7-40 見えざる伏兵
「姫姉さん。起きて」
「……ん」
周囲に憚る様な潜めた少年の声音が肩を揺らす。
突然の停電によってすべての明かりが失われる、ほんの数秒前に掛けられた声によって姫更の意識が微睡みから浮上すると、戦時中を思わせる様な外部に光を漏らさない様にカバーの付いた照明によって明るさの保たれた室内の光景と、見知った少年――廻の顔が視界に飛び込む。
時刻としては日付が変わって暫くと言った頃合い。普段の姫更であればとうに眠っているはずの時刻だが、今日に限って言えば事前に仮眠を取っていた事もあって意識はすぐにはっきりする。
「来た、の……?」
「はい。行きましょう」
バツン、と待合室も含めたすべての電気が消え去った事で、僅かに寝ぼけていた思考がはっかりしだした姫更が問えば、年下の少年にしか見えない廻は暗闇の中で手を差し出す。
姫更と廻の付き合いの長さ自体は他の三肢鴉構成員や夜鷹支部の面々と大差ない。黄泉路によって救われ、引き取られ、こちら側の世界に踏み込んだ廻であればそれは当然のことだ。
一方で、付き合いの深さに限って言えば黄泉路すら凌ぐ一面がある事はあまり知られていない。
姫更と廻は歳が近い事もあり、夜鷹においては何かとワンセットとして扱われることも多く、また、互いの能力が組み合わせることで相乗効果を生む事は本部での模擬戦からしても明らかだが、それ以上に、
「あと、何秒?」
「13秒と少しですね」
夜鷹年少組の繋がりは深い。
【予知能力者】朝軒廻が、兄と慕う黄泉路にすら秘密にしている事でも、姫更にだけは打ち明けている事実がある程には。
その証拠に、姫更はこの地へとくる前から大まかにだが未来の予定を伝えられていた。
黄泉路にすら伝えられなかった――否、黄泉路だからこそ伝えられなかった予知を聞いた姫更は、それでも廻の案に乗った。
差し伸べられた手を握り返し、姫更は待合室の長椅子から身を起こし、恐らくは相変わらず義兄譲りの曖昧な笑みを浮かべているであろう暗がりの先の共犯者と共に診察室へと歩きだす。
同様に診療所に詰めていた三肢鴉の構成員達が突然の停電に狼狽している間にもふたりは迷うことなく診察室の扉を開けて中へと踏み込む。
ふたりがちょうど診察室へと踏み込んだタイミングで足元を伝う揺れに、姫更はちらりと廻の方へと顔を向ける。
「大丈夫です。まだ」
「もう居るの?」
「そのはずですよ」
ふたりの間だけで完結する会話。互いに意図を把握したうえでの確認作業でしかないやりとりからは内容を推察する事も出来ず、また、この場に真意を問える第三者も居ない為、その内容が詳らかになることはない。
脳裏に響く【オペレーター】藤代標からの状況報告に相槌を打った廻は姫更の手を引いて地下へと続く螺旋階段を下り始める。
かつん、かつん、かつん。
階段に使われているのは武骨な鉄材であり、縦に長い空間構造から音が嫌に響く。
本来ならば、襲撃を知覚した時点で転移能力で駆けつけるという行動が最善だが、その選択肢を姫更が採ることはない。
「(……この先に、私の知らない敵がいる……)」
この作戦が開始される前――具体的には、作戦に参加する為に本部行きの流れを形成する為の下準備の段階で、姫更は既に今日という日を廻によって告知されていた。
日頃から転移によって移動する所為で何処に居てもおかしくない姫更という協力者を得て、人目を掻い潜る事が容易になった廻は、黄泉路達に隠れてあらゆる手を打っていた。
対勇未子に特化した戦闘訓練を始めとした各種暗躍も、全ては下準備に過ぎない。
「姉さん、ストップ。手を繋いだまま横に広がって」
「ん」
現状であるところの、子供ふたりで襲撃前に潜伏していた敵と相対する事すらも、既にこのふたりにとっては織り込み済みの事であった。
「……変」
非常灯すらも消えてしまって居る通路は相変わらず狭く、子供であれば余裕であっても、大人がすれ違うのは難しいだろうと思わせる。
数メートル先すら見通せない闇に敵が潜んでいると思うと、姫更は小さく喉を鳴らし、取り出した暗視ゴーグルを装着する。
「僕も辛うじて彼女の存在を知っているだけなので、前も言いましたが、姉さんの空間把握が鍵です」
「わかった。頑張る」
互いに暗視ゴーグルをつけ終わり、闇の中でも躓かない程度には先が見通せるようになったのを確認し、互いの片手の端が通路の壁を伝う様な形を取って通路を塞ぎながら、紗希が直前まで荷造りをしていたはずの研究室へと歩き出す。
ちらりと横目に見る廻の表情に変化がない事を確認して、姫更は内心で小さく息を吐く。
「(予定通り、って事なんだよね?)」
廻と初めて出会ったのは、黄泉路の手伝いをしたいと思ってついて行った依頼の現場。姫更にしてみれば、いつくるかもわからない未来に怯え、殻にこもる事で身を守ろうとしていた歳相応の子供。
それが姫更が廻に抱く第一印象であった。
だが、依頼が終わり、しばらくした頃に黄泉路が会いに行くと言い出して向かった先の孤児院で再開した時は、既に違っていた。
何がという言語化はその時の姫更にはできなかったものの、今にして思えば、あの時点で既に今の廻に近かったのだろうと、今だからこそ姫更は断言できた。
廻が自身を協力者に選んだのは、都合がよかったから。距離を無視できる能力と、近い年齢、加えて同じ目的意識を持つ同志。
姫更の側は廻に対しては知らない事の方が多い。未来を知る廻によって自身の能力の使い方の応用――廻曰く、未来の姫更が使ったものの先取りだそうだが――から、今後起きるらしい未来についての最善の着地点まで。幅広く教えては貰っている物の、姫更自身の勘が、廻は本当の意味ですべてを教えてくれている訳ではないのだと告げていた。
「(それでも構わない)」
その上で、姫更はそう断言する。
何故なら今まで廻は未来の告知をしても、強制はしなかったから。
常に廻が提示するのは、何もしなかった場合の複数の最悪パターンと、現実的かつ最善のパターンのみ。あとは最善のパターンに持っていくために姫更が何をしてくれたら嬉しいというだけのお願いだけ。
未来予知能力者にそう告げられれば断れないのは自然の事だと思うが、最悪を引かないための努力が確実に実るならば否やはない。
なにより、廻の行動はそれぞれがその当時は不可解な物ばかりだが、目的は終始一貫している事だけは信頼できる。
「(これが黄泉兄のためなら)」
――黄泉路の為。
それが、廻と姫更の間における共通項。どうして廻が黄泉路にそこまで執着するのかは分からない。だが、それを聞いた時の表情を見て、姫更は協力しようと思った。
今にも崩れそうな、どうして泣いていないのかが不思議なほどに揺らいだ年下の少年の顔は、それだけで未来の黄泉路に何があったのかを聞くのを躊躇わせた。
だからそれはいい。聞く必要はない。
そうならない為の行動を起こそうと、そう思ったのだ。
「――捉えた」
「っ」
実際の長さよりもひどく長く感じる通路の終着が見え始めた所で、姫更の足が止まる。
それに伴って足を止めた廻が姫更とつないだままの手を強く握る。
「たぶん、まだふたりとも中にいる」
「ええ。あの人の能力は姫姉さんの様に飛び回れる類ではありませんから」
「……認識阻害だっけ?」
「正確には、世界に対して認識の境界を作り出す概念結界の一種、ですね。展開されてしまえば僕の様に時間軸の違う知識からの紐づけや、姉さんの様な空間そのものに対する俯瞰的な認知のような、別角度からの観測でなければ観測結果すら歪ませる驚異の人避けです」
この現状に持ち込む為の準備段階から聞かされていた今回の敵の情報。本来は秘匿されているどころか、文字通り認識阻害によって存在すらも知らなかっただろうその能力が、相対する前から丸裸になっているというのは姫更としても空寒さを感じるが、味方であるならばこれ以上に頼もしい存在も居ないだろう。
互いに顔を見合わせ、廻が研究室の扉に手をかける。
「ここからは時間との戦いです。行きますよ」
「ん」
バンッ、と、あえて強く音を立てて扉を開ける。
外や廊下と同じく照明の落ちた研究室の中で、突然の音に驚いた何者かが取り落とした瓶が割れる音がした。
「紗希先生。助けに来ました。……そこにいますよね、【領域手配師】さん?」
暗視ゴーグルでも映らない認識の境界の先を、まるで見えているかのように告げる廻が不敵に笑った。




