8-29 行木己刃
画面から目が離せなかった。
行木己刃という青年の胸中に渦を巻き、今にも溢れんばかりに全身を焦がす衝動が行き場を求めて熱を帯びる。
「やっべーやっべー。すげーいーな。さいこーかよ……」
自分の声が遠く、他人の言葉の様に聞こえる浮遊感の中でも己刃の瞳はタブレットの画面を――試合が終わった直後の会場を映し続ける中継を見続けていた。
そこに映っているのはひとりの少年。
つい先ほど知り合ったばかりの、生と死の匂いが入り混じった矛盾の塊の様な少年。
初めて目にした時、己刃が抱いたのは純然たる興味だった。
既に仮面をつけていた為正確な歳は分からない。けれど体つきからすると自分より年下。そんな子供ともいえる年齢の少年が違法賭博、しかも能力有りの地下闘技場に出場するというのは中々にないことなので、それなりの理由と立場があるのだろうと適当に納得すれば、とりあえずは興味も落ち着き、もはや自身の専用になりつつある外様用の控室に案内されただろうことにもさほど興味はなくなっていた。
聞かれるまま、思うままに話をする己刃に裏表はない。その時その時の感情がストレートに出ると言えば聞こえはいいが、交渉に向かないといえばそれまでの人格であると己刃は自分を評価していた。
だからこそ、己刃は準決勝が終わるタイミングで自身の適正を悔いることになる。
「あー、あー……くっそー。どーすればやりあえる……?」
一度は失った興味に火が付いたのは、気まぐれに黄泉路の初対戦に目を向けた時。素人目にも鮮やかな勝利に映ったそれは、己刃の目には手を抜いている様に感じ。
続く第2、第3試合を見るうちにそれは確信に変わった。つまるところ、黄泉路という少年は本物の殺し合いを知っている――己刃と同じ種別の人間だと。
とはいえ全く同じではない。どこか焦点のずれた鏡を見る様な違和感に、己刃はついつい黄泉路を目で追っている自身に気づくと、内側で燻る衝動が身体を突き動かす様に、己刃はタブレットを片手に控室の中をぐるぐると彷徨う。
――確かめたい。
己刃の内心を占めるたった一言が己刃という個を突き動かす。
手始めに内線を使いエキシビジョンを組む様におねだりをするが、それは当たり前の様に却下されてしまう。
以前にも気まぐれで追加対戦を組んで貰った事があったため、断られたのは今回が特別だったのか、前回が特別だったのかと僅かに理性を働かせて思考するも、結局は黄泉路と相対できないのならば考えるだけ無駄だと区切りをつけ、とにかく動かない事には始まらないと、居てもたってもいられなかった様子で部屋を飛び出した。
◆◇◆
父親の下を飛び出した唯陽は本来ならば足を踏み入れることのない選手用の区画へと足を踏み入れていた。
とはいえ、暫く歩いたところでその足取りは確信を失い、唯陽はとうとう通路の一角で足を止めてしまう。
「……どうしましょう。道が分かりません」
ついてくると聞かない使用人を振り切りここまで歩いてきた唯陽は左右にわかれた殺風景な通路を前に、どちらに進むべきかの指標もないまま立ち尽くす。
唯陽の思惑では道すがら従業員に話を聞けば良いという、勢い任せの行き当たりばったりが躓いてしまったともいえる。
本来ならばこの時点で引き返し、父である終夜司にでも文句混じりに面会を求めた方が早いのだろう。だが、月浦と交渉している場はあくまでも唯陽のお見合いという体裁があるため、そこで別の男性に意識を向けている事を露骨に出すのは憚られた。
だからこれは、あくまでも自分自身でやらねばならないことなのだと唯陽は改めて意を固めて分かれ道を選ぶ。
自然の道ほどぐねぐねと節操なく曲がりくねっている訳ではないが、それでも大した看板も無く似たり寄ったりの景色が延々と続く通路は筋金入りの箱入りお嬢様である唯陽を心細くさせるには十分であり、家出の時とは違い誰にも頼る事の出来ない不安は歩くごとに唯陽の足を重くさせる様で。
場所に対する不安と、黄泉路に早く逢いたいという焦燥から注意力も薄れて角を曲がった時だ。
――どん、と。
目の前に何かが覆いかぶさる様に影が落ちると同時に感じた、壁とはまた違う生体的な柔らかさを持つものと衝突した衝撃に思わず転びかけ、
「きゃっ」
「おっと」
思わず上がる悲鳴と、ぶつかってしまった側の声が混じる。
倒れ込みそうになる唯陽を声の主である青年が支えれば、唯陽は対格差もあって倒れる事無く傾いた姿勢のまま中空に制止する。
「……黄泉路さ……あ……」
「うん?」
ぶつかった衝撃に思わず目を閉じていた唯陽は抱き留められた感覚から、もしかしたら黄泉路がと淡い期待を抱いて目を開き、そこにあった顔に人違いであった事を理解して思わず声を詰まらせてしまう。
まず目に入るのは、あまりにも派手な頭髪。
淡いピンクと水色が灰とも白とも取れる髪色に交じり、グラデーションを描く様な配色。
一目見たら一生忘れられないだろう髪に気を取られていた唯陽だが、ずっと支えてもらっていては迷惑だろうと慌てて体勢を整えようとすれば、青年はきょとんとした顔ながらも姿勢を誘導して唯陽が直立できるようになってから手を離す。
「あ、あの、すみません」
「うんにゃー。別にいーよ。俺もちょっとちゅーいりょく散漫だったし」
独特の語感で喋る青年は目つきとは裏腹に緩い印象を与え、唯陽は思わず内心で安堵する。
「(よかった……怖い人ではないようですね)」
「なーなー。さっき黄泉路って言ってたけど、キミ、むかっちの知り合い?」
「えっ、はい、まぁ、そう……ですね。知り合いです。あの、あなたは……?」
青年の口から黄泉路の名が出たことに、それも黄泉路と顔見知り以上だとわかるようなニュアンスの問いかけに唯陽は首を傾げる。
「俺? 行木己刃。やみっきーって呼んでくれていーぜ?」
「あ、申し遅れました。私、終夜唯陽と言います」
「……」
素直に名乗りを上げた己刃に応じ、自身の名を明かした唯陽であったが、己刃がぴたりと時間が止まったように唯陽を見つめたまま動かなくなってしまったことで、苗字まで告げたのは失敗だったかと内心で悔いていれば、再起動したらしい己刃は幾度か目を瞬かせると、緩い笑みを浮かべて口を開く。
「しゅーやのお嬢様だよね? なんでこんなとこに?」
「あの、えっと……黄泉路さんに、会いに行こうとして……道に迷ってしまいまして……」
「あちゃー。この中めっちゃ入り組んでるもんねー。しゃーないしゃーない。良かったら俺が案内しよーか?」
「えっ。よろしいんですの!?」
思ってもみない申し出に唯陽は思わず声を上げる。
本来であればもう少し警戒すべき所、だが、終夜のお膝元――それも直轄の裏部署を歩いている様な人間であるという事も踏まえ、唯陽は自然と己刃に対する警戒が緩んでいたのも合わさり、ありがたい提案に乗ってしまう。
「俺もちょーどよみよみのとこに行こーとしてたから」
「そうなのですか。そういえば、やみっきーさん? はどうしてここに? 従業員にしては……その、聊か煌びやかですし」
「あっはっはー。派手な鳥頭してんじゃねーぞって言ってもいーんだぜ? まぁ、俺はあれだよ。雇われ用心棒みたいなー?」
「用心棒……ですか?」
「おーよ。強いぜー俺」
けらけらと楽し気に笑いながら並び歩けば、先ほどまでの一人っきりの殺風景な廊下に感じる心細さも嘘の様で、唯陽は打てば響く様にぽんぽんと言葉を返し、話題がコロコロと変わる己刃の不可思議な会話のリズムすらも楽しいと思いながら廊下を歩く。
不思議と、誰とも出くわさないままに辿り着いた扉の前。己刃がノックを数回すれば、唯陽にとって今日一日で聞き覚えた柔らかい声が聞こえてくる。
「黄泉路さん!」
「え、唯――陽さん?」
反応があるなり扉を開けて、飛び込む様に室内へと駆け込んだ唯陽が黄泉路に抱き着く様に身を寄せれば、決勝終わりという事もあって破損した仮面を外したままの黄泉路が困惑した様子で唯陽を抱き留める。
そんなふたりの――主に唯陽の心境――など関係ないとばかりに後から入ってきた己刃はひらりと手を上げて黄泉路に声をかける。
「やっほー、よみじんー」
「やみっきー……なんでふたりが……?」
黄泉路がふたりを見た時の感想はありていに言えば困惑だ。
終夜唯陽がここまで自分に執着しているという事にも戸惑うが、それ以上に行木己刃が同行していたということに驚きを隠せない。
「いやー、ちょーど会いに行こーとしてた時にばったり出くわして、行き先一緒だったから連れて来たー」
「ええ。やみっきーさん、とても親切にしてくださって」
「そう――なんだ……」
「でさ。黄泉路」
「ッ!!」
瞬間、室内の温度が数度下がる様な錯覚が奔る。
先ほどまでと変わらない己刃の言動、しかし、黄泉路へと呼びかけた瞬間、暴力的なまでの純粋に研ぎ澄まされた殺気が室内を駆け巡り、黄泉路は腕の中に抱えた唯陽を咄嗟に庇う。
「え、え……?」
「やみっきー……。どういうつもり?」
あまりにも一瞬で黄泉路の雰囲気が変わった事に、事態について行けず、殺気などというものにも理解が及ばない唯陽は黄泉路の腕の中で困惑したように目を白黒させる。
唯陽を置き去りに黄泉路が警戒を隠しもせず睨みつければ、己刃はその視線すら心地よさそうに目を細めて楽し気に語り出す。
「いやさ。黄泉路、俺、ずっとお前の試合見てた。すっげー、すっげー恰好良かった。しょーじき、たまんねーと思ったね」
「……それはどうも」
「だからさ黄泉路。俺はお前とやりあいたい」
「っ!」
「けどここじゃダメなんだろ? だからさ。ちょっと協力してくれよ」
己刃はこう言っているのだ。ここでやりあってもいいけど唯陽がどうなっても知らないぞ、と。
己刃が野生に任せた狂人ではなく、理性を以って狂気を為す類の奇人であると意図から察した黄泉路は警戒を緩めないまでも、即座に殺し殺されという状況にはならないと意識の外で緊張していたらしい身体を解す様に息を吐く。
「……わかった」
「んじゃ、ゆーひちゃん」
「は、はい!」
突然、蚊帳の外だと思っていた所に話を振られた唯陽はびくっと肩を跳ねさせる。あわよくば現状の、黄泉路に抱かれている状況を楽しんでいたいと思っていただけに上ずった声を上げてしまうが、己刃は楽し気に笑うのみで簡潔に要求を告げる。
「携帯借りて良い?」
「え、っと。ご自分でお持ちでは?」
「いやさ。ゆーひっちは黄泉路と居たいっしょ? だから代わりに俺が心配してるだろうおとーさんに連絡しとくからさ」
その提案は唯陽にとっては図星であり、配慮に利いた物言いでもある事からちらりと黄泉路へと視線を向ける。
小さく頷き返す黄泉路によって意思が固まった唯陽がポケットからスマートフォンを取り出すと、自然な動作で受け取った黄泉路が己刃へと投げ渡す。
「それじゃーごりょーにん、ごゆっくりどーぞー? あっはっはっ」
紳士的どころか常識的とすら言い難いやりとりに一瞬呆気にとられた唯陽であるが、さっと部屋の外へと向けて踵を返す己刃の気の抜ける声と仕草に毒気を抜かれ、扉が完全にしまって外の音が聞こえなくなるまで、黄泉路の腕の中で呆然としているのだった。