7-43 銀(しろがね)の魔法3
「黒よ! 黒よ!! 黒よ!!!」
もはや山中の森林であったなど、誰に行っても信じてもらえないような、岩石と霜、所々高熱の煙を吹く大地が入り混じった荒地と化した山の斜面に少女の声が響く。
呼応するように広がるのは、宵闇においてなお昏く、人工の灯りがない事で眩いばかりに天を埋め尽くす星明りすらも飲み込む様な、漆黒の陥穽。
「はははははっ、逃げているだけか!?」
「くっ!!」
空間が圧縮される独特の気配。一歩たりとも立ち止まらずに駆け抜ける黄泉路の腕が一瞬にして捻じ曲がる。
景色をも歪ませて現出した漆黒が周囲を飲み込む様に広がり、樹を、土を、血肉を巻き込んでゆく。
時間にして僅か数秒。たったそれだけの効果時間でありながら、テニスボール程度のサイズの黒い孔が齎す被害は甚大だった。
「――っ……」
「貴様の弱点はとうに把握しておる! 息吐く暇など与えん!」
「ぐ、あああぁあぁ――ッ!!」
腕を起点に捩じり圧縮された黄泉路が蘇生する赤い塵――蘇生の予兆を狙い澄ました刹那が吼えると、再び再展開された黒い孔が蘇生したばかりの黄泉路を抉り取る。
ガンガンと頭の中が揺らされる様な不快感に片手で頭を押さえながら立ち上がる黄泉路の外見は一見無傷にしか見えない。だが、その顔色は蒼白を通り越して土気色であり、蘇り方も含めてさながら屍人のようですらあった。
「はぁ……はぁ……」
「ふ、満身創痍といった所か。不死との触れ込みであろうと、限界はあろう?」
「……」
「何も言えぬか。良い、図星を指された者というのは得てしてそうなるものだ」
悠然と立つ少女、刹那は戦闘開始以前と変わりない身綺麗な格好のまま、大仰に笑う。
対照的に、外見上こそ無事であるものの表情に疲労を色濃く映す黄泉路はふるりと頭を振る。
「全身蘇生。凄まじい力である事は認めよう。だが、貴様にとっても対価無しという訳ではない」
「――い」
「貴様、生き返る時に痛覚まで蘇っているのであろう?」
得意げに、黄泉路の弱点を看破したと、勝利宣言する様に主張する刹那に対し、黄泉路の反応は鈍い。
「……さい」
「――何?」
――まるで、刹那の声が片手間にしか聞こえていないかのように。
「うるさい」
黄泉路が顔を上げる。その黒々とした瞳が刹那を射抜いた瞬間、刹那は余裕めいた表情をびしりと凍り付かせる。
反射的に一歩後退り、自らを庇う様に片腕を抱いてしまってから、刹那はハッと我に返る。
「き、さま――」
「……ううん、ごめん、なんでも、ないよ……それで、何の話……だったっけ」
ふわりと、戦闘中だという事すら忘れそうなほどに穏やかな声音が響き、柔らかく微笑む黄泉路に、刹那は先ほどの眼差しが幻であったのではないかとすら思えてしまう。
だが、刹那の直感は告げていた。むしろ今の穏やかな表情や声音の方が、迎坂黄泉路の仮面なのだろうと。
「ふ、はは、ふははははは! 否定するというならばそれも良かろう! ならば貴様が音を上げるまで、我は貴様を殺し尽くす!!」
「それは、大変だね」
ゆらりと、黄泉路が一歩を踏み出す。
次の回避など考えない。そう告げる様な、緩やかであるが力強い一歩。
「だって――最短でもあと10万回程度は、僕を殺さなくちゃならないんだから」
「――ッ!?」
「対して僕は、もう一度君を捉えるだけで良い。簡単だ」
「――! 血潮よ! 黒よ!!」
黄泉路があえて分かりやすい挑発を使った事くらいは刹那にも理解できていた。だが、そこで乗らないという選択肢は黒帝院刹那にはない。
駆けだした黄泉路の足を絡める様に土を巻き上げてあふれ出したマグマの鞭が、黄泉路の右足を捉え膝下をごっそりと焼き融かす。
だが、右足で一歩踏み出そうという意志に応じたように次の瞬間には黄泉路の右足は即座に再生されて赤々と焼き付く地面を踏みしめ、靴底、そして肉の焼ける音が微かに響く。
直後、黄泉路の首から上がぐしゃりと捻じれ、その場にぽっかりと空いた黒い孔が全身を飲み込みすり潰す。
「――」
「くっ、女帝よ!!」
孔が塞がると共に集まりだした赤い塵。もはや幾度となく見た蘇生の前兆に刹那はすぐさま追撃を加える。
マグマによって瞬間的に熱せられた大気がひび割れる様に白く霞み、白いシルエットの女性が赤い塵を飲み込む。
だが――
「……」
「く、ぅ……おのれ、おのれおのれぇ!!!!!」
黄泉路は消えない。
黄泉路は斃れない。
黄泉路は死なない。
幾度すり潰されようと、幾度焼き尽くされようと、幾度凍てつかされようとも、迎坂黄泉路という少年はそう在るべきとでも定められたかの如く、どこぞの指定服らしき学ラン姿で立ち上がる。
自分は今何を相手取っているのか。背筋に走る薄ら寒い思考を断ち切る様に、刹那は叫ぶ。
「黒よ!」
再び発生する極小の重力場が狙いを違わず黄泉路を巻き込み空間ごと捻れ萎み――
「遍く命が至りし地」
黄泉路の身体が完全に消失した瞬間、刹那は詠う。
「其は安寧の寝所にして無限の檻。我が詩を以って誘おう、我が声を以って灯を消そう。眠れ、眠れ。汝が永久はここに成されん」
紡がれる新たな詩に呼応し、刹那の足元が、体が淡く光を纏う。
無色透明な光とも呼べるような、非現実的な色彩の光が緩やかに周囲を満たし、
「――《廃銀なりし幽世の揺籠》!!!」
静かに、静かに光が世界に染み渡る様に溶けてゆく。
それは降り頻る端から溶けてゆく雪の様に。
遍く生きる命を眠りにつかせる子守歌の様に。
月明りに照らされて銀の様にも見える粒が躍り、その残滓が完全に消え去る頃には、
「ふ、はは、ははははははっ。我の――勝利だ!」
黒を纏った少年の姿だけがそこになかった。
◆◇◆
澄み渡る様な青白い水底、淡く蒼銀色に煌めく流砂の丘に直立した黄泉路はぱちりと目を開く。
「……うっ、ん……。また戻されたな」
ふるりと横に頭を振れば、水中特有の緩やかに追従する毛先が視界の端で揺れる。
土気色だった顔色は健康そのもの、男子にしては色白な手の甲にキラキラと降り積もる銀の粒が当たっては弾けるのを見つめ、降り積もる水上へと視線を向けた。
「あまり、長居はしたくないんだけどね」
呟けば、こぽりと。肺すらも水で満たされているべき環境であるにもかかわらず口元から気泡が溢れて光の差す頭上へと抜けて行く。
泡が分裂して小さくなり、それでも消えずに上へ上へ。あと少しで光に届くといった所で、降り頻る銀の粒子に当たった泡が相殺されて消える。
見れば、いつもであれば黄泉路が蘇る時に向かう水面が一点を除いて空が縮小したように暗くなっており、唯一の光源からは先ほどから降ってきている光の粒子が流れ込んできていた。
というのも、蘇る直前――つまりは刹那が新たな呪文を唱え始めた段階まではあちら側の状況が知覚出来ており、呪文を唱え切った瞬間からそれらの情報が一切入ってこないからだ。
加えて、
「……まぁ、少し整理する時間が出来たと思えばいいか」
刹那が黄泉路の能力を弱点を探り当てたように、黄泉路もまた刹那の能力の片鱗を掴んでいた。
「人前で――いや、最初のを考えるとその場、効果を認識できている人が居ない時に限って、か――新しい魔法を使う時は、必ずあの前口上が要るのは確定かな」
始めの襲撃が起きた際、駆けつけた黄泉路達に向けて刹那はただ手を振り上げ、降ろすという動作をしようとしていた。それはつまり、あの場では直前に使用した魔法ならば詠唱を省略しても使えたという事に他ならない。
翻って、黄泉路との1対1でのやりとりにおいては、刹那は常に新しい魔法を使用する際には長ったらしい前口上を唱えていた。
一度唱え切ってしまえば後からいくらでも、順番を問わず連射できるのは変わりない脅威ではあるが、
「いくら即効性に優れていても僕なら何とか対処できる。……現時点で警戒すべきはまだ知らない魔法の完成……」
死ぬことが終わりではない黄泉路にとって、致死性の高さや攻撃性能の高さはさほど問題にはならない。
先ほどまでの頭の痛さが嘘のようにすっきりとした意識の中、黄泉路は戦闘中にあった緊張と耳鳴りにも似た頭痛によって優先順位を落としていた思考を加速させる。
「刹那ちゃんの能力の根幹、僕の蘇生時の痛覚復活、余所の状況確認……やることが多いけど、つまるところは刹那ちゃんをどうにかしないと始まらないな」
自身の蘇生時にまつわるデメリットはこの際棚に上げよう、そう区切りをつけた黄泉路は現状差し迫って必要な刹那に対抗する為の考察を煮詰めて行く。
頭に浮かぶのは、刹那の多彩な――それこそ魔法と呼ぶにふさわしい――技の数々。それに対して、能力は一切寄与していないであろう虚弱とも言える身体能力。
つまりは多彩ではあっても万能ではない。
ならばその多彩さと、それに反して行えない事の差異は何か。
「……魔法……呪文……それっぽくカバーしてる……? いや、刹那ちゃんの性格的にちょっとそこまではなさそうかな……? むしろあのキャラ付けからして“制約”? うーん……」
こぽぽぽ……。
言葉が呟かれる度に泡が上がり、思考する為に伏せた顔、頬をなぞり前髪を揺らして水面へと抜ける。
水流すらもない凪いだ水底はただただ静かで、ともすれば時間の感覚すらも滲んで消えてしまいそうな穏やかな静謐の空間の中、思考の海から帰ってきた黄泉路がふと顔を上げる。
「……うん。確定してる一つ以外さっぱり分からないや」
まぁ、でも――と。水面を見上げた目をすっと引き絞られる。
「弱点が一つあれば十分だ」
手を伸ばす。
降り落ちる頻度が収まりだし、極小さく収縮して乏しくなった頭上の光。
その先にある中心に伸ばせば届くことが当たり前であるかのように伸ばされた黄泉路の指先が、何かに触れた。
「つかまえた」
ビシリ。
空間――否、それ以上の何かが、黄泉路の指先が触れただけでひび割れる様な、世界そのものが軋む様な音が静寂を掻き鳴らす。
これ以上押してしまえばこの均衡は保たれない。ともすれば世界を壊してしまう。そんな予感すら抱かせる不吉な音が警鐘を鳴らす中、黄泉路は静かに、ただ自然とソレを握り込む。
「邪魔しないで」
握り込んだ手に力を込めた瞬間、
――パキィィィィン!
銀が弾け、澄み渡る様な高音があたかも大音量で響いたが如く水中を駆け抜ける。
圧縮された光が散逸し、水面を埋め尽くす様なまばゆい光が飽和し――
「(……っ、声、が……聞こえる……。声が、声が、声が……!)」
崩落する銀色が溶けあう水中に混ざり込む最中、蒼銀の水底からあふれ出す雑踏めいた不協和音に攪拌されそうな思考をぶつ切りに、黄泉路は足元を強く蹴る。
蹴った勢いで更に上へ。水上へと駆け上がる黄泉路が光に呑まれ、そして、
「――勝利宣言には、少しばかり早いんじゃないかな」
銀をねじ伏せた黒が、魔女の前に現出した。