8-1 御心文書
むき出しのコンクリートで覆われた室内に風を切る音が響き、拳が肉を穿つ鈍く激しい打撃音が重なり合う。
「オラオラオラオラッ! サンドバックかテメェはよォ!」
「ッ、きゃんきゃんと、うるっ――さいなぁ!! 野犬のほうがまだ静かだよ!!!」
「んだとゴラァ!」
同時に、ドスの利いた女性と男性としては高めの少年、互いに罵り合う声が乱打の音をかき消す様に室内の大気を震わせる。
口の端を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべた嬉々月勇未子の拳が黄泉路の顔面を捉えれば、返答とばかりに同時に繰り出されていた黄泉路の拳が勇未子の肩を穿つ。
ギャラリーも居なければ仲裁者も居ない非常に泥臭い殴り合いはかれこれ10分以上続いており、体力面に置いて無尽蔵な黄泉路はともかくとして、それに全力でぶつかり合っている勇未子も相当に凄まじい物があるが、互いに全力ではあっても本気ではない。
その証拠に勇未子は【破壊強化】――触れた物全てを粉砕する力を使わず直接を殴っており、黄泉路も自身が意図してオフにしない限りは自動的に働く再生と元より遮断したままの痛覚以外は生身の状態といって差し支えない。
激しく打ち合っていながら進展のない現状に先に痺れを切らしたのはやはり、勇未子の方であった。
「いい加減、本気できやがれってんだクソモヤシ!」
「お断りだよバーカ」
「ぶっ殺す!!」
「出来もしない事は言わない方が良いよ!」
勇未子の手の形が変わる。
鷲掴みするように開かれた手が先ほどまでと同様に黄泉路へと迫り――
「っ」
「はっはァ!」
芯にまで届くようなぞわりとした悪寒に黄泉路が咄嗟に身を捻ると、勇未子の手が掠めた脇腹部分のジャージがざらりと解けた。
「テメェが本気で来ないってんならあたしの勝ちだよなァ!?」
「また勝手な事を――!」
元はと言えば、今回の喧嘩は黄泉路が持て余した時間を使って日頃行っていた鍛錬をしている所へ勇未子が突然やって来るなり、勝負しろと殴り掛かってきた事に起因していた。
始りがそもそもをして身勝手であった上、加えて一方的に勝利宣言をされれば如何に温厚な黄泉路とてカチンとくるのも仕方のない事で。
そもそも、以前朝軒廻が口にしたように、黄泉路と勇未子は相性が悪い。それは黄泉路の沸点が他者を相手にする時と比べて低くなりやすいという意味でもある。
「おいおい、楽勝かァ? 強くなったって聞いたのは気のせいだったかー?」
わざとらしく煽る様な猫撫で声で、なおも執拗に破壊を宿した手で殴り掛かってくる勇未子に、黄泉路は自身の中で何かがブチりと切れる幻聴を聞く。
「――いい……っ加減にしろよお前!!!」
叫ぶと同時、黄泉路の内側に広がる深い深い水底に満ちた砂地が紅く染まる。
強く踏み出した現実の黄泉路の足元からも連動する様に紅い塵が吹き上がり、ガクンと歯車が切り替わったかのように動きが変質する。
その挙動はさながら噴き上げる紅い塵を推進力としたブースター。視界を塞ぐほどにあふれ出した赤の奔流の裏から突き出された鋭い蹴りがすんでの所で頭を傾けてかわす勇未子の髪を削る。
勇未子が繰り出された足を掴もうと手を飛ばすが、蹴りの勢いで軸足を駒の様に捻りながら放たれた拳に阻まれてしまう。
なおも吹き上がり続ける紅から距離を取った勇未子は一瞬不快そうに顔をゆがめ、
「それが、アンタが手に入れた力とやらか?」
「――違うよ。違う」
舞い上がる紅い塵がざりざりとコンクリートの床を侵食して黄泉路の立つ場所を砂地へと変質させてゆく中、もこりと足元に降り積もった砂がうごめき、何かを形作ろうとするのを踏み抜いて、黄泉路が姿を現す。
「これは、僕の力じゃない」
ざりざりざりざりと、砂が擦れ合う音に紛れて勇未子の耳に届く黄泉路の声音は平坦だ。まるでさきほどまでの激情が幻だったかの様な気持ちの悪い静けさを纏った黄泉路の青白く瞬く瞳が勇未子を射抜き――
「5分だけ、付き合ってあげるよ」
すぐ背後、耳元に囁きかける様な声に、勇未子は反射的に裏拳を――掛け値なし、能力まですべて乗せた、ありとあらゆる存在を破砕する拳を自身の背後へと放つ。
――パシャリ。
手の甲に触れるのは、何かを破壊した時に発生する、物質だったモノの残滓――ではない。
「あ、お――っ!?」
「そう、こっちが正解」
「ッ!!」
振り向く勇未子の視界の端に捉えたのは鮮烈なまでの蒼色。先ほどの黄泉路の瞳の奥に瞬いていた様な蒼銀の粒子が拳を振り抜いた風圧に揺れて頬を掠め、辛うじてそれを認識したのと時を同じくして再び耳元に響く黄泉路の声に、勇未子は今度こそとばかりに背後へと頭突きを見舞う。
「ほんっと、反射で生きてるよね」
頭突きを見舞ったはずの相手はそこにはおらず、空を切った頭を正面へと引き戻した勇未子の丁度正面にいつの間にか立っていた黄泉路が呆れた様な声音で小さく息を吐く。
平時と変わりない声音で話す黄泉路の外見上の変化は一目瞭然。
「今の、見間違いじゃなきゃ転移でもしたのか? おいおいどんな拡張だァ?」
「態々教える必要がある?」
――蒼。それも銀が混ざったような鮮やかな蒼の粒子を蛍火の様に全身から溢れさせた黄泉路は緩やかに数歩ほど歩み寄り、
「時間も押してるし、無理だと思ったらさっさとギブアップして良いよ」
ふっと、その姿が蒼銀の粒子となって掻き消える。
目の前で宙に解ける様に姿を眩ませた黄泉路に、勇未子は全身の感覚を研ぎ澄ませながら拳を構えて腰を落とす。
どの方角から仕掛けてこようと後の先で確実に仕留めるという気概がありありと感じられる勇未子の姿勢。
自身の呼吸音だけがじりじりと急かす様な錯覚をねじ伏せ、
「ッ、そこ!!」
「アタリだけど、残念」
「ぐっ!?」
先ほどまでとは違い、頭上から降ってくるように形を成した黄泉路に対し、粒子が寄り集まる微かな音だけを的確に捉えた勇未子が拳を突き出す。その拳が黄泉路の二の腕を消し飛ばすが、構わず全身を捻り勢いを乗せた蹴りが勇未子の側頭部目掛けて振り抜かれる。
すんでの所で突き出した腕を引き戻すことでガードに回した勇未子は蹴りの衝撃に腕が痺れる感覚を噛み殺し、少しでも衝撃を逃がすべく瞬時に横へと跳ぶ。
「くっそっ、どうなってやがる……!」
追撃を警戒し、腕を下げて視野を広く取った勇未子の視界の先では黄泉路が悠々と着地後の態勢を整えている所であり、それがまた、自身がひとり相撲をさせられている様な錯覚を招く。
とはいえ、勇未子自身に出来る事はひたすらに殴って壊す、それだけである。加えて自身から仕掛けた勝負を早々に降りるつもりなど毛頭ない勇未子はゆったりと歩み寄ってくる黄泉路に対して拳を構え、今度はこちらからと言わんばかりに突貫する。
「タネが分かんねェなら割れるまで殴りゃあ一緒だよなァ!」
すぐさま眼前まで迫った黄泉路に対し、手を最大まで広げて破壊面積を増やした掌底打ちにも似た打突を繰り出す。
黄泉路の胸部をねらったそれはこれまで同様に破壊の力が宿っており、見た目以上に凶悪な威力を孕んでいる。当然勇未子は黄泉路がこの程度で死ぬとも思っていない為の行為であるが――
ふわりと、黄泉路の姿が蒼い粒子と化して崩れて揺らぐ。
勇未子が腕を引けば、蒼い粒子が寄り集まって先ほどよりも僅かに近い距離に拳を構える黄泉路が現れる。
黄泉路からの反撃の構えが見えていてなお、初めて真正面から殴り掛かり、その様をまじまじと観察できた勇未子の拳は止まらない。
黄泉路が拳を繰り出してくるよりも早く、ラッシュを仕掛けた勇未子の拳が黄泉路をすり抜けては蒼い粒子の粒をまき散らせ、数発の返礼として返ってくる一撃をガードもせずに受ける。
「ぐっ」
「さっさと降参してください。あと一方的に仕掛けてきた事について謝って」
「っるせぇ! こんなもん全然効かねぇんだよモヤシが!!」
降伏勧告を獰猛に笑って蹴り飛ばせば、あとはもう無言で殴り合い――否、一方的に殴るだけの流れが形成される。
勇未子の攻撃はすべてすり抜け、代わりに黄泉路の手足はこれまでであればガードする事は出来ていたが、幾度となく打ち合う内にガードする腕や足だけを的確にすり抜けて殴り掛かってくるようになってからはさらに一方的な流れとなっていった。
そして――
「げ、ふっ……」
「はい。5分、っと」
宣言通り5分で蒼塵モードを解除した無傷の黄泉路がいつもの学生服の状態で告げる。
その正面では痣だらけの状態で仰向けになった勇未子が荒い息を吐きだしてへばっており、傍から見ればその結末は一方的な物の様に見えただろう。
事実、勇未子はそう受け取っている物の、黄泉路からすればかなりぎりぎりの勝利であった。
「(本当に5分ぎりぎりまで粘ってくるなんて……もうちょっとかかってたら持たなかったな)」
そう、黄泉路はこの4ヵ月の間に任意で“蒼塵モード”と名付けられた状態へと移行すること自体はどうにか形に持って行っていた。
しかし継続時間という点においてはまだまだ未完成で、限界まで“蒼塵モード”を酷使してしまうと以前廻達に支えられて撤収した時同様に身動きすらままならない状態になってしまい、完全復活するまで暫くの時間を要するという難点は相変わらずであった。
その上での5分。それが黄泉路が現段階で“蒼塵モード”をデメリット無しで有効活用できる時間であった。
「文句なしに僕の勝ちだよね? 何か言うことは?」
「……ケッ」
そんな内情をおくびにも出さず、あくまで余裕の勝利と印象付ける様にゆったりと声を掛けるも、明らかな不貞腐れを含んだ返答にはさすがの黄泉路も呆れるほかない。
「いや、お前からの謝罪なんてもう期待してないから、用件くらいは言えよ」
「……」
なおも無言を貫く勇未子に、いっそこの12月の寒空の下に放り出してきてやろうかという思いが芽生える物の、これ以上の追い打ちはさすがに訓練や喧嘩では言い訳が効かないだろうと思い留まる。
「まさかとは思うけど、用件もなしに突っかかってきただけ?」
「ち、ちっげぇよ! あったよ! 用事!!」
「じゃあ早く。困るのお前なんだから」
「……あー……んー……っとォ……?」
「……」
急に、困った様に歯切れ悪くなった勇未子の態度に、黄泉路はこれが本気で焦らしているのではないと知る。
そして同時に勇未子の状態に嫌な予感を抱いた黄泉路は恐る恐る口を開く。
「まさかとは、本当にまさかとは思うんだけど、用件忘れたとかないよね?」
「……」
「おい……」
まさかである。目の前のこの女、用事を頼まれて人を呼びに来たらしいと辛うじて推察できるものの、その相手にいきなり勝負を仕掛けて内容を忘れるという単細胞もかくやというやらかしに、黄泉路は痛むはずのない身体で頭痛を感じてしまう。
このまま勇未子に内容を思い出してもらうのが先か、上に戻って誰かに話を聞くのが早いかと頭を捻っていると、訓練室の扉が開く。
換気はされているとはいえ、扉が開くことで廊下からのややひんやりとした空気が流れ込んでくれば、黄泉路も勇未子も自然と其方へと顔を向けた。
そこに居たのは互いによく知る茶髪の少年、朝軒廻だ。
こうしたタイミングで現れたという事はつまるところそういう事なのだろう。
「そろそろ時間なので迎えに来ました」
「ああ、うん。ありがとう。どうしたらいいと思う?」
あえて主語を抜いて、視線だけでちらりと勇未子を示した黄泉路に、廻は一瞬微妙な顔を浮かべて小さく首を振る。
「……放置で良いと思いますよ」
「おいおい、あたしも連れてけよ」
「兄さんを呼んでくるように頼んだ結果、殴り合いに発展するのはまだいいとして、用件を忘れるかどうかは半々だったんですよね……」
どっちに転んでも良いように終わる時間を見計らって来たのだという廻に、黄泉路は今度こそ呆れた視線を隠しもせず勇未子を見やる。
確かにこれは放置で良いかも知れない。そう思った黄泉路であった。
「行こうか」
「はい」
互いに小さく頷き、部屋の入口で待機している廻の方に黄泉路が歩み始めれば、本気で放置される流れだと察した勇未子が声を上げる。
「ちょ、おい待てよ! あたしが悪かった、用事忘れたのは謝るから連れてけ!!」
声を張る気力は回復した物の、立ち上がる気力までは確保できていない勇未子の様子に、黄泉路は大きく深いため息を吐きながらも踵を返して勇未子を担ぎ上げ、今度こそ部屋を後にするのであった。