7-46 灼け堕ちた夜明け
廻と姫更が地上へと転移した直後に抱いたのは、皮膚に照り付ける様な熱さであった。
「……っ」
すぐ隣で紗希が息を呑む音が聞こえてきたものの、姫更とて思わず目を疑ってしまう光景であるが故に紗希の反応を気にかけている余裕はない。
「とりあえず、ここからは徒歩で掛園支部長に合流します。紗希先生、姫姉さん、大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶ」
「あ、ああ。しかし、これは……」
「急いで」
困惑する紗希と姫更の手を引いて歩きだした廻と、それにつられて小走りで後を追う形になった二者の足音が続く。
道すがらに広がる光景は襲撃が行われる以前とは打って変わったもので、怒号めいた安否確認や避難誘導、人員配置の声が飛び交い、空には満点の星空が広がる宵闇を塗りつぶすような黒煙がそこかしこから上がっていた。
村を覆う天蓋の如き樹木の枝葉がパチパチと音を立てて赤々と崩れ落ち、爆ぜた飛び火がじくじくと食いつぶす様に家屋を、森を覆う光景はとてもではないが数時間も前には平和に笑い合っていた集落とは思えない。
時折降りかかる火の粉を避けつつ3人が集会所へとたどり着くと、外で慌ただしく行き交っていた三肢鴉の構成員が目を留め、すぐさま中へと駆け込んでゆく。
「無事でしたか!」
「お陰様でねーぇ」
入れ替わる様に掛園紫が飛び出してくるのが見え、紗希も漸く人心地付いたらしく普段に近い言葉遣いが出る。
とはいえ、安全圏であるとは言えない現状だ。
「急ぎ、私の能力で道を作ります。3人はこのまま私の支部の者に従って避難を」
紫もそれが分かっている為、口早に避難を促せば、歩き出した紗希から廻がぱっと手を放す。
「朝軒君?」
少年らしく、相応に成長期に入ったらしい手が離れた感触に紗希が足を止めて振り返れば、何かを察したらしい姫更までもが紗希から手を放して廻の傍へと歩み寄る。
「すみません、僕にはまだやらなければならない事がありますから」
「何を言っているんですか。護衛をする条件でこの件に参加しているはずでしょう」
申し訳なさそうに、しかし頑として譲るつもりのない声音を響かせた廻を咎める様に紫が一歩踏み出すも、
「紗希先生はもう大丈夫です。それと、リーダーから下された任務は護衛及び周辺警戒・遊撃です。姉さん、お願い」
「……紫さん、ごめんなさい」
「ちょ、話はまだ――!」
それを予期していた様に――文字通り、紫がどのような行動に出るかを理解した素早さでふたりの姿が掻き消えてしまう。
「ああ、もう!」
一瞬で目の前から逃げおおせた廻と姫更に憤慨する紫であったが、さすがにこの場から飛び出してふたりの回収へと赴くような軽挙に出る事はない。
そもそも、姫更の能力【座標交換】は典型的な座標指定系能力という事もあり、紫の持つ【距離変換】とは極めて相性が悪い。
紫が敵襲に備えて村の周囲に張り巡らせた“距離の結界”とも呼べる領域は外から村へと向かう距離を歪ませる事で、座標指定が不可欠な転移系能力の転移先座標を狂わせるという効果を持っている。
当然、内側から外側へも同様に作用しており、この村にいる間に限っては姫更は自身のマーキングしてある遠方の座標への転移が行えない。
その為現在も廻と姫更はこの村の周辺の何処かに居るだろうという見当はつく物の、逆に紫も座標を指定して発動するタイプではない為姫更の転移先を特定したりという事は出来ない。
電子機器が軒並み故障している為、オペレーターを始めとした通信系能力者を頼って探させるという手もあるが、それも避難やら戦線指揮やらで逼迫した状況に私情混じりの捜索指示など出せる訳もない。
よって行き場のない不満と心配とが入り混じった感情が顔に出かかっていた紫へと、紗希が殊更ゆったりとした口調で声を掛ける。
「まぁまぁ、落ち着き給えよーぉ。あのふたりなら大丈夫さ」
「御心博士!? 何を根拠にそんな事を」
「根拠ならあるさ。こうして私が無事に避難できる所まであの子たちはしっかり仕事を果たしてくれたからね」
「……とにかく、あの子達の事は夜鷹に任せます。御心博士は予定通り避難を」
襲撃自体があった事を匂わせる紗希の発言に、聊か冷静さを欠いていた自覚に芽生えた紫は大きく息を吐いて意識を切り替え、現状打てる手を新たに指示して自身の役割をこなすべく紗希を伴って集会所の中へと入って行くのだった。
◆◇◆
黒雪岳の一部を消し飛ばし、周囲の森林にまで飛び火して今もなお燃え広がる魔女の残滓がしゅうしゅうと夏の空気を焼く様に煙を上げる。
直接の熱源が消え去った事で赤々と溶け輝いていた地面も多少の落ち着きを見せ、それでも未だ燻る様に熱を放ちながら黒くなった足場の中心に黄泉路はいた。
戦闘が終了してから1、2分が経とうという頃であるにも関わらず、黄泉路の足は依然としてクレーターの中心、革靴の底を焼き融かして足の裏を焼くような地面の上にあった。
身動きが取れない――訳ではない。思いがけず大惨事になってしまった周囲に対し、あまりのスケールの大きさに思考が鈍化してしまっていたのだ。
これほどまでに大きな被害を起こせる相手を事前に誘導できた過去の自身の英断への実感と、それでもまだ目の前の現実離れした光景を受け入れきれずに浮ついた感情、加えて刹那の性格的にあれだけの捨て台詞を吐いたという事はこの場で再び刹那が関わることはないと断言できる理性的な分析が入り混じり、多大な安堵感と夢見心地といった心境が黄泉路の内側を満たしていた。
無論、いつまでもそれらの感情に浸っているつもりはない。本来の目的でもある御心紗希の護衛や戌成村の住民の避難について確認しなければという行動指針の他にも、未だに黄泉路の耳――否、もっと奥底に触れる形で聞こえ続けているものがあるからだ。
「――。まだ、声が……行かなきゃ」
断続的に届く断末魔に、こちらで起きた火災の影響が広がり続けている事を理解した黄泉路は精神的な疲労から鈍った思考を引き戻す様に頭を振って、焼け付いた足を廃棄して、クレーターの外へと一歩を踏み出す。
黄泉路が足を上げようとするたびに、地面と溶接された足が蒼銀色の粒子となって膝下から解れ、進路上の灼けた大地へと足を置こうとするたびに、新たな――真新しい無傷の足として形を成して靴裏を焼いた。
数歩ほど同様に足を踏み、それなりに角度の付いたすり鉢状の斜面を登ろうと、黒くごつごつした地面へと手を付け、肉の焼ける音と同時に自身の手が蒼銀色の粒子へと解れるのを見て、黄泉路ははたと動きを止める。
「(あ。そっか。別に歩く必要ないのか)」
試しに自身の身体を破棄してみれば、全身が熱を帯びた風の中に解ける様に蒼銀へと崩れ落ちて消えてゆく。
そして、先ほどまで黄泉路が向かおうと思っていた数歩ほど先に、何処からともなく沸き上がった蒼銀の粒が人の形を形成し、何事もなかったかのように直立姿勢の黄泉路が姿を現した。
「(なる、ほど)」
自身の変化を確認する様に視線を手元に落としたまま幾度か手を握っては閉じてを繰り返し、再び粒子へと変じては、数歩ほど先、その次はさらに遠くへと、あたかも転移に見える様な挙動の――幻が人の形を成しているかのような不可思議な移動を繰り返し、暫しの時間を掛けて黄泉路はクレーターの外へと辿り着く。
爆風によって木々が薙ぎ倒され、圧倒的な熱量によって焼け落ちた草木の残骸がパチパチと爆ぜる音に蒼銀の塵が形作った靴底が灰を踏む音が混ざる。
周囲の黒に溶け込む様な上下黒の制服姿が実像を結び、熱風の余韻の残る夏の風に黒髪が靡く。
変わり果てた景色に僅かに眉を顰める物の、今更自身に何が出来るわけでもないと折り合いをつけた黄泉路は声を頼りに村の方角へあたりを付けて一歩を踏み出し、
「(あ、れ……?)」
――視点が傾ぐ。
ぐらりと揺れた視界、否。黄泉路の体そのものが力を失ったように踏み出した足から崩れ落ち、重力に曳かれ前のめりに焼けこげた地面に転げ……
「黄泉にい」
「わっ」
ぽすん、と。柔らかな支えによってすんでの所で身体を支えられ、黄泉路はどうにか転倒を免れる。
とはいえもとより体格差があり、ふたり掛かりとはいえ自重を支える事を放棄した身体を完全に受け止め切ることは叶わず、黄泉路の膝から下は焼けこげた地面の煤がついてしまっていたが、それについては本人すら気づいていない為言及するものは居ない。
「お疲れ様でした。兄さん」
「……廻君、姫ちゃん……ごめん、ありがとう」
試しに立ち上がろうとして見るものの、どうにか動かせるのは首から上程度で、まるで電池の切れた玩具の如く感覚ごと消失してしまっている自身の身体に困惑しつつも、黄泉路は迎えに来てくれたらしいふたりに声を掛ける。
狙い澄ましたように倒れるタイミングで現れたふたり――廻は理由を知っているのだろうかと、黄泉路が視線を向ければ、肩を貸す形で黄泉路を支えようと奮闘する廻は視線に気づいた様子もなく先回りした回答を口にする。
「そのことについては、後日改めて紗希先生に相談してみてください。実害はありません。少ししたら報道ヘリも飛び始めますから、今は」
「撤収、する」
「……という訳です」
外見も実年齢も年下のふたりに支えられてやっとという有様である。黄泉路に反論する余地などあろうはずもなく。
「廻君は、こうなることが分かってたんだよね」
「……ええ」
「最良の結果、だったのかな……?」
「ええ」
掛園紫の能力を掻い潜り、座標ブレの少ない短距離の転移を繰り返す間。ぽつりと吐き出した黄泉路の声を正確に聞き取った廻――それすらも、実のところは聞こえておらず、予知した内容への回答だったのかもしれないが――は短く肯定する。
「そっか」
「少なくない犠牲者が、敵味方に出ていますが……後悔、してますか?」
「……ううん。結局のところ、僕には未来は分からない。出来得ることは全部やって、廻君がそう言うのなら、僕にとっても、これは最良だったんだ」
噛み締める様にゆっくりと零された黄泉路の言葉への、廻の返答はない。
やがて移り変わる景色に見知ったもの――の残骸が混じる様になった頃、燃え盛る火の手の中にあって未だ形を保っていた集会所の前に辿り着くと、果や誠、カガリに美花といった面子が黄泉路達を出迎えるように待ち構えていた。
「黄泉路っ」
「無茶を、したようですね?」
「ごめんなさい」
「いいえ。よくやってくれました」
黄泉路の様子に慌てて駆け寄ってきたカガリが廻達から黄泉路を背負うのを代わると、誠を伴った果が心配と安堵を半々に混ぜた様な声音で、黄泉路の頭をそっと撫でる。
「……えっと」
「魔女の足止めを買って出てくれていなければ、この被害はもっと凄惨なことになっていたでしょう」
「ま、終わった事だ。俺達もさっさと撤収しようぜ。こうも火が近いと落ち着かねぇ」
「あの、標ちゃんは?」
『いぇーい。よみちん呼んだー? 私なら無問題っ! ほら私ってば虚弱美少女ちゃんですからー。一足先に避難させてもらったんですよぅー。私の能力なら距離関係ないですしぃ?』
「……あ、はは……」
頭にガンガンと響く聞きなれた高音を何処か頼もしく感じつつ、黄泉路は瞼が下がり始めた事を自覚してゆるゆると口を開く。
「……すみません、すこし、寝ます。さすがに……疲れ――」
「ん。お疲れ様」
果と入れ替わる様に黄泉路を覗き込んだ美花の声を最後に、黄泉路の意識は深く深く内なる水底へと沈んでいった。
劈く様な悲鳴は――もう聞こえない。