったいかにもな不審者が割れたガラスを踏みしめてコンビニから飛び出してくるところであった。
「真昼間から大胆っすね!」
「というよりは、日本の治安がここまでひどくなってしまったのかと嘆きたくなるな!」
言うや、ふたりはどちらともなく鞄を抱えた推定強盗犯へと駆け出して永冶世が代表として声を張る。
「そこのお前! 警察だ! そこを動くな!!」
ビクリ、と。わかりやすすぎるほどに硬直した覆面へと駆ける永冶世達。だが、コンビニのガラス戸から慌てるようにして出て来た似た覆面を被った不審者たちが現れ、
「うるせぇ!! たかがふたりの警官ごときが指図してんじゃねぇぞ!!」
ボボッ。覆面のひとりが中空に掲げた手から火の手が上がる。
その瞬間、永冶世は表情には出さない物の内心で舌を打つ。
振り下ろす様に火を飛ばしてくる腕に見えるアクセサリーには見覚えがあり、最近検挙した闇取引でも見つかった人為的に能力に覚醒させる道具。
こんなものが出回っているから、と。永冶世は姿勢を低くし、火の玉が頭上を掠めていく熱を感じながらも覆面のひとりへと滑り込む様に足をかけ、
「ともあれ、強盗及び公務執行妨害、暴行に能力不正使用の現行犯だな!」
「ぐあっ!?」
足を引っかけられ、地面に勢いよく転ばされた覆面の手から炎がふっと掻き消える。
この程度の能力使用者であれば冷静に対応できれば何も問題ないと、ひとまず意識を奪った永冶世は油断なく立ち上がり強盗グループらしき覆面の制圧に乗り出すも、
「以下同文っす!」
「ぐべっ!?」
どしゃり、と。すぐ隣で同様に綺麗な一本背負いを決めた猫舘と、受け身の取り方を知らないのだろう、強かに背を打ち付けて悶絶する覆面の姿に永冶世は軽く驚いてしまう。
「猫舘――」
「反復は、得意っすから!!」
実技の成績が芳しくなく、一応エリートといえるキャリア組の中にははいるものの、永冶世から見ればお粗末としか言いようのない猫舘が、まさかこれほど鮮やかに制圧してみせるとは。
かつて身を守るためと互いに訓練をしたこともあったが、ここ最近では互いの忙しさとデスクワークで自身の腕が鈍っているのではとすら思う永冶世だったが、すぐに携帯を取り出して応援を呼ぶ。
「……食事どころではなくなってしまったな」
「っすねぇ。とりあえず、この腕輪は没収してっと」
「だな」
気の抜ける猫舘の調子に苦笑を滲ませた永冶世は、はやく情勢が落ち着かない物かと――落ち着ける為の一助とならねばと気を引き締め直すのであった。




