7-45 見えざる伏兵2
慌ただしく動き回る地上とは隔離され、静寂が支配する地下の研究室。
自身の手元を見通す事すら怪しい暗闇の中、扉を背に室内を警戒する少年と少女と対峙した【領域手配師】――郭沢来見は内心の動揺を隣に立った人物に悟られまいと呼吸を務めて密やかに、深く深く息を吐いていた。
手には普段携行している、女性でも手軽に持ち歩き・射撃できると評判の小型拳銃――とはいえそれはあくまで扱いに慣れた、それなりにトレーニングした女性という意味であって、来見の様に元々銃に頼る気など毛頭ない、お守り程度の認識で携行している女性は対象外であるのだが――を構えて、両手にジュラルミン製のケースを抱かせるようにして立たせた女性の背に突き付けており、来見は様子をうかがう様に其方へと目を向ける。
対して銃を向けられている女性、御心紗希は拳銃を突きつけられているという事態そのものへ緊張を抱いてはいるものの、今すぐに恐慌をきたして暴れ出すという風ではない。
それは自身が殺されないという確信があるというよりは、どうしようもないという“詰み”に対する諦観に近いだろう。
来見の能力、【公的私物空間】は認識に作用する領域支配系能力である。
内側へと閉じ込められた人間は外への、外にいる人間は内への認識が希薄になり、有体に言えば“内外の領域を認識できなくなる”というものだ。
それ故に上階、地上で駆けずり回っている三肢鴉の面々は、今回の依頼の本命であるはずの御心紗希の救助に動くという認識が削ぎ落され、住民もまた、御心紗希を守るという認識が奪われてしまい、結果地上では住民を守る三肢鴉と避難する住民、それらに襲い掛かる政府勢力や孤独同盟といった混沌とした様相を呈している。
逆に内側に閉じ込められた紗希はと言えば、逃げなければという防衛本能からくる思考こそあるものの、その心境は例えるならば外界と一度も接触した事無く生まれ育った家猫のそれであり、暗闇も相まって領域の外は今以上に危険に満ちた、外に出るだけで自殺行為になる未知なる危険地帯のように思え、外へ逃げようなどという考えは浮かびもしない。
当然、内外の認識が隔絶されている以上、少年――朝軒廻が室内に突入した際に告げた声も、紗希にとっては届いてはいても理解できる音として認識できず、その言葉を正確に読み取れる来見は廻とは敵対関係である為内容を教えてやる理由もない。
「(……さて、どうしましょうか)」
だというのに、来見の表情は依然として暗い。
自身が領域を展開できている事も、人質が逃げる心配をしなくていいという事も含めた上で、来見はこの状況を危機的状況だと正しく認識していた。
「(声からして13、4歳くらい……声変わり前の少年の声って所が素敵だけど、気になるのはどうして私の事が判るのかね。私の認識阻害が通じていない……というよりは、私がここに居ると予め分かっている様な――)」
声の様子、その後の身動きの無さから、来見は状況を整理して暗闇の先で待ち構えている相手を分析しようと思考を巡らせる。
普段であれば少年の声――それも連想しうる年頃に反して静かな、大人びた雰囲気を感じさせるアンバランスな声音だ――はそうした趣向を持つ来見にとってはご褒美に近いものであるが、つい最近起きたそうした外見と中身が釣り合わない存在との邂逅を思い起こせば気を緩めていられるはずもない。
とはいえ、来見に現状を打開する明確な手段はない。自身の能力が正しく機能している事は相手がアクションを起こさない事から推察できるものの、反面、相手が来見の存在を把握している様子は自身の能力に何かしらの穴が開いているという事実に他ならず、浮かんでは消える様々な疑念から身動きを取る事が出来ずにいた。
何処かから響く地鳴りや、地中を通る事で絞られた微かな物音が遠くに聞こえる中、再び少年の声が暗闇に響く。
「領域手配師さん。交渉しませんか」
新たに齎された選択肢に来見は逡巡する。
交渉するという事は、相手に自身を認識させるという事だ。本来ならば無視すべき提案、だが――
「(私の存在は既に認識されてる……この上で姿を見せるのはナシなんだけど……時間、時間がないのよねぇ)」
暗闇の中でも発色する事で針と文字が浮かび上がった時計の時刻を一瞥して眉根を寄せる。
そんな来見の逡巡を見透かす様に、少年が再び声を発した。
「僕達はこのまま足止めし続けるだけでも良いんですよ。……でも、それだと貴方は困りますよね?」
まさに来見が懸念していた事実を言い当てた少年の声に、来見は決心したように小さく声を紡ぐ。
「今から貴方を助けに来た方と交渉をします。口は開かないでくださいね。もし怪しい動きをすれば……」
「……わかっているよ。君たちにとって大事なのは、私かコレか、だろうからね」
背後から腰辺りに銃口を突きつけられながらも軽口の様に応える紗希であるが、平素の紗希を知る者ならばその言葉端から緊張が見て取れただろう。
紗希は自身か研究成果、どちらかさえあればいいと口にはしたが、厳密には紗希自身の優先度は低いと見ていた。
というのも、人を攫うのとモノを強奪するの、後者の方が明らかに足が付きづらく逃げおおせる確率が高い。
それを理解しているからこそ、あえて自身を物品と同じ秤の上にあたかも等価値であるように言う事で領域手配師の思考を誘導しようと試みたのだ。
紗希のそうした意図を含んだ応答に、来見は銃口を押し付けて口を噤む様に促してから領域を――広げる。
「……いいでしょう。内容によりますが、話だけは聞きましょうか。とはいえ、既にここは私の領域。妙な動きがあれば……わかりますよね?」
来見と紗希だけを覆う様に展開していた極小規模な領域から、室内全域を覆い尽くす様に範囲を広げた来見が告げる。
今この瞬間をもって、地下室という存在そのものが地上から忘れ去られ、本当の意味で孤立無援になった事を空間認知に優れる姫更は瞬時に察するも、隣で発せられた普段通りの落ち着いた廻の声に出かかった声を飲み込む。
「ええ。そうですね。ですから交渉がしたいんですよ。貴女だってここに長居するのは危険だと――いいえ。長居できない事くらいは、僕は知っていますからね」
言外に交渉以外の動きがあれば即座に対応できるのだと匂わせる来見に応じ、廻の口から出てきたのは来見が先ほどから最も懸念していた――廻の交渉という選択肢に乗ろうと決めた要因の一つを知っていると匂わせるもの。
やはり何らかの経路から情報が洩れているのか、はたまたただの欺瞞か。判断つける事の出来ない来見はあえて言及して引っ掛けだった場合の墓穴を掘るよりも、本題を進める事で相手の狙いを明らかにしてやろうと問いかける。
「デートのお誘いでしたら歓迎だったのですが、そうでないならば本題に入って頂きたいものですね。交渉、というからには、互いに落としどころのある話なのでしょう?」
「個人的にはデートにも興味はありますが……まぁ、今は良いです。僕にとってはまだ時間はたっぷりありますからね。……単刀直入に言います。今すぐ身を引いてください」
「あら。もう少し口が上手いものと思いましたが、思い違いでしたか」
交渉としては下の下、要求を先に告げるのもそうだが、直球過ぎてそこから多少の妥協点を見つけたとしても足元を見られるだろう要求に、来見は所詮子供の考える事かと僅かばかりの安堵と落胆を交えたため息を吐く。だが――
「ああ、いいえ。別に脅しでも何でもないんですよ。このまま睨み合ってると、診療所の全焼に合わせて諸共死んじゃいますから」
続けて廻の口から飛び出した理由は、今までの前提を真っ向から覆す様なものであり、それもまた子供の考えと侮るには、あまりにも淡々とし過ぎる口調が来見の警戒度を再び跳ね上げる。
「全焼、とは。また物騒なことを言うんですね。上で油でも撒いてきましたか?」
「いいえ? でも貴女ならご存じのはずですよ。〆の一撃として貴女の陣営が打ち込むんですから」
「――っ」
あまりにも核心を突いた廻の断言に、来見ならず室内にいた全員が息を呑む音が重なる。
それと同時に来見は相対する少年がやはり普通でない事を確信し、より一層慎重に言葉を向ける。
「……それで、メリットは?」
「人を連れて逃げるより身軽でしょう? 貴女が今日、この土地から無事に生還できる経路をお教えしても良いです」
飲まれかけている、その実感が来見のうなじに嫌な汗を滲ませる。
ここで廻の口車に巻かれてなるものかと、来見は努めて平静を装った業務用の声音で否定を口にする。
「それこそ無意味です。敵の教える安全な経路など、どう信用しろというのですか」
「でしょうね。でも貴女は――16秒後には信じたくなりますよ」
「どういう……」
「あれ、いいんですか? カウントしなくても」
問いかけようとする口を遮って、楽しい事が起きるとでもいう様な、先ほどとは打って変わった無邪気な声音で問う廻に、来見は問いを続けるべきか、本当に16秒待ってみるべきかを迷い、思考が一瞬空白化する。
だが、隙を見せた来見に対して廻や姫更はおろか、紗希までもが身動きを取らなかった事から、来見は腕時計の秒針に目を向ける。
闇の中で揺れて1秒を重ねて刻んでゆく針が、10、11、12と時を進める。
その針が15、そして16を示した瞬間――
――ズズン……。
そう遠くない地点で発生した強烈な揺れが室内を揺さぶり、棚から瓶が、冊子が滑り落ちて闇の中に狂騒を奏でる。
「紗希先生!」
「――あっ!?」
唐突な揺れの最中、廻の声にいち早く応じたのは御心紗希であった。
紗希は廻の能力の性質上、指定した秒数の後に何かが起きる事を理解し、その時にそれまでの交渉に含まれていた内容から、そのタイミングで逃げろという指示だと受け取っていた。
そしてそれは廻の狙い通り、突発的な揺れによって動揺した来見は銃の引き金を引く事すら出来ず、紗希の身体は前へと――
「させません!」
だが、一瞬出遅れた来見がデタラメに発砲すれば、その銃弾が紗希の足元を掠め、その拍子に紗希は足を躓かせて床を転がる。
その拍子に手にしていたジュラルミンケースを取り落としたらしい、人が地面に倒れる以上の硬質な高い音が響く。
「紗希先生!」
ガン、ガンガン、と、何バウンドかしたらしいケースが転がる音に続き、闇の中で子供と思しき軽い足音が駆ける。
「(まずい、適当に撃ったから何処かに当たった!? だとしたらもう連れ出すのは私じゃ無理――)」
紗希が転げる音と、廻達がそれに駆け寄る音を聞きながら、来見は撤退する事を前提として領域を縮小させながら一歩踏みだし、
カツン、と。ブーツの先に硬い物が触れる感触に一瞬、思考が固まる。
だが、すぐに足元の感触の正体に辿り着いた来見は、素早く屈んで運良く足元に転がり込んできたジュラルミンケース――御心紗希の研究成果が詰まったケース――を掴むと、素早く能力で自身だけを覆い隠してその場に居るという認識を消す。
「先生、大丈夫?」
「ああ、ちょっと掠っただけ、だよ」
「よかった……」
駆け寄った姫更が問いかければ、紗希は手を仮ながらもよろよろと立ち上がる。
どうやら自己申告通り、怪我はなさそうだとホッと一息を吐いた姫更の反対の手を廻が握って急かす様に口を開く。
「姉さん、そろそろ予定してるポイントへ転移してください。もうじきこの部屋も危なくなります」
「わ、わかった。先生、いける?」
「ああ。本当は停電の時に落としたケースを探したい処だったんだが……」
「すみません、時間がありません」
殊更急かす廻の様子に、本当に時間がないのだと理解した姫更がふたりの手を掴むと、次の瞬間には3人の姿は地下室から消える。
人が消えた事で静寂の戻ってきた室内で、扉がひとりでに開く音が響いた。
ぎぃ。ぱたん。
扉が人ひとりが通り抜けた様な間をあけてから再び閉じる。
後には、今度こそ打ち捨てられたように完全な無音の闇だけが取り残されていた。