7-36 銀(しろがね)の魔法
人工的な灯りの介在しない深夜の樹海の一角。
戦線から離れている事もあり、遠く微かに響く音や仄かな光だけが戦場の様子を窺わせる静寂の中、地面に程近い空間が突如として水彩画の様に揺らぐ。
光の屈折ではない。ましてや空気の層や熱によるものでもない。自然界では決して在り得ない空間の揺らぎが治まると、そこにはふたりの人間が現出していた。
「ここならば我が同胞も布陣して居らぬが故、邪魔も入るまい」
淡く差し込んだ月光に反射する様に夏の夜風に揺らめく銀の髪を惜しげもなく晒した少女、“銀冠の魔女”黒帝院刹那が対面の少年へと尊大な口調で声をかければ、無貌の仮面を貼り付けた少年が周囲を探る様な気配を滲ませた後に自らの顔を隠していた仮面を脱ぎ去る。
そこに現れたのは、青年と呼ぶには若く、幼子と呼ぶには成長しすぎた、子供と大人の境にある様な少年の顔だ。
相対した銀の髪に対比した様な黒々とした髪はまるで宵闇に浮かんだ月と夜そのもの。髪の下に覗く瞳はどこか躊躇いと、それでいて折れない芯を合わせた意思を感じさせる深く沈んだ黒をしている。
黒髪黒目の少年、迎坂黄泉路は緩やかに、しかしよく通る声で刹那へと問いかける。
「君は――“孤独同盟”なのか?」
「いかにも」
「何で君が……」
「それは此方の台詞よな」
拭いきれぬ希望を託した問いを刹那が即断で切って捨てる。
真正面から肯定されてしまえば、黄泉路は困ったような、苦々しいような、どちらともつかない色を口元に浮かべるしかない。
まだ話し合う余地はあるだろうか。そう思いを乗せた問いすらも、刹那も同様の苦々しい顔で切って捨てる。
「よもやあの邂逅から謀られていたとは」
「っ!?」
ただ、どちらかといえば、刹那の表情は戸惑うというよりも、既に怒りに達していると見て間違いない事は声音からも明白だった。
「もうよい、問答は無用! 我が敵として立ちはだかると言うのならば貴様とて悪、もはや友とは呼ばん、早々に打ち倒してくれる!!」
刹那が再び手を挙げる。号令の様に振り上げられた白魚の様な細くやわらかな指先は銀色の髪と相まってある種の不可侵性を帯びた神秘的な印象すら抱かせる。
だが、黄泉路にその情景を楽しむだけの余裕はない。既に何事かの予兆――恐らくは先の戦場をああも壊滅せしめた絶対的な破壊の前触れ――として空間が歪み始めていた。
「星よ星、光を捕まえる黒き凶星、我が手を辿り、そなたの亡くした熱を埋める手伝いをさせておくれ。我が手示す先は我が敵の熱、手繰り巡り辿り着く星の旅路、その末尾を彩っておくれ!」
肌にびりびりと伝わる本能的な警告が黄泉路に距離を取らせようとする。
だが、ここで下がってはいけないという意志だけで、黄泉路は少女へと呼びかける。
「刹那ちゃん!」
「もう遅い! ――《黒より黒き至る死の星》!!」
無情にも、詠唱が終わる。
同時に黄泉路の視界に飛び込んできたのは、黒。
「っ、あ――ッ!?」
景色を食い破り、周囲すべての色すらも吸い寄せる深淵の闇が、黄泉路の眼前に、伸ばしかけていた手を飲み込んで現れる。
空中に放り出される様な一瞬の浮遊感と共に黄泉路が感じたのは、自身の身体が一瞬にして圧縮されて砕け散る感触だった。
「ふっ、去らばだ。かつて同志であった者よ」
とはいえ、自身の精神を現実から引き離した状態で肉体を動かすという痛覚抑制を得ている黄泉路にとって、それはただ肉体が全損したという事実だけにすぎない。
「――そう、言わないで欲しいな」
「何っ」
背を向けて感傷に浸る様に呟く刹那の声にあえて反応してやることで、黄泉路はその身の健在を刹那に誇示する。
振り返った刹那に対し、黄泉路は攻撃を仕掛けるでもなく口を開く。
「僕はまだここにいる。君じゃあ僕は殺せない。刹那ちゃん、君がどんな正義を抱いてここに、孤独同盟に所属しているかは知らない」
でも、と。黄泉路は両手を広げ、もはや着慣れた学ラン姿で刹那に告げる。
「僕にだって、護りたいものがあるんだ。それだけは刹那ちゃんであろうと否定する事は許さない」
仮面も無く、武装もない。一見して何処にでもいる学生の様にしか見えない黄泉路の瞳だけが、夜の闇に溶ける様な黒でありながらも雄弁に、強く蒼く輝くように刹那を射抜いていた。
心に信念を掲げているのだと、かつてそうあれと示した刹那に対して行う黄泉路のそれは宣戦布告だ。
相対する刹那は一瞬言葉を失ったように目を見開くが、次の瞬間には愉快そうに口の端を歪め、
「――ふ、はは……はははははははははっ!!!!」
哄笑。夜の静けさを払う様な高らかな笑い声が森に反響する。
「良い、良いな、やはり貴様は選ばれし者だ!! 良かろう、我は汝を改めて敵と断じよう。我が真名を以って汝を刈り取ろう。我が名は黒帝院刹那、終焉を司りし始源の魔術師なり!!」
黄泉路は刹那のその名乗りがどこかで覚えのあるものだという既視感が頭の片隅に掠めるが、先の不可解な攻撃手段を警戒するあまり、その思考はすぐに戦闘に傾ける意識の中に埋没してゆく。
「その身なり、貴様も漸く本気になったという事なのだろう? ならば先の小手調べなどではない、我が本気の魔導を見せてくれよう!」
刹那が距離を取る為にステップを踏む。
その身のこなしは大仰で機能性に欠ける物であるはずが、現実に反映される移動距離や速度はその道に通じる達人とも呼べる者たちの足捌きによって成されるものと同等の結果を齎していた。
後方へと跳び、距離を取りながら刹那が黄泉路へと手を翳し、口を開く。
「(っ――、何か来るっ!)」
「爆ぜよ地の火、母なる血潮よ!! 大禍となりて小さき者の営みを呑め! 《赤く燃ゆる星の血脈》!!!」
口上が終わると同時に発生した微かな地揺れに、黄泉路は咄嗟に横に飛ぶ。
黄泉路の足元、先の黒い何かによって抉りとられ陥没した地面がばっくりと裂け、何かが競り上がってくるような圧倒的な熱量に、黄泉路は自身の判断が間違っていなかったことを悟る。
「よう――がん――」
「当然の如く避けるか! ならばこれはどうだ! 駆ける血潮よ、《赤く燃ゆる星の血脈》!」
「溶岩使い――じゃない!?」
地を割った灼熱の赤い溶液が噴水の如く、優に3メートルはあるかという高さまで伸びあがったまま落下の軌道を変えて蛇の如く黄泉路へと迫る。
頭上からの熱を除けるように駆ける黄泉路の足元からは赤い塵が舞い、常人の脚力を遥かに超える力強い踏み込みが大地を抉る。
高速機動によって辛くも初撃をかわした黄泉路ではあるが、その背後には赤々と熱量を湛えた大蛇の追跡が迫っていた。
一度地面に落ちた事で木を、土を焼き焦がしながら地を這って追い縋ってくる溶岩の熱を背に感じつつ、黄泉路は地から宙へと足場を変える。
大木を蹴り、足場として踏み台に、そこから別の木へと飛び移る様に立体機動を描けば、蛇が如く追いすがる溶岩もまた宙へと立ち上って後を追う。
「(まだ追ってくる……これはマズい、早く止めさせないと山火事になる――!)」
自身が先ほどまで足場にしていた大樹が溶岩に巻かれて巨大な松明と化してしまう光景に熱量からくるものではない冷や汗を垂らした黄泉路はその進路をこの惨状を引き起こした元凶へと向ける。
撓めた足が悲鳴を上げ、踏みしめるたびに足の筋肉が切れ、骨が砕けるも、その瞬間には万全の状態へと回帰し、壊れた肉体が赤い塵と化して宙に溶ける。
それほどまでに肉体に無理をさせて走る黄泉路は溶岩と火の手によって照らし出された夜の中にあってもなお消えない夜そのものの様に黒く、
「はぁああぁああッ!」
「ふっ、深き清廉なる盾よ、我が身に縁りし災厄を退けよ――《無彩色の無業たる盾》」
ガギッ、と、黄泉路が空中より自身に縦軸の回転を加えて振り下ろした踵が刹那の頭上で止まる。
無色透明の何かがそこにあるという感触だけが学生靴越しに黄泉路の足に反動を伝え、中空で思いがけず制止してしまった黄泉路へと溶岩の蛇が迫る。
見えざる足場と化した障壁に付いた足を軸に身を捩り、胴体を焼き切らんとしていた溶岩をかわす。
不自然な足場、急な挙動では完全にかわしきることなど叶うはずもなく、黄泉路の脇腹がじゅわりと嫌な音を立てる。
「――ふッ!」
だが、それでも黄泉路の動きに迷いはない。
突き抜けた溶岩の蛇に半ば同化した自身の脇腹を引き剥がし、焼け焦げた腸が、肉や骨と衣服の焦げ跡に混合された様な悲惨な断面をそのままに、着地と同時に胴体が引きちぎれる可能性すら無視して刹那の足元に蹴りを放つ。
「その、状態で動くか!」
「言っただろ、君に僕は殺せないって!」
「ほざくなっ!」
刹那が飛び退いて足払いを避ける。
その間にも黄泉路の身体は欠損を巻き戻す様に傷口が赤い塵となり、肉を盛り上げてまっさらな白い肌へと戻ってゆく。
ほんの数秒にも満たない間に完全復活を為した黄泉路は宙に浮くようなふわりとした不自然な挙動で跳ぶ刹那との距離を詰めつつ思考する。
「(最初の攻撃はわからない、けど、溶岩と今も見せた動き……何系統の能力だ……?)」
迫る溶岩の蛇を回避するべく、時には片手のみで自身の重心を利用して立体的に動き回る黄泉路の曲芸染みた動きで縦横無尽に森という立地を最大限に活かした高速機動の中で、刹那の能力を推理する為の思考だけをひたすらに繰り返す。
「(見極めないと)」
対能力者戦における定石、それが敵対者の能力の特定となる。
事前に敵対しうる能力者についての情報を集め、断片を寄り合わせて敵の能力を知った上で、自身の手札と照らし合わせて戦略を練れるのが理想であるが、そうした機会に恵まれることはそう多くない。
であれば、次善として取られる現実的な最善手こそが、交戦時に相手の手札をどこまで読めるかの勝負となる。
黄泉路の能力は表面に出ている性質こそが真髄という、底という意味ではひたすらに浅い物ではあるが、こと、耐久力という点で見れば他に類を見ない能力である。
そうした利点を最大限に活かせる考察力を研ぎ澄ます事こそが黄泉路にとっての最大の武器であると言っていい。
「ふんっ、再生力に機動力、一般的なそれとは逸脱した力か」
「それは――刹那ちゃんに言われたくはない、かなっ!」
初撃の踵落としから始まり通算6度目の肉薄、黄泉路の拳が刹那の鳩尾を狙い、滑り込む様に低い姿勢から突き出された拳が風を切り、
「《無彩色の無業たる盾》!」
――不可視の壁に阻まれ止まる。
それすらも布石とした黄泉路は続けざまに直前の拳を死角にする形で脛を狙う蹴りを放つ。
「っと、その手には乗らん!」
宙へと逃れた刹那が大きく腕を揮う。
呼応した溶岩の蛇が地面の中から顔を出し、低く姿勢を保ち、突き出したままの黄泉路の足を焼き焦がす。
「(――なるほど)」
太ももに絡んだ溶岩が自身の足を溶解する感触を無視し、溶け落ちた事を幸いとすら感じて良そうなほどにあっけなく片足で離脱した黄泉路は、何事もなかったかのように両足で着地して内心の納得を表に出さない様に静かに息を吐く。
「(最初と今回ので、アタリと見ても良さそうかな?)」
確信というにはまだ弱い。けれど、自身の傷を顧みずに攻勢を仕掛けられる黄泉路であれば、取っ掛かりがあれば検証に移すには十分だと言えた。
後はそれをどう実行に移すか、作戦を思案する為に距離を置いた黄泉路に、刹那も小さく納得したように呟く。
「ふむ。《赤く燃ゆる星の血脈》では仕留めきれんな。真に危険視すべきはその再生能力、であるならば我は別の魔法を使うのみよ」
「――ッ (戦術が、変わる!?)」
「静謐の城に座す微睡みの女帝、白く儚き夢郷に在りて、遍く命曳く微睡みの吐息を此処に、汝が名を我が示そう、其は大地を覆う霧氷の調べ――《地獄に佇む静けき女帝》」
何れ戦術を変えてくる、そう読んで距離を開けていた事が仇となったと理解すると同時に、黄泉路の肌を夏とは思えない冷気が貫いた。




