8-30 交渉戦
控室に黄泉路と共に残された唯陽の心境とは裏腹に、扉を一つ挟んだ外側では混乱の嵐が吹き荒れていた。
「はろーはろー。こちらゆーひお嬢様の携帯から電話してまっす」
「……何者だ。どうして唯陽の携帯を持っている?」
「まーまー、別に心配するよーな事は何一つ起きてねーってのは先に言っとくね。俺の事は味方殺しって言えばわかる?」
通話先、努めて冷静な声を取り繕う終夜司が僅かに呼吸を止める。
静かすぎる廊下の壁に背を持たれたままの己刃は静寂を逃さず言葉を重ねた。
「俺からの要求は単純。黄泉路と試合させて」
「試合だと……? いや、それよりもまず娘を出せ」
「別にいーよ? さっきも言ったけど、俺、おじさんと違ってやましーことしてこの電話してるわけじゃねーからさ。単純にお嬢様本人から借りただけだし」
「借りただと……? まぁいい、まずは娘の安否を確認させろ。話はそれからだ」
「おーけーおーけー。ちょっと待ってなー」
どのような口八丁で娘から携帯を取り上げたかは定かではないが、唯陽の声さえ聴ければ最低限の安全は保障されている確認になるだろうという司に、己刃は携帯から顔を離して黄泉路達のいる控室をノックする。
僅かな間の後に扉を開ければ、相変わらず距離の近い唯陽と、すぐに視線を寄こしてくる黄泉路が視界に入った。
己刃はすぐに何食わぬ顔で携帯をひらひらと振って唯陽の視線を誘導しつつ、黄泉路へと視線を向けて言外に意図を伝える。
すなわち、自分と試合をする為のお膳立てへの協力についてだ。
たとえ娘の携帯から電話をする事で間接的に娘は預かっているというアピールが出来たとして、当人の声を聴くまで納得しないというのは想定してしかるべき。ならば己刃が電話口に立っている間、黄泉路に好意を寄せているらしい唯陽の誘導を黄泉路に任せようというのが己刃の考えであったが、視線を合わせたまま小さく頷く黄泉路はしっかりと仕事を果たしてくれた様子であった。
「ゆーひっちー。悪いんだけどお父さんがどーしても娘出せって言うんだけど、電話出てくれねー?」
「あ、はい。わかりました」
すっと席を立って己刃に立ち替わり電話口にでた唯陽は、心配しすぎるにもほどがある父親へと勝手に控室までやってきてしまった事を詫び、ついで道案内を買って出てくれた己刃を褒め、最後に黄泉路と己刃は試合がしたいのだという意向を伝えた。
それは己刃が望む最良の流れで、思わずぐっとこぶしを握りたくなるのを我慢して黄泉路へと楽し気な顔を向ける。
黄泉路からすれば綱渡りも良い所で、何よりも唯陽をここから安全に退避させなければという義務感の中では、己刃の笑顔は警戒を強める要因にしかならないのだが、己刃にその自覚はない。
ほどなくして、会話を終えたらしい唯陽が困惑気味に携帯を黄泉路の方へと持ってくる。
「すみません、黄泉路さん。お父様がどうしても黄泉路さんとお話がしたいと……」
「わかった。唯陽さん、ごめんね」
その謝罪は現在進行形で騙している事と、意図していない事にまで巻き込んでしまったが故のもの。とはいえ本来、どちらかといえば巻き込んだのは唯陽の方で、更に言えば目を付けた己刃が悪いのであって黄泉路に非はない。
そうした本質的な事情はさておいても謝罪の意図を理解しかねる唯陽であったが、すぐに手間を掛けさせた事へと社交辞令だと受け取った唯陽は安心させる様な穏やかな表情を浮かべて携帯を黄泉路へと手渡して微笑む。
「? ……いえ、私はこちらでお待ちしていますのでどうぞお構いなく」
「そーそー。俺がしっかりゆーちゃんについてるからさ」
「……わかったよ」
追撃の様に便乗した己刃の一言が黄泉路の胃壁を削るが、何を言っても栓のない事だ。
意識を通話へと切り替えてふたりから離れて電話口に立てば、つい数時間ほど前に聞いた男の声が耳に届く。
「迎坂黄泉路か?」
「はい。お電話代わりました」
「一旦、その場を離れて貰えるか」
「いいんですか?」
「構わん。目的の前に堪えられないほど理性がないわけでもないようだからな」
「……わかりました」
指示に従い室外へと出れば、廊下を静かに流れる冬の寒々とした空気が黄泉路の肌を撫でる。
幸い、暑さ寒さに関して耐性をもつ黄泉路である。吐く息が白まない程度の寒気程度であれば気に留めることもなく電話の向こうに居る司へと唯陽から離れた事を伝える。
「迎坂黄泉路、目的は何だ?」
「……?」
「折角個別に話す機会をくれてやったんだ。しらばっくれる必要はない。【味方殺し】と共謀して何をしようとしている?」
「あの、何か勘違いしていらっしゃいませんか? 僕は唯陽さんをどうこうしようなんて考えていませんよ」
「何だと?」
「ですから、僕も巻き込まれた側だと言っているんです。唯陽さんの手助けをするつもりでここまで来ましたが、それだけです」
「……」
電話越しの沈黙。恐らくは司も独りになれる場所から通話しているのだろう。互いの環境音すら聞こえない静寂に、小さな耳鳴りめいた音が聞こえ始めた頃。
電話の向こうから衣擦れの様な音と共に、重く深みのある男性の声が響く。
「迎坂君。望みを言いたまえ」
「いえ、ですから――」
「取引だよ。俺は娘を安全に取り戻したい。そしてそれは君も協力してくれている、違うか?」
「……その通りです」
「ならば協力の見返りを設定しなければフェアではない――いや、飾る事は捨てよう。……そういった建前が無ければ信用は出来ない」
「利益があればこその信用ということですか」
「そういう事だ」
恐らくは、後ろ盾があるかも定かではない相手に対して白紙の小切手を切る様な取引を持ち掛ける事は大層なリスクが伴う事を熟考したうえでの司の提案に、黄泉路は不審な物は無いと頭の中で条件を反芻しながら沈黙する。
「(何を提案すれば納得する……?)」
むしろ、今黄泉路を悩ませているのはそうした際限のない小切手をどう落とすか。
なにしろ黄泉路がここにいる理由は現在も裏で潜入している美花達の為の陽動に過ぎない。そこに少しばかりの私情が挟み込まれていようとも本筋は変わりなく三肢鴉の依頼のためだ。
そちらの事情に踏み込む様な取引を持ち掛ければ要らぬ危険が潜入組に掛かる上、相手は今後も日本に存在し続ける大財閥のトップである。
組織として財閥と敵対するのは得策ではないし、そうした判断をする権限を黄泉路は持っていない。
それこそ支部長会合等で協議して決めるべき大きすぎる案件だ。故に、黄泉路は個人の裁量で司を納得させられる落とし所を探さざるを得ない。
「(ちょっと卑怯だけど……)そうですね。では」
所詮は問題の先送り、そう分かっていながらも、互いに気にする必要のない約束になればいいと黄泉路は口を開く。
「貸しひとつということでお願いします」
「なんだと?」
「一度だけ、借りを返したと思うだけの便宜を図って頂くだけで充分です。此方から何をどうしてほしいと要求するつもりはありませんので、そちらが無理のない裁量で構いません」
「それでは結局取引にならないではないか」
「申し訳ありませんが、ただ巻き込まれただけの立場で何かを求めるというのは、有体に言えば怖いんですよ。言うでしょう? タダより高い物はないと」
「――ふ、はは、ははははっ……! なるほど、確かにその通りだ」
言ってしまえば、それは司の抱く取引を持ち掛けた感情の鏡映し。互いに探り合うくらいならばいっそ互いに求め合わないこの場限りの善意として流してしまえという黄泉路の暴論にも似た丸投げには、政財界に根を張る百戦錬磨たる司も苦笑するほかない。
否、むしろ、この場に至っては愉快で笑ってしまったという方が正しいだろうか。
「いや失礼。立場上善意という言葉には懐疑的でな。つい疑り深くなってしまうのだ。……信じがたいが、これ以上長引くのも不味いか。いいだろう。これは借りとしておく。それから……娘を守ろうとしてくれたことを感謝しよう」
「自分から首を突っ込んだようなものですからお気になさらず」
「では此方からの善意ということでひとつアドバイスを贈るとしよう」
「アドバイスですか……?」
聊か口調が軽くなったように――ともすれば親しみさえ抱いている様に錯覚してしまうような司の声音に内心訝しむものの、ここで追及して話を蒸し返す時間は残されていない。
「君との対戦を望んでいる行木己刃だが、俺の所まで報告が上がるほどの厄介者だぞ」
確かに地下闘技場は終夜という組織が肝入りで行っている一大事業であり、直接的な統括指示こそ司の手を離れている物の、その実権は当主である司が握っている。
その為必要とされる報告や裁可は司にも上がってきている。――逆に言えば、行木己刃という青年を雇用するという情報は司にまで上げざるを得なかったほどの重大事件だったとも言えるのだと、司は端的に口にする。
「アレはまさしく闇の中で生まれた寵児だな。俺も会話するのはこれが初めてだったが、あれがどういう経緯でここに潜り込んできたかは知っていた」
「潜り込んで……?」
「君も、多少心得がある上に天然の能力者ならばこの世界には闇に跋扈する能力者が相応にいることは知っているだろう?」
「……ええ、まぁ」
既に能力者であるということを隠すのは難しく、むしろそうした勢力のひとつだろうとあたりを付けていてあえて口に出さないといった風の司の言葉に、黄泉路は曖昧に濁した反応をせざるを得ない。
とはいえ元より互いに詮索をするつもりのない会話である為、司は飄々と話を掘り下げる。
「あれはその中でも最大勢力――というには、いささか組織立っていないという話も聞くが、孤独同盟と呼ばれる組織が仲介して此方に流れ着いたという話だ」
「――!?」
ここへきて、因縁の有る組織の名前が飛び出した事に黄泉路は思わず呼吸を止める。
「経歴が経歴だからな。わが社としても危険因子は放置できないとあって探りを入れた。……結果、あいつは横のつながりのみとも言える同盟内ですら持て余される狂犬だった」
「狂犬……? とてもじゃないですけど、そんな風には」
「だろうな。俺も実際会話して事前に知っていた情報との食い違いに驚いた。だが、殺人鬼というのは得てしてそういうものなんだろう」
「!?」
能力者が闇に潜み、時に凶悪な事件の首謀者ともなる現代においても、殺人鬼というワードは苛烈だ。
何らかの目的の果てに人を殺す事はあっても、人を殺す事を目的に人を殺す者などそう多くはないのだから。
だからこそ、殺人鬼という単語の重さに黄泉路は背筋が凍り付く。
「大丈夫なんですか、今、唯陽さんが一緒に――」
「今だからこそ、だ。迎坂黄泉路君。行木己刃が今目を付けているのは君だ。だからこそ、その為のお膳立てに必要な唯陽は生かされている」
「そう、でしたね。すみません、取り乱しました」
「いや、いい。娘の事を気にかけてくれているのは好ましく思う。……ここまで伝えた上でもう一度問おう」
司はそこで一度言葉を区切り、十分にためを作る様に沈黙した後に、短く言葉を発する。
「その様な危険人物と、娘の為に戦えるか?」
短くも重い問い掛け。故に、黄泉路は簡潔かつ明瞭な答えを返す。
「はい」
黄泉路の決心とも取れる返答に満足した司は再度電話を己刃に代わるよう告げると、電話の裏で会場にいる客に不審がられないよう急速にエキシビジョンマッチの設定をするよう指示を飛ばし始めた。