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8-14 お嬢様の帰還と叛旗

 唯陽の父、終夜司が部下から娘の帰還報告を受けた際の感想は、漸くかというもの。

 不安に苛まれ、休暇中であろうと日頃から片手間でこなしている指示や決裁にも支障をきたす有様であった事も鑑みれば、帰還の報に含まれた安否に関する情報は何よりも司を安心させたことは間違いない。

 その上で現在司の思考に疑問符を灯しているのは、娘の状況に関してだ。


「自分の足で?」

「はい。手配したSPを振り切ってご自身の足で帰還されました。その上で旦那様にお話があると」

「そうか。唯陽は?」


 自らの足で帰ってきたという内容は司に対してのアピールであろう。

 手中からではなく、あくまで対等に話したいという隠されたメッセージを的確に読み取った司は顎を擦りながら娘の現在を問う。

 あくまで司が受け取っているのは既にホテルに到着している事と、身柄の安全、怪我の有無程度のものだ。唯陽が執事と共に姿を現さない事にも何某かの理由があるのだろうと問う司に、長年連れ添った執事は主が求めているであろう回答を口にする。


「現在は自室に戻られ、旦那様にお会いになる為にお召し変えを。少々御髪に乱れがございましたのでそちらの手配を並行しております。それから」

「何だ」

「お嬢様の同行者(・・・)について少々」


 こうして執事が言葉を区切り報告を分ける時は判断を仰ぐ事案が発生した時だと知る司は視線で続きを促す。


「元々当ホテルに宿泊していた方でもあったため、現在は宿泊されているお部屋にて待機して頂いておりますが、お嬢様が旦那様にお会いする際には是非同行していただきたいと強く申しておりまして……」

「何者だ?」

「支配人に確認致しましたところ、久遠寺家令嬢の友人だそうで、迎坂という名の少年でございました」

「久遠寺……京都の老舗か。あそこは妻のを仕立てて貰った事もあったな」

「ええ。奥様も大層お気に召して……」


 聞き覚えのある名前に記憶をたどり、京都に構える長い歴史を持つ呉服店とそれにまつわる思い出を掘り起こした司の視線がふっと哀愁を纏った柔らかいものになる。

 執事も当時を振り返る様に目を細め、しかし、すぐに現在に立ち返る主に倣い表情を引き締める。


「それで、どうしてその迎坂という少年がうちの娘を連れだした?」

「支度の合間でございますが、お嬢様の口からはご自身が連れ出してほしいと無理を言ったと……」

「……それだけか?」

「はい」


 執事の言葉に司は再び顎を擦り目を閉じて思案する。

 久遠寺令嬢の友人であるならば一般の出ではなく、もしかするならば社交界(そちら)の繋がりで元々唯陽と知り合いであった可能性も考えたものの、そうであるならば猶更自身が苗字に心当たりがない事が不可解であった。

 一般家庭の友人とたまたま旅行に来ていたというならば不思議ではないが、それでは逆にどこで唯陽と知り合い、行動を共にする事にしたのかという根本的な疑問に立ち返ってしまう。


「お前から見て、唯陽の様子は?」

「特段お変わりなく。どちらかと言えば同行者に非が向かぬよう言葉を選んでいるご様子でした」

「……そうか」


 こうして無事に帰ってきている以上、唯陽を脅すというにも手段が限られている。それを踏まえた上での問いかけに、同様の懸念を持っていた執事は即答で主の不安を払拭する。


「直接聞くしかないか」

「お嬢様を迎えに上がります」

「任せる。それと件の」

「はい。迎坂氏にも同行願う様に使いを出して置きます」

「月浦に悟らせるなよ」

「引き続きそのように」


 やりとりが一段落し、深く頭を下げた執事に退出を命じれば、執事は洗練された身のこなしで部屋を後にして先ほど受けた指示を遂行すべく動き出した。

 程なくして、室内の静寂を割る様にノックの音が響く。


「旦那様。お連れしました」

「入れ」


 司にとっては聞きなれた老執事の声に許可を与えれば、すっと音もなく開く扉から複数の人間が入室してくる。

 真っ先に入ってきた老執事はすぐさま扉の脇に控え、残るふたりに道を譲る様に扉を支えた後、全員が室内に収まるのを確認して扉を閉める。

 次いで入室した唯陽は僅かな緊張が表情から見て取れるものの、怪我をした様子もなく、自身を真っ直ぐに見据える母親譲りの色をした瞳に司は努めて面持ちを硬くする。

 そうして最後に入室したのは、あらゆる人間を見てきた司の眼をもってしても、瞬時には判断を下せない少年だった。

 日本人のおおよそに当てはまる目と髪の色に特筆すべき点はなく、顔の良し悪しにしても高い水準を見慣れた司にとっては特筆すべきものはないと言える。

 しかし、それらの普遍性を持って凡庸と断じるには憚られるだけの何かを、司は確かに肌で感じていた。


「(――既視感はある。だが、どこだ……?)」


 唯陽と違い、この状況でなお緊張した様子が表に出ていない事も迎坂という少年が凡庸に収まる類ではない事を確信しつつも、司は鷹揚に口を開く。


「唯陽。言うことはあるか?」


 過ぎた事、そして何より溺愛している愛娘だからといえ、今回ばかりは厳しく接さなければという考えが形となる様に硬い言葉が出る。

 唯陽はそうした圧を真正面から受けつつも、けれど一歩も引くつもりはないとばかりに進み出る。


「この度の、方々に多大な迷惑を掛けた事については軽率でした。謝罪いたします」

「力ある者が起こす行動には責任が伴う。それは常々言って聞かせたはずだ」

「はい」

「判っているなら良い。だが軽挙の理由は何だ」

「……お父様。まだお分かりにならないのですか?」


 すっと、唯陽の眼が細められる。

 それは自身の父親を試す様な不遜なものであるが、司はそこを咎めるほど狭量ではない。無能であれば血族であろうとを容赦なく切り捨てねばならない世界の住人である。そうあるならば自身もまた他者から試され続けるのも許容せねばならないのだから。


「私はたしかに小娘です。お父様の歩んだ人生からすれば見えている範囲も違うでしょう。けれど、それはお父様に私と同じものが見えているということにはならないのです」


 家出をする前、面と向かって声を荒げてぶつかり合った時とは違う。しっかりと正面に立って冷静に言葉を紡ぐ娘に、司はこの短い時間に何があったのかと頭の片隅で思案しつつも、娘の言葉を促し、また肯定する様に首肯する。

 同時に、少しばかり長くなるだろうとの予感から娘を座らせるべく椅子へと促せば、唯陽は自身に落ち着くように言い聞かせるかの如くゆったりと質の良い椅子へと腰を下ろす。


「……お父様が私の婚約に手を尽くしたいとお考えなのは、私の将来を思っての事でしょう?」

「無論だ。我が終夜財閥と月浦グループが手を組めば国内は盤石、より世界へ向けての地盤を強化できる。……これは家の事情だったな。しかし、お前に相応しい婿を選別し、候補の中でも容姿、学業、スポーツ、人格、どれをとっても素晴らしい相手を選んだつもりだ」

「ええ。ですが、それはお父様が考える素晴らしい人。私もそれを否定するつもりはありませんが、私はあの方を知らないのです。一目会っただけの方と、これからの一生は決められていると言われて、お母さまと婚約なされたときのお父様は納得致しますか?」


 司は黙り込む。老執事の言っていた推察が完全に的を得ていた事もあり、そして長らく武勇伝の様に語り聞かせた内容を棚に上げてこの場だけでも娘を説き伏せる事のリスクが頭の中に犇めいていた。


「こういった言葉にすると軽いとお考えになられるかもしれませんが、あえて、私は私の意志を口にします。――私は恋をしたい(・・・・・)のです。心のままに誰かを好きになりたい。胸の奥が燃え上がり、その両側面を氷で圧迫される様な切なくも心地良い浮遊感と共に、出来るならば相手をもっと知りたい。もっと傍に居たい。その人と共に家を盛り立てたい。そう思えるような人を、自らの目と手で捕まえたいのです。お父様はこの気持ちをご存じのはずですよね?」

「む、ぅ……」


 恋をしたい。それは恋に恋をしている若者の台詞だ。そう否定する事は容易いが、自信にも覚えがあり、それがそのまま今に繋がっている司にしてみれば、否定するには自身の感情が邪魔をしていた。

 だが、しかし司は終夜の当主である。家の――財閥の将来を考えるならば政略結婚が一番の安定を齎す事は明白であり、その為に私情を切り捨てる事は当主として見れば当然のこと。


「旦那様」

「何だ」

「お嬢様もお帰りになられてお疲れでしょう。ここは一度休憩を挟むのは如何でしょうか」


 表情に出こそしないものの、娘の唯陽よりも長い時間を連れ添った老執事にしてみれば当主である司の悩みはわかりやすいもので、助け船として本来の立場であれば決して口を挟まぬようなタイミングで発言をすれば、司は一瞬何事かと思うも、すぐにその意図を察して顎を撫で、鷹揚に頷く。


「そう、だな……唯陽も今日は疲れたろう。この話に決着がつくまでは月浦との婚約交渉は現状維持すると約束しよう。これでどうだ?」

「……ええ、ええ! ありがとうございます! お父様!!」


 緊張と真剣さから強張った表情も、父親の約束という言葉に綻んで唯陽は笑顔を見せる。

 その表情だけで老執事の介入には感謝しかない司であったが、その老執事の傍に並んで事の成り行きを見守る様に佇んでいた少年に目が留まると小さく咳払いし、


「まだ話が決まった訳ではない。唯陽よ。本心から我を通そうというのなら、それ相応のプレゼンを用意してきなさい。続きはそれからだ」

「はい!」

「それから……迎坂君と言ったか。君だけは少し話があるから残って貰えるだろうか」


 矛先が黄泉路に向いたことを察した唯陽は不安げな視線を向ける。

 黄泉路が小さく、大丈夫という風に頷いて見せれば、唯陽は不安を残しつつも、それでも信頼する様に視線を父親へと戻し、


「では、先にレストランの方へ参りますので、お父様もあまり遅くなりませんよう。実に楽しい遊覧でしたから、それなりにお腹も空いておりますの。お父様を待っていてお腹が歌う様な恥を、娘にかかせないでくださいましね?」


 努めて冗談めかすような調子で席を立てば、司はふっと笑みを浮かべて老執事にレストランに案内する様に申し付ける。

 ――パタン、と。扉が閉まる音と共に静寂が満ちれば、室内に残されたのはふたりの男。


「……さて。迎坂黄泉路といったか」


 静寂を裂くように、先ほどまで唯陽に向けていた威厳はあるも威圧的ではない鷹揚な語調から一転した、重く響く様な声音が空気を揺らした。

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