2-11 ホームシック9
出雲という人の形をした嵐が過ぎ去った後、よろよろと立ち上がった青年――永冶世忠利は、握りつぶされたと言っても過言でない折られ方をした右手の痛みに耐えながら慣れない左手で携帯を取り出して番号を押した。
幾度かのコール音の後に、捜査本部と通話がつながった事を示す微かなノイズが耳元で響く。
「特殊能力対策課、2等捜査官の永冶世です。作戦は失敗、識別名【黄泉渡】は依然逃走中。対象と交戦し、重傷者多数。至急救急車の手配をお願いします」
通話口へと、できる限り抑揚を殺し、痛みをこらえながら報告すれば、すぐに通話の向こうが慌しくなる。
そこへ、再び誰かが通話口に出る物音が聞こえた。
『どうしました?』
聞こえるのは壮年の男性の声。
永冶世にとって聞き覚えのある丁寧な言い回し。しかし、どこか催促するような調子に、永冶世は端的に答える。
「すみません、失敗しました」
『失敗?』
意外そうな声は、永冶世を信じていたと言うよりは、どうして失敗したのかへの興味が勝っている様であった。
永冶世にとって男のその反応は少々意外であった物の、こうしている間もずきずきと痛む右手や、回収までに少しでも重傷者の手当てをしなければならないと考えれば、むしろこの場で長々と叱責をされないと言う事が気遣いのように感じられた。
「はい。対象は逃走。負傷者を多数抱えている現状では追跡は不可能です」
『……詳しい経緯を聞かせてもらってもいいかね?』
負傷者という言葉を聞き流し、やたら逃がしてしまった理由に拘っている様子の男にさすがの永冶世も不信感を抱いた物の、まさか上司であり、尊敬すべき先達でもある相手に抗議するわけにはいかず、内心の不満を押し殺して端的に報告する。
永冶世が極力客観的に語ろうとする間、基本的に相槌を打って聞いていた男は時折端的な問いを向ける事で永冶世の主観を求める。
それに対して律儀に答えながら永冶世が報告を終えると、男はふむと押し黙り、数秒後に再び男の声が響く。
『つまり、突然人が変わったように暴れ始めた、と?』
「はい。まるで死体が動いているような錯覚をしましたよ」
スーツの袖の上から掴まれたにも拘らず、出雲の手は体温を感じないどころか、まるで死人のように冷め切っていた。
自身の右手首が握りつぶされた時の魂まで鷲掴みにされたような怖気を思い出し、背筋に冷たい物が走るのを押さえ込むように永冶世は答える。
『なるほど、《能力拡張》を起こした可能性があるな』
「アップデート、ですか?」
『稀に居るんだ。危険な能力を更に研ぎ澄まし、能力の性能を向上させるような存在が』
「では、【黄泉渡】もそうだと?」
『ああ、私の知る道敷出雲は不死とも呼べる再生の能力者だったが、それ以外は軒並み平凡、悪く言えば能力者としては下の部類だったはずだ』
「奴の銃創が目の前で完治するのを俺も見ました。噂には聞いてましたが、まさかあれほどとは」
肩を撃ち抜いた不慮の一発、それが抉り抜いた傷口から溢れ出した血液が一瞬にして蒸発し、衣服の穴が無ければ着弾したことが幻だったのではと思うほどの完治の早さ。
当時を思い出し、確かにあれでは不死身を疑われても仕方が無いと、永冶世は出雲捕縛の作戦前に渡された捜査資料にあった、誇張としか思えなかった表現に対する評価を上方修正する。
『ともあれ、道敷出雲はこれからますます危険になるだろう。引き続き捜査を続けてくれ給え』
「了解しました。我部特別捜査顧問」
ブツリ、と、通話の切れる音が耳元で聞こえ、永冶世は静かに息を吐き出して携帯をポケットへと仕舞う。
遠くから聞こえてくるサイレンの音に緊張の糸がぷつりと切れ、永冶世は痛みに顔をしかめて右手へと視線を落とす。
「……【黄泉渡】」
ズキズキと意識に割り込んでくる痛みの狭間に、先ほど対峙した少年の表情が明滅する。
狂った様に笑う悲しげな少年の顔は、駆けつけた救急隊の麻酔によって痛みが沈静化するまでの間、永冶世の脳裏に映り続けていた。
◆◇◆
すでに深夜と呼んで差し支えない時刻。
月明かりはおろか、街灯すら見当たらず、闇が凝縮したような小さく狭い路地の隅に出雲は膝を抱えて座っていた。
「はぁ……」
出雲の存在は闇に溶ける様な希薄さで、重く吐き出された溜息だけが、この場に出雲と言う存在を繋ぎ止めているようですらあった。
取り巻く闇に勝るとも劣らない虚ろな瞳は唯一の出口である路地の先へと向けられている物の、出雲に何かを見ていると言う意識はない。
ただ、瞳を閉じる事すら億劫であるという理由で、出雲は自身が歩んできた路地の方を眺めていた。
静かな場所を探してこの場所へとたどり着いたはいい物の、出雲はそこから一歩も動く気力が湧かなくなってしまっていた。
「(ほんと……もう、どうでもいい……)」
どうせ何処にも行く宛てなど無いのだから。
そう、重い息に混ぜて吐き出せば、出雲は自身の胸にぽっかりと風穴が空いているような錯覚が益々酷くなる。
銃弾でいくら穿たれていようとその場限りの痛みであると知っている出雲は、いつまで経ってもふさがらず、内側からじくじくと侵食するような鈍い痛みを伴うその穴の塞ぎ方が判らずにいた。
――ザリ。
不意に、靴が地面を踏みしめ、砂利が擦れる音が出雲の耳に届いた。
それは出雲が目を向けていた路地の先、闇の中から聞こえ、次第に出雲の方へと近づいてくる。
だが、それを理解した所で出雲は立ち上がる気力も、あえてそちらに視線を集中させる必要性も感じていなかった。
そして、闇の中からはじめに靴が現れ、次いで現れた足で、出雲はその人物が女性らしいと認識する。
「探した」
聞こえた声は、つい最近聞いた声であった。
淡々とした声の主はまた一歩近づく事で出雲にその姿を認識させる。
素足を惜しげもなく晒したショートデニムに、黒のタンクトップ。
こげ茶色の猫っ毛と、側頭部に斜めにかけられた猫のお面。
闇の中できらりと光る眠そうな金色の瞳が出雲の虚ろな瞳と交差し、無気力な表情を向ける出雲へと美花は躊躇う事無く目の前まで近づいてくる。
目の前に立った美花を漠然と見上げた出雲であったが、美花の行動によって初めて表情に変化が起きる。
「――っ」
「つらかった。ね」
何の前触れも無くしゃがみ込んだ美花は出雲の頭を抱き自身の胸で包み込んで頭を優しく撫でた。
ただ、一言。
同情でも慰めでもなく、労わる為だけに紡がれたとわかるその声音に、出雲の頬からは自然と涙が流れ、溢れ出した雫が美花のタンクトップに染みを作る。
「ぼ、く」
「喋らなくていい」
「……っ」
出雲は美花の腕を、身体を、言葉を通して体温が自身に流れ込んでくるような錯覚を覚えていた。
それと同時に身体の中に敷き詰められていた冷たさが消えて行き、乖離した心が身体に戻ってくるのを感じる。
声を押し殺してなき続ける出雲を、美花は抱きしめ続けた。
それから暫くして、漸く落ち着いた出雲はおずおずと美花の胸元から顔を離す。
「あ、の……美花さん」
「何?」
「僕は……ここに居ても良いんでしょうか?」
不安げに紡がれた言葉に美花は一瞬悲しげな顔を浮かべた物の、すぐに普段の眠そうな仏頂面へと戻り、出雲の頭をポンと撫でる。
「居ちゃいけない人なんて、いない」
「でも、僕……もう、死んで――」
「リーダーが最初に言ったはず。三肢鴉には死んだはずの人間も沢山居る」
立ち上がった美花は右手を出雲の前へと差し出して告げる。
「今までの出雲が死んだなら、これからの出雲は私達の仲間」
出雲は差し出された手をじっと見据え、それから美花を見上げる。
力強く断言する美花の金の瞳が、出雲にはとても輝いて見えていた。
「……改めて、よろしくお願いします」
「ん」
美花の右手を握り立ち上がった時には、出雲は胸に空いた風穴の痛みを感じなくなっていた。