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8-12 夢見る少女の夢無き事情3

 車の往来も多い都内にあって、別段黒い車が珍しいわけではない。しかし、その外観が窓に至るまですべて黒とくれば、如何に平和ボケしたお嬢様である唯陽であってもすぐに怪しいと気付くことができた。

 ご丁寧に唯陽と黄泉路のすぐ傍で停車した車から誰かが降りてくるより先に、黄泉路は唯陽の手を握る。


「早歩きで離れよう」

「え、ええ」

「勘違いならそれはそれでよかったって事で、さ」


 不自然にならない程度の速足でその場を離脱する黄泉路がそう付け加えれば、唯陽は多少緊張がほぐれた様で。むしろ手をつないで歩いているというシチュエーションは恋人っぽいのではなどという今更にもすぎる桃色な思考が現実を忘れさせる始末であった。

 無論そんな唯陽の内心に気を配る余裕は黄泉路にはない。

 なにせ何の準備もしていないが故に顔を隠す手段を持ち合わせていない。気持ち程度髪型を変えているとはいえ、根本の顔つきまではどうしようもなく、唯陽を捜索しに来た相手に顔を見られるというのは決して良い事ではないのだから、警戒するのも仕方のない事であった。

 黄泉路がちらりと後方へと視線を向ければ、車から降りてきたのは動きやすさを重視したジャケット姿の男がふたり。そのどちらもが何を話すわけでもなく黄泉路達の後をついてくる。


「……どうやらハズレを引いたみたいだ」

「私の家の者なのですか?」

「カラオケ前に車を止めてそのままこっちに一直線って言うのはちょっと露骨すぎる。さすがに人目の多い場所で無茶はしない――とは、ちょっと楽観できないね。唯さん、走れる?」


 ちらりと向けられた黄泉路の視線にどきりと緊張とは違った胸の高鳴りを感じた唯陽は、ぽうっと赤くなった顔でこくこくと首を縦に振る。

 引かれるままに走り出した二人の足音が重れば、すぐ後ろについていた足音も慌てたように走り出す。


「どうしましょう!?」


 後方で走り出した男達の姿に思わずと言った具合に唯陽が声を上げる。

 その声は乱れた息に混ざる様に僅かな息苦しさが混ざっており、今は良くともあと数分もこのペースで走っていれば立ち行かなくなることを示していた。

 意外にも走る事が出来ている唯陽に目を向けつつ、逃げ切る為の算段を付けていた黄泉路は意を決して少しだけ足並みを緩め、


「……ごめんね。文句は後で聞くから」

「えっ、きゃあっ」


 唯陽の横に並んだのも束の間、ひょいとその身の線の細さからは想像もつかない軽やかさで唯陽を抱き上げ、おまけの様に先ほどまでとは比べ物にならない速度で走り出す。

 その様子は街中では非常に目立つもので、道行く人たちが騒めく中を黄泉路が颯爽と駆け抜けて行けば、その後を焦りを滲ませた男たちが追う。

 騒めきが広がり、必然その中心になる黄泉路達が駆ける先は何事かと道を譲るのをこれ幸いとばかりに黄泉路は駅方面へと向けて駆けてゆく。


「あ、あの――!」

「何?」

「すごく目立ってますわ!?」

「でもそのお陰で向こうも手が出しづらくなったはず!」


 彼らの目的はあくまでも唯陽の保護であり、これ以上騒ぎを大きくするのはさすがに庇いきれない醜聞となるだろうと黄泉路が説けば、唯陽は状況からくる混乱が抜けきらないまでも納得したようで、


「それで、これからどうしましょう?」

「まずは距離を離して目につかない所で一旦隠れてやり過ごそう。その後で目的地に向かう」

「目的地?」

「そういえば聞きそびれてたね。……とりあえず、続きは振り切ってからってことで。しっかり捕まって口を閉じてて!」


 指示に従い、唯陽が両腕を黄泉路の首に絡めるように抱き着けば、しっかりと姿勢が固定された事を確認した黄泉路が走る速度を引き上げる。

 一歩一歩を踏み出す足は力強くコンクリートを踏みしめて、跳躍するかのように軽やかに街中を駆ける。

 足元に舞った紅い塵は人混みに紛れるほどに微かで、冬の風に攫われるまでもなく踏み出した直後に微かな跡だけを残して消える。

 やがてふたりの追っ手の姿が後方へと離れて行けば、それまで直線的に走り続けてきた黄泉路は不意に細い路地へと入り、


「唯さん。良いよって言うまで目を瞑っててくれる?」

「は、はい!」


 既に黄泉路の説明無き指示に疑問をさしはさむ余地もない唯陽が強く目を閉じる。

 唯陽の顔を見る事はできないまでも、目を開けられていたらそれはそれでもう仕方がないと、ある種開き直った黄泉路は路地の天上に開いた狭い空を見上げ――


「ふっ」


 換気扇の外部フィルターに足を駆け跳躍、そのまま対面のビルの窓の凹凸を踏み台に、ピンポン玉の様に上へ上へと跳ね上がる。

 程なくして人ひとりを抱えているとは思えないような軽業でビルの合間から天へと駆け上がった黄泉路の足がしっかりと平面を踏みしめれば、不規則な衝撃から解放された唯陽は思わず眼を開けそうになって慌てて強く目を瞑った。


「あの、まだ……でしょうか?」


 視覚で現状を把握できない代わりに激しく動く様子がない事を振動で感じ取った唯陽がそう問いかければ、黄泉路は少しばかり悩む様に黙り込んだ後に口を開く。


「出来ればもう少しだけ我慢してもらえると嬉しいけど、難しい?」

「いえ……ですが、立ち止まっている様ですが、大丈夫なのでしょうか?」

「一応、撒くには撒けたとは思うけどね。ただちょっと場所が悪いから、唯さんさえよければもう少しだけ目を瞑っていてくれると嬉しいな」


 高所特有の鋭い風が髪を撫でる。それだけで、唯陽はなんとなしに先ほどまでいた路地とは違う場所に居るのだということを理解していたが、それを追究されたくないのだろう黄泉路の態度から沈黙する事を選ぶ。

 唯陽が沈黙した事で、静寂が封鎖されているらしいビルの屋上に広がる。

 言葉こそない物の、微動だにしない黄泉路は何をしているのだろうか。


「唯さん」

「っ、ひゃい!?」


 本能的な好奇心には抗いがたく、唯陽が物理的に遠くなった喧騒に耳を澄ませていれば、すぐ耳元で不意打ち気味に黄泉路の声が降りかかった。

 慌てて返事をしたために変な喉の上がり方をしてしまった事を取り繕う事も出来ない唯陽に、黄泉路は内心で小首をかしげながらも言葉を続ける。


「さっき目的地の話をしたよね」

「え、ええ。それで、目的地とはどこなんですの?」

「それは唯さんが教えて欲しいな。カラオケ前で行きたい場所があるっていうのを聞きそびれちゃったし」

「あっ……」


 追われている現状での目的地というならば、何処か身を隠せる場所や追っ手から逃げられる場所を指す物とばかり思っていた唯陽は思わず小さく声を上げる。

 何故ならば、黄泉路がいうことをそのままに受け取るならば――


「こんな状況でも……まだ私に付き合って下さるのね」


 あくまでもこの逃避行の中でも唯陽の行きたい場所を優先してくれるという。

 自分の身だって恐らくは危ないはずなのに。


「言っただろ? 折角の機会を無駄にしないようにって」


 それなのに、少年はまるで年の離れた妹をあやす様に苦笑して、


「それに、お父さんに自分の気持ちを伝える言葉が見つかるまで、手を貸すってさ」


 その間に普段できない観光をするくらい構わない。と、何でもない事の様に告げる黄泉路に、唯陽は胸がじんと暖かくなるのを感じながらも、釣られるようには微笑んで次から次へと上がってくる希望を口にする。


「でしたら……私、行きたいところがたくさんありますわ。渋谷にある竹下通りに、池袋にあるテーマパークのような所に、それから……」


 いくつも上がってくる候補地。まるで指折り数えてプレゼントを選ぶ子供の様に弾んだ声音の唯陽の様子に、黄泉路はキリの良い所で声を掛ける。


「なら、まずは電車に乗る所からだね。といっても、僕も行った事のない場所が結構あるんだけど」

「初めて同士ですわね」

「そうだね」


 どうやら元気になったらしい唯陽に再びしっかりと捕まって目と口を閉じる様に告げ、黄泉路はビルの上を経由しながら駅方面へと駆けた。


 適当な所で再び路地裏へと着地した黄泉路が唯陽に声をかけると、再びの路地裏に困惑する唯陽であったが、手を引かれて出た先の大通りの景色が一変している事には目を見開いて驚いていた。

 黄泉路の横に並んで駅まで辿り着いた後も、黄泉路が環状線の切符を買う場面を横から物珍しそうに眺めては、これが切符なのかとしげしげと手渡された分を観察したり、改札を抜ける際にも流れる様な人の往来に目を回しつつ、いざ自分の番になった所で切符を入れ損ねて改札に足止めされて目を丸くしたりと、唯陽にとっては初めての出来事の連続であった。

 それでもどうにか目的地のひとつでもある竹下通りに辿り着いた黄泉路が改めて唯陽に行きたい場所を問えば、唯陽は首を傾げて、


「それが、地名やどういった雰囲気なのかは雑誌などで知っていたのですけど、実際にどこに何があるというようなことは全く……」

「唯さんは竹下通りで何をしたかったとかはなかったの?」

「……お恥ずかしながら、一度でいいからこういった場所で……その、ウィンドウショッピングですとか、買い食い……ですとか、してみたくて」


 恥ずかしそうに答えつつ、言葉をつづけるうちに顔が下を向いて行く唯陽に、黄泉路は逆に感心してしまう。

 買い食いなど、別に恥じる事でもないと考える根っからの庶民である黄泉路である。買い食いというワードそのものに恥じらいを覚えているらしい唯陽の姿が逆に新鮮で、


「買い食いしたことないの?」


 ついつい突っ込んで問いかけてしまう。そうした黄泉路の素朴な疑問も、唯陽にとってははしたないという認識らしく、小さくこくこくと頭を振る。


「こういう時は郷に入ってはって言うし、それに、そういうのをやってみたくてここに来たんだろ?」

「……そう、ですね。ええ、恥ずかしがっていては始まりませんものね」


 行こう、と。手をつないだまま先導する様に歩き出すのに合わせ、唯陽は黄泉路の開けてくれた人混みの間に身を投じていった。

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