2-3 ホームシック1
念のため鍵をポケットへと仕舞い、サイドチェストにおいてあったメモ帳に走り書きで書置きをしてから、音を立てないように扉を開けた出雲は廊下へ出ると、途端に照り付ける煌びやかな光景に、出雲は一瞬呆気にとられてしまう。
施設では決して見ることのなかった暖色を基調にした暖かで高級感のある絨毯の敷き詰められた廊下は等間隔に設置された照明に照らされて夜だというのに別世界のように明るい。
カガリや美花に部屋から出るなとは一言も言われていないという言い訳を頭の中で思い浮かべるものの、すぐに、皆口を揃えて休めという以上、あまり出歩くべきでないのだという正論によって自身の中で罪悪感を膨らませてしまう。
かといってこのまま支部とやらに移動してしまえばおそらくおいそれとは会いに行けなくなってしまうだろう。
多少無理をして後で怒られたとしても、出雲は家族に会いに行くことを選んだのだった。
扉を開け、見るからに豪華な景色に圧倒されたのも束の間、出雲は足早にエレベーターまで向かうと、降下のボタンを押して内心どきどきしながらエレベーターがやってくるのを待つ。
夜であるという前提があるものの、これだけの規模のホテルで誰もいないという事はまずありえない。
エレベーターを待つ間、誰とも遭遇しなかったのは幸運というほかないだろう。
チン。という、デパート等で聞きなれたエレベーターの到着する電子音が響けば、中に誰も乗っていないことにホッとしつつそそくさと乗り込み、1階のボタンを押す。
降下してゆく緩やかな浮遊感と不安、家族に会えるという期待がない交ぜになった数秒間の静寂の後、再びの電子音によって1階へと到着したことを知れば、人目を忍ぶ様にロビーへと向かう。
幸い、ロビーはそこそこに賑わいを見せている様子で、出雲のような異様な格好の少年が歩いていようと誰の目にも留まる事はない。
それ以上に、脱出時に研ぎ澄ませた緊張がぶりかえしたのか、やけに人の気配を敏感に感じるのをこれ幸いにとより目立たないルートを選択して出雲は首尾よくホテルの外へと出ることに成功する。
「……ふぅ。ここ、どこだっけ……」
安堵からそっと息を吐いて、きょろきょろと周囲を見渡す。
そこは都内在住の出雲であってもあまり縁のない、高級店が集まった地域であった。
いかに土地勘がないとはいえ、出雲とて同じ都内に住んでいた。その為駅の場所くらいは大まかに把握できている事が救いであった。
駅のほうへと裏道を通るように歩きながら、出雲はふと自身の格好に目を向ける。
ズタボロの制服姿の自身が電車など乗ったら騒ぎになってしまわないだろうか。
そう思い至れば、今の自身に使える移動手段が極端に少ないことに気づく。
まさかタクシーのように他人と1対1で、なおかつ金銭のかかる移動手段を選択するわけにも行かず、バスにしても電車同様不特定多数の目に触れる以上避けなければならないのだから、必然として移動手段は徒歩や自転車等に限られてくる。
置き去りにされた自転車を盗むという行為に罪悪感を覚えて徒歩を選択する辺り、すでに研究所で傷害罪等で言い訳の利かない類の行為に及んでいる事などすっぽりと抜け落ちていた。
「(移動は明後日って言ってたし、線路沿いを走っていけば往復で丁度いいかな?)」
しっかりとホテルの場所を頭に留め、線路が見える位置を保ちながら路地裏を駆ける。
元々運動部に所属していたわけでもなく、走る所作に無駄も多ければ速度が著しく速い訳でもない。
そんな出雲ではあるが、実際に走ってみると能力者として、出雲の能力がどれほど有用かは歴然であった。
その驚異的な回復・再生能力は疲労までもをダメージと見做し、疲労を感じる段階よりも速く肉体を疲労する前の状態へと戻してしまうのだから、世の長距離マラソンの選手が聞けば卒倒してしまう性能である。
能力の性能の一点において、出雲の鈍臭いとまでは行かないまでも平凡な身体能力は化け物と呼んで差支えない持久力を発揮していた。
◆◇◆
宵闇の帳が徐々に明けへと染まってゆき、東の空から陽光が差し込み始めた頃。
出雲はようやく自身の知る地域へと足を踏み入れ始めていた。
といっても生活圏よりはやや遠く、極偶に遠出したときに数回ほど来た事がある程度の、知るといっても端の端といっていい場所であった。
それでも出雲にとっては少しでも見慣れた土地を走る間、帰ってきたのだと実感していた。
しかし、それと同時に次第に日が高くなるにつれて出雲は焦燥にも似た感情を抱き始めていた。
出雲ここまでくる道すがら、人目を避けるように路地裏や細道を辿ってきていた。それは勿論他人に見つからないようにするため、警察などに職務質問され、足止めされるだけならばまだしも研究所へと連絡がまわされる事を恐れての事であった。
深夜であった道中においてはさほど問題にはならなかったものの、さすがに日が昇ってくれば人々が活動を開始する。
そうなってしまえば如何に人の通らないだろう裏道などを通っていたとしてもいずれは限界が訪れてしまうだろう。
飛び出したときの勢いはすでに完全に萎えてしまっており、自身のかつての生活圏に片足を突っ込んだ様な場所で、出雲はとうとう立ち往生してしまう。
「(……どうしよう)」
時刻はおそらくは朝の7時前後といったところだろう。
久しぶりの朝日を心地よいと感じる余裕もなく、出雲は繁華街の路地裏から大通りを観察していた。
視線の先ではすでに出雲と同じ年頃の少年少女やスーツ姿の社会人が各々の通うべき場所へと向けて行きかう朝のラッシュが始まっていた。
途切れる様子のない久々の人混みに尻込みし、改めて自身の服装に視線を落として何度目かも分からない溜息を吐く。
こんな事ならばもう少しまともな服を着てくるのだったと思う反面、さすがに監禁されていた時の素足に上下白のハーフパンツとシャツなどといった入院患者の着るような格好でうろつくのは今以上に目立ってしまうとは確信が持てるので、結局の所は選択肢がなかったとみるべきだろう。
そんな時だった。不意に視線を感じ、思わずといった具合に出雲は其方――大通りの一角へと目を向ける。
明るい髪色の、どこか垢抜けた風体の青年がコンビニから出て、手に持った袋をそのままに出雲のほうを凝視していた。
青年の口元が動くのを、出雲はしっかりと見た。
「――まさか。出雲、なのか……?」
青年の瞳は、出雲を捉えたまま在り得ないモノを見たように揺らいでいた。