8-7 夢見る少女と黒衣の王子様
夜の闇の様に黒々とした艶やかな黒髪と同色の瞳が驚きに見開かれ、みるみる紅潮してゆく唯陽の顔がしっかりと映り込んでいた。
顔には困惑がありありと浮かんでおり、やはり根本的に間違っていたのではと唯陽は焦りのままにわたわたと一歩退き、
「きゃっ」
足がもつれ、姿勢がぐらりと後方へ、何とか頭から落下する事だけは避けた物の尻餅だけは免れようもなく、唯陽の軽い体重が重厚なカーペットと合わさり、とさりと小さな音を立てる。
あまりにも無様すぎる失態に消え入りたくなるが、状況は唯陽にそれを許さない。
「大丈夫?」
そう声をかけてくるのは、唯陽が足をもつれさせたのを見て慌てて身を起こしたらしい少年。
先ほどとは違い、しっかりと言葉として発せられた少年の声はやや高め。とはいえ身を案じられているという状況も相まって、ひ弱というよりは優し気な心地の良さとして唯陽の耳にするりと入り込んでくる。
「え、ええ」
当たり前の様に差し出された手を取り立ち上がった唯陽は、そこでふと、この見知らぬ殿方は何者なのだろうという当たり前の思考に辿り着く。
となれば当然少年の身なりに注目が行く。
終夜唯陽という上流も上流、生活、人間環境共に最上級に身を置いてきた少女にとって、身なりや身振りから相手がどのあたりに位置する人間なのかを判断するのはごく自然の事と言えた。
そうして気づく。少年は身なりこそよく見る――唯陽にとってよく見るものであり、世間で言えば高価な物に入るだろう――ものであるが、なによりも目を惹くのはそれらで身を包む少年自身。
唯陽の周囲に居る、良くも悪くも格式的な立ち振る舞いとは違う。作法に長じていないが故のものだと唯陽の審美眼は見抜いていたが、本心を偽らない柔らかな物腰を不思議と下に見る事が出来なかった。
少年の正体が何者であるか。唯陽は観察するような視線を隠しつつも思考を重ね、ある推論を基に少年へと声を掛ける。
「……この階はプライベートエリアのはずなのですが……貴方、“月浦”の方ではありませんよね?」
対する少年は無言。その表情は焦っているというよりも、どうしようかと困っているように見受けられ、唯陽は確信する。
「(やっぱり。この方――)」
唯陽が予想する少年の正体、それは階下のスイートルームに宿泊できるだけの経済力を持つ家の子息が、ちょっとした探検のつもりで終夜のプライベートスペースに迷い込んでしまったというもの。
であれば唯陽にとっても現在の状況は悪いものとは言い切れず、唯陽は黙ったままの少年へと再び声を掛ける。
「貴方、お名前は?」
「……え、っと」
「心配なさらないで。別にご両親へと抗議をするつもりはありませんわ」
意図が読めない。そう言いたげな少年に、唯陽はあえて示唆する様に扉の方へと視線を向ける。
「けれど、そうですわね。名も知らない不審者という事であれば、警備に突き出すのが筋というものかもしれませんわね?」
警備、という単語に少年は僅かに眉を顰めた。人の表情を呼んで泳ぐ事が生活の一部とも言える唯陽にとっては非常に判りやすい態度であり、唯陽は自らの思惑が上手くいくかもと内心に潜ませた期待が膨らむのを抑えていれば、少年はややあってから諦めたように口を開く。
「……黄路」
「王子……?」
「黄色人種の黄に路線の路で黄路。君は?」
「私はよ――唯と」
一瞬、ふざけているのかと思う少年の名前も、字面を説明されればそれはそれで音で苦労していそうな名だと同情的になってしまっていた唯陽は、返された問いに本名を答えかけて慌てて偽名をひねり出す。
何の捻りもない名前だが、苗字を名乗らない所はお互い様であると言ってしまえば通るだろうと、唯陽はそれ以上を答える気はないとばかりに取引を持ちかける。
「黄路さん。私は誰にも見つからず外に出たいのです。協力して頂けませんか?」
「……どうして僕に?」
「ここに忍び込んだことがバレては困るのでしょう?」
つまり唯陽はこう言っているのだ。“見逃す代わりに、忍び込んだ際のルートを通って唯陽がこのホテルを出る手助けをしろ”と。
恐らくはスイートルームに宿泊しているだろう少年なので、案内出来てスイート専用ラウンジまでだろうが、そこまで降りる事すら唯陽にとってはそれなりに危険を冒さなければならない賭けであった。
少年がここまで誰に咎められることもなく忍び込めたからには、それ相応の歩き方をしてきたのだろうと当たりを付けた唯陽の提案に、少年はしばし悩む様な様子を見せた後に首を一度、縦に振った。
「わかったよ。ついてきて」
唯陽の隣をすり抜ける様にして少年が扉の前へと立つ。
そのまま、何の気負いもなく扉を開けようとするのをみて、唯陽は慌てて少年の肩を掴んで止める。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい!」
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも御座いませんわ! そのように不用意に扉を開けられては――」
咎める様な口調ながら、どちらかと言えば慌てている様な調子の強い唯陽の言葉に少年は小さく笑い、
「大丈夫。今は誰も廊下に居ないみたいだから」
当たり前の様に扉を開けて、さっと廊下へと踏み出して行ってしまう。
「どうしてそんなに自信に満ち溢れていますの……」
廊下に立って振り返る少年の姿に、どうやら本当に人が居ないらしいと確証が持てた唯陽は、同時に押し寄せた安堵と呆れから気の抜けた声で呟く。
しかしながら、如何に少年が安全と言おうとも、運がいつまでも味方してくれるとは限らない事は唯陽も良く分かっており、それ以上の言及はしないままに少年の後をついて歩き出す。
拍子抜けするほどにあっさりとプライベートスペースを抜け、一般のスイートルームが並ぶ階層へと降りてきた唯陽の内心は複雑だ。
「(これはこれでセキュリティに不安を感じますわね……。いえ、そのお陰でこうして外に出られそうなので今考える事ではないのですけれど)」
経営者の娘としての思考と、それを棚に上げるべきだとする思考の狭間であっても、唯陽の足は自由へと着実に進んでいた。
前を歩く少年が時折手で止まる様に制止したり、角に隠れるよう誘導する姿も、状況に慣れるにつれて頼もしさすら感じる様になっていた。
だが、そうした背徳感からくる高揚もラウンジの手前まで来ると現実という壁を目の当たりにして一気にしぼんでしまう。
「……どうしましょう」
階段の端から覗き込むようにしているラウンジには、日頃よりもやや忙しない様子で行き交う従業員の姿が見受けられ、ほんの僅かにすらも人が居ない状況がないという有様で、その慌ただしさに心当たりが――というよりは、十中八九自分の所為だろうと自覚のある唯陽は悩まし気に呟いた。
このままじっとしていても、いずれは見つかってしまうだろう。その時一緒にいる事でこの少年に迷惑がかかるのではないか。
決意は固くとも、現実が儘ならない事は十分に理解している。ならばこの我儘もここで終わってしまっても仕方がないのでは。
思考がどんどんマイナスへと傾いて、顔色も暗くなりつつあった唯陽の手に、不意に触れるものがあった。
「――」
「大丈夫」
「……ぁ」
殿方に手を握られた、そう自覚するよりも早く、少年が手を手を引いて歩き出す。
見れば丁度ラウンジにスイートに宿泊している客が降りてきた様で、従業員たちの意識がエレベーターから外れていた。
少年はその隙を突いてエレベーターに乗り込むつもりのようだ。
「でも……」
乗り込んでどうするというのだろう。エレベーターには当然監視カメラもあれば、動き出せばだれかしらが嫌でも気づく。
そうなれば逃げ切る事はほぼ不可能だと、少年とて分かっているはずだ。
だが、少年は不安げな唯陽の方へと顔だけを向けて、悪戯っぽく笑って口元に指を立てる。
「息を潜めて音を立てずに。僕を信じて」
その目が決して無謀なことをしようというものでない、確信的な強さに溢れていて。唯陽は見惚れたように小さく頷き、その後繋がれていない方の手で慌てて口を塞ぐ。
少年と共に何食わぬ顔でラウンジへと降りると、従業員たちが相手をしていたのは鮮やかな髪色の青年である事が分かった。
中々に見ない色だが、それ以上に慌てたのはその人物がどうやらエレベーターを利用するらしいという事。
移動先が被れば嫌でも人目についてしまう。そうなれば後は見つかるばかりだと、唯陽は出来る限り目立たぬように顔を伏せて、瞳すら閉じて少年の手の感覚を頼りに速足でラウンジを抜ける。
嫌にうるさい心臓の音に、声が出そうになるのを必死に我慢していると、不意にそばを通り過ぎる人の気配に肩が跳ねた。
そして、
――チン。
聞き覚えのある音にバッと目を開け、顔を上げてしまう。
音と共に開いたエレベーターに乗り込む紅い髪の青年。その後ろについて何食わぬ顔で乗り込む少年に手を引かれ、唯陽は何が何だか分からない内にエレベーターへと乗り込んでしまっていた。
扉が閉まり、青年の告げた下層まで密室が高度を下げて行く中、唯陽はただただ困惑してきょろきょろと視線を彷徨わせる。
「(な、何が……どうなっていますの……?)」
視界の中にはエレベーターガールの姿や、乗り合わせた紅い髪の青年の姿もある。だが、そのどちらもが少年と唯陽をまるで存在していないかのように過ごしていることに、唯陽は思わず手をつないだままの少年の方を見た。
すると少年は唯陽の視線に気づいた様で、再び口元に指を当てて仄かに笑う。
「(ああ、なるほど――)」
原理は分からないが、それでも唯陽はこれが少年の魔法なのだと、高鳴る胸の音を聞きながら理解した。
エレベーターがカウントダウンの様に階層表示を下げて行く中、唯陽はそっと盗み見る様に少年を窺う。
少年は落ち着いた様子でエレベーターが止まるのを待っており、確かな自信が見て取れるその顔立ちは幼く見えるにも関わらず、唯陽にはひどく頼もしく見えた。
整った顔など飽きるほど見てきた唯陽であったが、少年は顔の優劣ではなく、どこか違う部分で常人離れしている気がして、
「……?」
「――っ!」
唯陽の視線に気が付いたらしい少年と目が合う。その瞬間、唯陽はどきりと鼓動が跳ねるのを自覚しながらも慌てて視線を外す。
咄嗟に、どうして視線を外してしまったのか分からず、しかして再び其方へと顔を向ける事の気まずさもあって、唯陽はエレベーターが止まるまでの間、じっとうつむいたまま悶々と思考を重ねるのだった。