7-37 銀(しろがね)の魔法2
夜とは言え夏とは思えない冷気を肌で感じた黄泉路は反射的に空中へとその身を翻らせる。
直後、空へと身を投げた事で高くなった視界いっぱいに広がる光景に、黄泉路は白く軌道を描いた息を呑む。
「――なっ」
急激な温度の変化によってキシキシと空気が音を立てる。直前まであれだけ赤々と周囲を照らし、燃やしていた炎の姿は見る影もなく、まるで視界全ての熱が消失してしまったかのような、真冬が如き白銀の世界が黄泉路の視界を満たし、
「うっ、く……」
ピシリと、視界にひびが入る様な錯覚。――否、錯覚ではない。急激な温度変化によって凍り付いた空気中の水分が見開かれた瞳に張り付き、視界に幕を覆いひび割れたのだ。
無理やり瞬きをすれば、ぽろぽろとまつ毛から氷の破片が零れ、氷の破片で目が傷ついたらしく、赤い塵が混じって視界が元通りに復元される。
「ふふ、さすがに勘が良いな。そうでなくては興醒めというものよ」
「それは、どうも」
着地した黄泉路の足元で、しゃり、と。霜柱を生成した地面が崩れる。
霜柱とは氷点下の環境において地表が凍る事で土中の水分が表層に吸い上げられつつ氷結する事で発生する現象だ。
その性質上、長く緩やかに凍り付く方が霜柱は大きく成長する。黄泉路の足元で砕け、踏み抜いた地面は数ミリにも満たない物であるが、踏み砕いた感触から、冷気の噴射が一瞬にして、それも周辺環境を一変させるレベルで行われた事を理解した。
肌を刺す冷気によって耳などの皮膚の薄い箇所がピリッと裂ける感覚を無視し、黄泉路は油断なく刹那へと声をかける。
「随分と寒くなったけど、今度はどんな手品かな」
「手品ではない。魔法だ」
「……魔法、ね」
まさしく、黒帝院刹那という少女の使う能力は魔法そのものだ。
初めの攻撃は何であるか分からない。だが、溶岩に関しては黄泉路がその目で見て体感した。溶岩だけならば、能力者としてそうした能力を持つ者が居てもおかしくないと断言できる。
だが、黄泉路の攻撃を阻む不可視の壁や、刹那自身が移動する際の重力や慣性、摩擦の一切を無視する様な身のこなしを加えてしまうと、その能力の本質が途端に霞掛かったものへと変質してしまう。
極めつけは現在黄泉路が直面している溶岩以外の脅威だ。
「まさか、氷漬けになる程とは、思わなかったよ」
「ふっ。如何に再生力があろうとも、大きな損傷も無く身動きを封じられればどうにもなるまい?」
刹那の繰り出した新たな戦術を見極めるべく足を止めていた、そのこと自体が仇となった黄泉路は動けない。
霜を踏み抜いた靴から、先の溶岩によって焼き切られむき出しになった太腿に至るまでもが、地面に着地して出方を窺うほんの数秒の合間に白く膜を張って固まってしまって居た。
吹き付ける空気によって凝固し、厚さを増してゆく氷の膜が腰から下の動きを完全に制し、こうして会話をしている間にも黄泉路の身体を埋めるように侵食してゆく氷の面積が肥大化していっていた。
このままではあと数分もしないうちに全身動かなくなるはずだが、黄泉路はそれでも刹那の動向を注視しながら口を動かす。
「そう思うかい?」
「……否、そうであれば良かったというべきであったか」
生きたまま身動きを取れない状態にされる事こそが黄泉路にとって最も危惧すべき戦術である事は否定の余地がなく、本来であれば黄泉路はまだ体が動くうちにでも脱出を図るべきである。
だが、それは不可視の力などで拘束されたならばまだしも、冷気による冷凍であれば話は別だ。
「生憎と、冷凍保存は経験済みでね」
かつて、出雲という少年に課せられた数々の致死性を帯びた人体実験は、迎坂黄泉路という存在に確かな傷跡として残っていた。
凍結保存されようが低体温によって死亡が確定した瞬間に氷の外で蘇生をしたという実体験があるが故に、黄泉路は自身の生死をひとまず脇に置き刹那から情報を引き出すことを優先させる。
「それにしても、刹那ちゃんの能力も不思議だよね。“ヘイルタナトス”、だっけ?」
「ふっ。地獄に佇む静けき女帝、という」
「へぇ……なるほど、ね!」
自らの力について誇る様に鼻を鳴らす刹那に対し、黄泉路は相槌を打ちながらにこりと笑うと、言葉の末尾に呼吸を合わせて胴の半ばまで凍り付いた自らの身体を大きく捻る。
激しい身動ぎによって既に壊死を通り越して芯まで凍り付いていた肉が、骨が砕けて千切れ、断面が凍結した上半身がぼとりと白くなった地面へと転げ落ちる。
「なっ!?」
腕の力だけで飛び上がり、胸から上だけの姿で襲い掛かってくる姿にはさすがの刹那もぎょっと目を見開き絶句してしまう。
上半身だけになった女が追いかけてくる都市伝説を彷彿とさせる恐ろしさ、だが――
「女帝よ!」
存外に復帰の速かった刹那は指揮者の様に右手を天へ掲げる。
ひゅぉう、と風が吹き、それだけで黄泉路の指先がボロリと崩れる絶対零度が吹き付ける。
それでもなお前進をやめない黄泉路の腕に白い靄が絡みつき、その瞬間には刹那の足元に届きかけていた腕がパキリと軽い音と共にひび割れて砕けた。
腕が砕けた事で重心が狂い、黄泉路は地面を転げる。しかしすぐに断面すらも凍った腕の残骸でもって横へと飛べば、つい先ほどまで黄泉路の身があった場所に女性の手を思わせる白い靄が掠め、地面に氷の花が咲く。
「めちゃくちゃだな貴様は!」
「それもお互い様!」
思わず叫び返した黄泉路の視界には、魔女を抱くように展開した3mはあろうかという白い靄で構築された女性のシルエット。その腕が黄泉路の腕を一瞬にして凍り付かせて砕いたのは疑いようもなく、あれこそが刹那が呪文で呼び出した芯たるモノであり、周辺の環境変化などただのおまけに過ぎないのだと直感させる。
だが、黄泉路は臆することなくその異常現象に目を向けた。
「(障壁を使わない所を見るに、あの靄は攻防一体みたいだけど――人型をしてるだけ見えない壁よりは分かりやすい!)」
残った左腕だけで地面を掻き、爪が剥がれ、指が凍傷によって割れるのもいとわずに、黄泉路は再び一直線に突撃する。
当然の如く人型の靄が刹那との間に割って入り、黄泉路を受け止める様に両腕を拡げる。
描き抱くように腕が閉じられた瞬間には黄泉路の半分になっていた全身は白く、表情すらもそのまま切り取った氷像へと変わってしまう。
それが靄を突き抜け、自重に任せて地面と衝突して砕けると、微細な赤い塵になって凍てついた大気の中で人型を取り、瞬く間に制服姿で五体満足の黄泉路が姿を現し、一瞬だけふるりと身を震わせる。
「死の抱擁すら通らぬか! だが、貴様とて弱点はあるようだな」
「(……? 何を言って――?)」
再び全快となった黄泉路は先の経験を活かして刹那に行動を――より具体的に言うならば詠唱を――させまいと距離を詰める。しかし、
「詠唱破棄! 《黒より黒き至る死の星》!!」
刹那の口上の方が黄泉路の足よりも速く、紡がれた言の葉が黄泉路の眼前で黒を結実させる。
「(また――ッ)」
咄嗟に首を傾け、瞬く間に拡大してゆく黒を避けようとする黄泉路、だが、その体は意思とは無関係に黒へと引き寄せられ、一瞬のうちに全身が轢き潰され、再び赤い塵が人の形を整え――
「続けて多重詠唱破棄! 《地獄に佇む静けき女帝》!」
「――ッ、ひッ、あ……っ、っ!?」
押し寄せる白い抱擁に包まれた黄泉路の顔が引きつり、声すらも凍らせる絶対零度に悲鳴が迸った。
「(さ、さむい、いたい!! いたい痛いいたいッ!!! な……にが!?)」
「ふはははははっ、やはりな!!」
「ッ」
ボロボロと崩れ落ち、白いコーティングの成された赤黒の粉へと変じた黄泉路が再び五体満足へと結実する。
しかし、その有様は先ほどまでの余裕を湛えていた表情からは一転、青白い顔色で肩で息をして膝をついていた。
「くっ……今の、痛みは……」
久しく遠ざかっていた激痛に肩で息をし、吐き出された白く霞む吐息が不規則に震える。
「ほう、貴様自身無自覚であったわけか。それは重畳。ならば教えてやるわけには行かんな?」
「……そうだね」
芯まで凍える様な痛みは引いた。後に残っているのは死に触れるという心臓に悪い悪寒の名残だけだ。
故に黄泉路は自らを奮い立たせるべく、立ち上がりながら口の端を吊り上げて嗤う。
「でも、そんな小細工をした所で、君の魔法は僕には効かない」
「その強がり、いつまで続くか――!」
そう、強がりだ。だが、弱みを見つけたのは何も、刹那だけではない。
「試してみればわかる事だ」
「《黒より黒き至る死の星》!」
黒が生成される、直後、黄泉路が再び為す術なく飲み込まれ――
「続けて《地獄に佇む》……?」
蘇生の前兆たる赤い塵が何処にも発生していない事に、刹那は首を傾げる。
殺ったのかという思考が僅かに浮上するも、すぐさま甘い考えだと切って捨てたのは、刹那なりの黄泉路に対する期待であろうか。
「……出てくるがいい。よもやあの程度で今更死んだとは言わさぬぞ」
時間すらも凍結した様な暗く静かな森の中に、刹那の声だけが反響して霜の降りた枝がぴしりと軋んだ音を立てる。
1秒、2秒、3秒。10を超えても姿形の跡形もなく、黄泉路が居た場所は地面ごとごっそりとくりぬかれたような極小のクレーターのままだ。
「(あれだけの大言を吐いておきながら、逃げたのか?)」
敵わぬ相手と無理に戦う必要はないと、刹那は強者故の余裕を持ってそれを是と認めていた。故に、もし黄泉路が自身が期待した通りの相手出ないのならばそれも止む無しであろうかと、静寂が分に届くかという所で追跡をすべきかどうかに思考を切り替えた、その瞬間。
――さぁあぁ。
と、微細な砂が動くような、幻聴と言える程に微かな物音に、咄嗟に後ろへと飛んだ刹那の腹部に中空から生えてきた拳が突き刺さった。
「――ぐ、ぎぅっ……!?」
「浅い――か!」
蘇生を遅延させる事によって追撃を中断させ、警戒が緩む一瞬の隙をついて身体を再生させながら接近した黄泉路の奇襲、しかし、その手ごたえが軽かった事に黄泉路は内心舌を打って更に踏み込もうとし――
「げっほっ、ごほっ、おぇ……ぐ、ぅぅ……!」
「せ、つな……ちゃん?」
「ぅう……く、ぅ……ぁ……」
黄泉路の体感としては浅く、致命傷には程遠いという認識だった拳。それが当たっただけにも関わらず、刹那は痛みにうめいて蹲ってしまって居た。
油断させる為の方便かとも思う黄泉路であったが、その痛がり様が痛覚遮断が出来なかった頃の自身によく似ていた事もあり、畳みかけるという意識がふっと抜け落ちてしまう。
「はぁ、はぁ……はぁ……くっ、う……」
「刹那ちゃん……まさか――」
まさか、とは思った。強力な能力者にありがちなそれ。今の今まで無意識に思考から追い出していたが、刹那の身体は服の上からでもわかる程に華奢で、とてもではないが痛みに慣れている様には見えない。
「戦い慣れてない……?」
能力が強力であればあるほど。能力者はその身に降りかかる危険を能力で何とか出来てしまう。
故に身体を鍛える必要がなく、戦いに出ればほとんどの場合は一方的な物になる。
そう言った能力者は得てして自身の肉体そのものが足枷になっているケースも多い事は黄泉路も実体験として理解していた。
子供のころに怪我をせずに大人になった人間が、転んで擦り傷を負っただけで大事のように感じてしまうそれに近い。
普段縁がないものだから耐性がつかない。
「は、ひ……はぁ……はぁ……」
よろりと腹を抑えて身を起こす刹那に、黄泉路はどうすべきかと躊躇いを持ってしまう。
刹那は敵だ。それは否定の余地も無く、また、日頃であれば敵に対して躊躇するほど黄泉路は甘くはない。
だが、敵対する以前からの親交がある事が黄泉路の決断を鈍らせていた。
この戦いを最短で終わらせ、今もなお襲撃を受けているであろう三肢鴉の面々の助けになると分かっていながら。
「もう、やめない? 刹那ちゃんさえ大人しくしていてくれれば僕も……」
――黄泉路は迷ってしまった。
その結果、口から洩れた嗚咽を服の袖で拭った刹那の瞳を見た黄泉路はすぐに後悔する。
「我は万能、我は不滅、傷などいらぬ、我こそ完全の体現者。全ての瑕疵よ、我が前より去れ。 ――《万障廃する蛇の指輪》」
「ヒール――治癒か!」
「我が身に拳を届かせた事は称賛に値しよう。だが、我を愚弄するのであれば」
光の輪が刹那の身体を通り抜けると、苦々しい顔色に怒りを湛え、
「我が魔導の前に斃れるがいい!!」
宣誓とも言える刹那の怒声が響き渡った。