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8-6 終夜唯陽

 少女は自身が恵まれている事を自覚している。

 所謂、その日食べるものに困らないだとか、住む場所があるだとか、毎日着る物があるだとか、そういう類の恵まれているではない。


 少女が食べたいと言えば、最高級を好きなだけ食べられた。

 何処其処に住みたいと言えば、全世界で好きな場所を選ぶことが出来た。

 少女が着たいと言わなくとも、少女の前には日毎に使い捨てても問題ない程の衣服が積み上がった。


 それほどまでに少女は恵まれていたし、少女も自身が他に類を探す方が難しい程に恵まれている自覚があった。




 少女は名を、終夜(よすがら)唯陽(ゆうひ)と言う。




 苗字が示す様に、唯陽の所属は終夜――日本国内においてはほぼ比肩する存在のない、世界でも有数の大財閥の直系。終夜家の当主が唯一儲けた子供である。

 当年16歳の少女に母はいない。唯陽と引き換える様に亡くなった母を、唯陽は写真と、他人の語るかつての思い出としてしか知らない。

 唯陽の父と言えば、先にも述べたように世界を股に掛ける財閥の当主であり、絶えず世界中がアポイントを求める存在である。

 多忙な父親に唯陽が冷遇されているかと言えばそうではない。むしろ、終夜の現当主は非常に愛妻家であった事はよく知られており、その忘れ形見となってしまった唯陽をこの上なく溺愛していた。

 唯陽という名前も、“終夜(かれ)にとって唯一の太陽”と言った意味だと公言して憚らないのだから、その溺愛具合もわかろうというものだ。

 蝶よ花よと育てられ、何不自由ない、何処に出しても恥ずかしくないお嬢様として育てられた事を唯陽は不満に思った事はない。

 貴重な時間を割いて家族の時間を作ってくれる父親を敬愛していたし、父親が居ない間にあらゆる教養や知識、作法を教えてくれた使用人たちにも感謝している。


「はぁ……」


 そんな、自他共に認める“恵まれた少女(・・・・・・)”は不機嫌さを顕わにしながら、大人が複数で横になってもまだ余りあるベッドに仰向けに、お嬢様然とした佇まいとしては相応しくない大の字で転がっていた。

 ひとり用として宛がわれているスイートルームには高層階特有の遮るもののない冬の日差しが燦々と照らし込んでおり、健康的な生活を送るのであれば睡眠をとるには不適切と言わざるを得ない時間。

 それでも唯陽がベッドに身を投げ出しているのは、目前にまで迫ってしまった己の運命(・・・・)に対してのやり場のない不満からだ。


「お父様とて恋愛結婚だったと聞いておりましたのに、どうして私はダメだというのでしょう。本当に、理不尽だわ」


 先刻も声を荒げて主張した言葉が零れる。

 母親譲りだという日本人には珍しい碧眼がすっと天蓋を睨むように細められれば、元より初対面の相手には険がある様に感じられる鋭い瞳には内心に渦巻く不満が込められている様であった。


「(私だって自分の手で運命の相手に巡り合いたい。そんな事すらも望んではいけないというの?)」


 ベッドシーツに顔を埋める様に体勢をひっくり返せば、口元を塞ぐシーツの息苦しさがそのまま自らの心境であるかのような錯覚に、唯陽は殊更大きく息を吐きながらがばりと身体を起こす。


「いいえ、そんなはずがないわ。私だって、私だけの王子様を見つけたい。素敵な男性と巡り合って、お話の様な恋をするの!」


 勢い、立ち上がった唯陽は天蓋に向かって叫ぶ。

 夢見がちなのは承知の上で、16歳の少女は自らの欲求を明確に口に出した。


「ええ、そうよ。そうだわ。お父様がその気なら、私にだって考えがありますわ」


 ぐっと、生まれてこの方重い物など持ったことがない非力な手に力を込めて、はしたなくも拳を突き上げた少女は跳ねる様にベッドから飛び降りれば、ふわりと広がった背の中ほどまで届くウェーブ状の豊かな黒髪が揺れる。

 開きっぱなしだった扉を抜け、リビングスペースへと小走りに駆けて行けば、室内で小規模なパーティを開けるほどに広い空間が広がっていた。

 唯陽ひとりで使うには大きすぎる空間、普段であれば使用人のひとりやふたり常駐して唯陽に変わって用向きを解決するのだが、今に限って言えば、唯陽の置かれた状況もあって使用人の姿はない。

 本来不便だと思うそれも、かえって都合が良いと唯陽は思う。


「(まるで、私にそう(・・)しろと言っているよう……)」


 せっせとボタンを操作し、自動ドア付のクローゼットを開いて中へと踏み込んだ唯陽は不機嫌の原因も忘れたように、これから自らが起こす行動への期待に鼻歌でも交えそうなほどの明るい表情を浮かべていた。

 掛け値なしのお嬢様といえど、着替えがひとりでできないなどという事は物語の中だけの話で、唯陽はクローゼットに掛けられた衣服の中から、自身の感性でもって最も地味で目立たないだろうと思う服をチョイスする。

 とはいえ、それはあくまで最上級のお嬢様(よすがらゆうひ)にとっての地味である。配色こそ確かに大人しいベージュのニットワンピースにグレーのコートであるが、その質やデザインは目の肥えた人間ならば一目で価値のわかる高級ブランド品の最新作だ。

 全身をブランド物の地味目な配色――つまりは上品で落ち着きのある成金趣味の小金持ちとは一線を画すスタイル――で固めた唯陽は、スイートルームに備え付けられた内線用の電話を取る。


『唯陽お嬢様。如何なさいましたか?』


 きっちり2コールで繋がったスイート専用フロントの声に、唯陽は意を決して口を開く。


「少し気分が優れないから横になりたいのだけど。この時間だから寝付けなくて。睡眠導入剤と、それから暖かい飲み物が欲しいわ。手配して頂戴」

『かしこまりました。すぐにお持ち致します』

「ああ、それと。もし万が一横になっていても、構わず寝室まで持ってきてほしいの」


 受話器を置いた唯陽は即座に動き出した。

 手始めにベッドルームへと駆け込めば、掛布団の下に枕を縦に起いて被せてふくらみを作り、カーテンをすべて締め切って外から扉を閉める。

 その足で大型のクローゼットへと操作用のリモコンを持ち込んで内側から締めて密室を作ると、耳をそばだてる様に息を潜めた。



 ――コンコンコンコン。



 程なくして来客を告げるノック音が響く。

 唯陽が反応せずにいれば、再びノックの音と共に唯陽の名を呼ぶ男性の声がして、それからややあってから入室を求める声と扉が開く音が聞こえてきた。


「唯陽様……もうおやすみになられているのですか?」


 遠慮がちな、しかし職務を全うしようとするホテルマンの声がクローゼット側から遠ざかり、寝室の方へと。

 その足音が寝室の扉の前で止まる。

 それから数秒、沈黙が降りた。

 当然だ。ホテルマンからすれば寝室に居るのは自分たちの総元締めとも言える天上人の娘。粗相があればそれだけで首が飛びかねない。客に対して失礼があれば普通であっても叱られるが、今回の相手はその比ではないのだ。

 僅かに震えた、しかし誠意と真摯さを前面に出そうという――あわよくば覚えを良くしてもらいたいという欲目すらもちらりと覗く――声音が響く。


「お嬢様、お薬とお飲み物をお持ちしました」


 コンコンコンコン。続けてノックの音が鳴り、それでも寝室から反応がなかった事から、ホテルマンは意を決した様に再び声を上げる。


「お嬢様、失礼いたします」


 クローゼット越しからでは聞き辛いが、確かに寝室の扉が開く音が聞こえた。

 そしてその後から眠っている――様に見える――唯陽の残した枕に向けて、お休み中の所を申し訳ありませんという声を聴きながら、唯陽はそっとクローゼットの扉を開ける。


「(……いけそう、ですわ)」


 ホテルマンの意識は完全に寝室の中で完結しており、そっと足音を忍ばせた唯陽はホテルマンの入ってきた扉から廊下へと忍び出る。

 地上49階のスイートルームで現在使われているのは二部屋しかない。というのも、予約限定となっているスイートも、49階と50階は実質プライベートスペースのような扱いになっており、ここに宿泊できるのは唯陽とその父――そして現在は別の1家族が泊っているくらいなのだ。

 そういった事情から監視カメラがない事は喜ばしいが、しかし、静かすぎることがかえって足音を目立たせてしまう気がして、唯陽は恐る恐る階段へと向かう。

 唯陽はお嬢様ではあるが、さすがに出入り口が一つしかなく、また動いていれば誰かが気づき得るようなものを利用しないだけの想像力は持ち合わせており、その点、階段であれば普段ならば従業員とて使わないだろうと想像が出来た。

 部屋を抜け出すなどという、生まれて初めての“お転婆”な行動に高揚していた唯陽が弾みそうになる足を抑えて歩いていると、丁度通り過ぎようとしていた部屋の扉がカチャリと音を立てた。

 突然に音に過敏になっていた意識が引っ張られ、身を硬直させて居れば、どうやら相手の同様に扉を開けかけていた所で硬直していた。


「……ぁ……」


 完全に目が合ったまま、互いに互いの存在が予想外過ぎた事で静止した空間。

 そこへ唯陽の部屋があった方から慌ただしい音が聞こえてきた。


「――!」


 まずい。そう直感した唯陽は目の前の男性を押し倒す様に部屋へと転がり込み、後ろ手で扉を閉めて鍵をかける。

 廊下に聞こえていた慌ただしい足音が階下へと向かってゆくのを扉に耳を当てて確認した唯陽は、当座の危機は乗り越えたと考えそっと胸を撫でおろし――


「……」

「……」


 視界の端に黒を捉えて、問題がまだ地続きであった事を思い出した。


「あ……」

「……」

「ああ……!」


 終夜唯陽は淑女として育てられてきた。

 それこそ、歩き方ひとつ、仕草ひとつとっても品性を保つように指導されてきた。

 本来であれば、初対面の男性の身体に接触する事など万一にもなく、ましてや押し倒す様な形で部屋に押しかけるなど言語道断。

 まさしく破廉恥極まりないといっても過言ではない自らの所業を冷静に振り返るだけの思考力が残っていた事と、現状置かれている身の上から、唯陽は顔を紅潮させながらも気丈に、その鋭い碧眼で同年代の少年(・・・・・・)を睨みつけて言い放った。


「私、あなたとは結婚しないわ!」

「えっ?」

「え?」


 身を起こそうとしていた少年の表情に浮かんだ疑問符で、唯陽は自分が何か壮絶な勘違いをしていたのではないかという事に漸く気づくのであった。

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