2-8 ホームシック6
短い言葉だが、それゆえに聞き違えようも無く出雲の耳に突き刺さり、その心を凍て付かせる。
「……え?」
辛うじてそれだけを吐き出した出雲の表情は血の気が失せ、青を通り越して白になったと言った方が妥当だという程であった。
再び訪れた沈黙は痛々しく、刺すような空気が漂い、同じく言葉を失っていた奈江は夫が何を言っているのか理解できないと言う風に、譲の顔を凝視したまま動きを止めていた。
その沈黙も長くは続かず、背を向けたままの譲が再び口を開く。
「出て行けといったんだ……」
「な、なんで……? 父さん、僕は――」
「出て行け! 二度と帰ってくるな!!!」
「――ッ!?」
真意を確かめようと問いを重ねる出雲の方を振り向いた譲の視線は鋭く、出雲にはまるで怒っているように感じられた。
普段から父親とあまり接する機会も無く、また、叱られる様な性格でもない出雲は初めて見る父親の表情に怯え、先ほどまでの縋るような視線を引っ込める。
生まれて初めて父親に本気で怒られた挙句、どう聞いても勘当に相違ない文言をたたきつけられ、出雲は思わず瞳の端に浮かんだ涙を拭う間も無くリビングから飛び出した。
一拍遅れて聞こえる奈江の声が何を叫んでいたが、錯乱した出雲にはそれが何を叫んでいたかを理解する余裕もなく、靴を履く事すら忘れて家の外へと駆ける。
夕闇の涼やかな風が頬を嬲り、溶けるような暗さは出雲の姿を覆い隠す。
靴下が汚れる事も、道行く帰宅中であろう会社員や学生の注意を集めてしまっている事もまるで気にする余裕もなく、出雲は無我夢中で走った。
ただ、少しでも家から離れたくて走り続けた出雲の脳裏には先ほどのやり取りが幾度と無く繰り返し残響し、出雲の心を締め付けていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
疲れるはずの無い身体が悲鳴を上げるようで、嗚咽の混じった荒い息が口元から零れる。
施設からの脱出や、ホテルから自宅までの逃避行。その間ですら息が切れることも、悲鳴を上げることも無かった出雲の肉体。
それが人間の駆動を遥かに超えて限界を無視した出力で駆動し、筋肉が千切れ、骨が軋む鈍い音を響かせていた。
悲鳴を上げる肉体の痛みすら気づかぬほど、出雲は錯乱していた。
我を忘れ、現実から逃げる出雲の姿は、一言で表すならば“異常”。もしくは、“化物”と呼ぶにふさわしかった。
やがて、コンクリートによって舗装された地面が土へと変わり、出雲はその拍子にバランスを崩して盛大に転んだことで動きを止める。
「……ぅ」
その時には既に涙は引いており、頬についた汚れを拭う事も無く緩慢な仕草で体を起こして座り込む。
視界に映る景色は暗く、ぽつり、ぽつりとまばらに照らす街灯の明かりと、空から見下ろす月の光のみが、蒼く澄み渡った世界を映していた。
時折風に揺られてざわめく木の葉、錆び掛けた滑り台と、石畳によって仕切られた砂場。街灯に照らされ、ギィ、ぎぃ。とゆれる錆びれたブランコ。
転んだ事で冷や水を浴びせられたように思考が動き出した出雲は、そこが昔親に連れられてきた事のある公園である事を知る。
以前来たと言ってもそれは監禁された時よりも遥かに前、まだ妹が生まれてすら居ないころであった為、出雲がその事実に気づくまでには少々の時間を要した。
深く息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった出雲は土汚れを気にする事も無く、微かに揺れるブランコに近づき、錆びた鉄の匂いのする鎖を支えにしながら腰を下ろす。
「……はぁ」
季節でいえば、夜であっても肌寒いとまでは行かない季節である。
にも拘らず出雲は直感的に寒いと思ってしまうが、その寒さが果たして気温による物なのか、寂れた夜の公園という景色による物か。はたまた、自身の境遇の所為なのか。今の出雲には理解できなかった。
吐き出す息は白くないので物理的には寒くないのだろうなどと、行く当ても無ければ出来る事も、するべき事もなくなってしまった出雲は、暗い空に白く穿たれた穴のような月を見上げてぼんやりと理解する。
まるでかみ合わない思考に、出雲はまるで夢のようだと、どこか他人事のように考えていた。
既に夜も深まっている為、寂れた公園に近づく者など誰も居ない。
今ばかりはそれを有難いと感じるのもつかの間、酷な静けさは無心であろうとする出雲に否が応でも先ほどの光景をリフレインさせる。
考えないようにすればするほど意識はそちらへと向いてしまい、何かで気を逸らそうにも周囲に全く変化がなければそれも長くは続かない。
行く宛など無いのだが、それでも長く一所にとどまるよりはマシだろうかと、出雲が腰を浮かしかけた時だった。
公園の端の木が風に揺れて葉が擦れ合う音まで聞こえてきそうな静けさの中、ふと、出雲は違和感を覚える。
いくら人気が無いとは言え、この公園は住宅街からさほど離れて居るわけでもない場所にある。
夜の住宅街ならば各家庭からの物音が聞こえてきてもいいはずだが、しかし、いくら出雲が耳を澄ませてもそれらしい音は聞こえてこない。
不自然さから、早くこの場を立ち去ろうと立ち上がった瞬間。
静寂を裂いて大勢の駆ける足音が出雲の耳に届いた。
何事かと身構えた所で夜の暗さが一転して白く眩み、出雲は思わず手で目元を覆う。
「抵抗するな、お前は既に包囲されている!! 大人しく投降しろ!!!」
目が急激な光量の変化に対応するよりも先に、投げかけられた言葉が出雲に端的に状況を理解させた。
向けられた数多の照明に目が慣れ、光の筋の奥に陣取ったスーツを身に纏った集団が公園を封鎖する様に盾を並べ、隙間から銃を出雲へと構えているのを認識する。
出雲は改めて、自身が追われる立場であった事を今更ながらに思い出したのだった。