7-23 白塔の暗躍
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元与党議員の重鎮であり内閣外務大臣、的井史三郎が真新しい電灯が照らし出す室内に踏み入った際の印象は“白い”だった。
壁際を埋める本棚とそこに詰め込む様に並べられた専門書の数々、暖色のカーペットが辛うじてその印象を緩和させようと苦心した跡を思わせる室内だが、どうあっても部屋が存在する建物自体の外観と部屋に至るまでの通路の印象、さらには壁面や天井といった建物そのものの素地を埋めるには心もとなく、部屋の主が日ごろ使っているであろうシステムデスクすらも、そのメタリックな色調が蛍光灯を反射して白を印象付けるのだから、内装で印象を変えようという目論みがあるのならば大いに失敗していると言えるだろう。
とはいえ、部屋の主を知る的井にしてみれば、そうしたミスマッチさはむしろ人間味があるとすら思えるものだ。
やつれ気味の痩躯に頭皮が透けて見える程に薄い黒髪という冴えない風貌だが、その歩き方は堂々としたもので、室内に踏み込んだ的井は電灯に照らされた人物へ歩み寄る。
「ようこそいらっしゃいました。的井先生。この度は内閣参入お慶び申し上げます」
「いえいえ。遅れましたが我部先生こそ、解剖研究所の所長就任、おめでとうございます」
応える様に立ち上がって的井を迎えるのは、五十路をやや過ぎたかといった具合の男性だ。
白が8、黒が2割といった白髪交じりというよりは黒髪混じりと言った方が通りがいい髪をオールバックに纏め、銀縁のスクエア型眼鏡の奥に覗く瞳は衰える所か熱を宿している様にすら見える。
総じて、熱心な研究職という印象を抱かせる我部幹人だが、普段ならば身に着けている白衣を纏っておらず、あくまでも来客を想定したフォーマルなスーツに身を包んでいる事もあって、その姿はどちらかというと対面している政治家に合わせたものになっていた。
「これからも変わらぬご支援を頂きたいものですな」
「互いに実りある関係を築いていきたいものですね」
余裕をもって握手を交わした我部が来客用のソファを的井に勧める。互いが席に着いたタイミングで控えめなノックと共に隣室からひとりの年若い女性がトレイをもって入室し、テーブルの上には結露してその涼やかさを主張するアイスコーヒーが並ぶ。
配膳が終わった女性が小さく一礼して再び隣室へと戻って行く姿を思わずと言った具合に的井の目が追う。頭の後ろで高く括った艶やかな黒髪が揺れて、扉が閉まるまでじっくりと揺れる髪の間から覗く健康的なうなじに視線を向けていた的井は名残惜しむ様に息を吐いてアイスコーヒーに手を付け口を開く。
「彼女は?」
「最近雇った子ですね。秘書というわけではないのですが、中々に優秀で助かりますよ」
自身の前へと置かれたアイスコーヒーには手を付けずに応える我部に、的井は少しばかり野卑な笑みを形作りながら首を振る。
「いやはや、我部先生。あのような美人な秘書に身の回りの世話をされるというのは羨ましい限りですな」
「ははは、的井先生はユーモラスなお方ですね。私と彼女ではそれこそ親子ほども離れていますよ。それとも、的井先生はそういったご趣味が?」
「お恥ずかしい限りで。公人としての顔では決して言えない事ですがね」
それは本当に恥ずかしい話だ、とは。さすがの我部も口にはしない。必要以上に機嫌を取る事も無いが、不必要に貶めて不興を買う意味もまたないのだから。
我部と的井の関係性はあくまでもビジネスライク。現在は既に引退しているものの、未だに政界に強い影響力を持つ政治家を仲介して引き合わされた取引相手である。
的井から見た我部という人物は、当時当選自体は安定するものの取り立てて大きな功績のある議員ではなかった的井に、今後有益になるであろう情報を提供してくれた“ある分野”における最先端の研究者。
的井が現在の政権において外務大臣という重要なポストを占めているのも、また、選挙が近い今、続投するであろう総理大臣から次期政権で文科省のトップの兼任まで持ち掛けられているのも、我部という、今後の情勢にも関わりうる人材がバックについているからに他ならない。
一方我部からすれば、研究を恙なく進める為の設備や資金を調達する為の政界への繋ぎである。それが両者の間に完全な対等とは言わずも友好的な協調関係を築く認識であった。
「それで、本日の要件なのですが」
その両者がこうして顔を合わせてやり取りする事は決して多くない。逆に言えば、今回の要件は盗聴などの危険がない直接対面による会話が求められる重要な案件であると言えた。
面会を申し込んだ我部が口火を切れば、的井はその眼光の鋭さに喉を通りかけていたアイスコーヒーが一瞬詰まる様な錯覚を抱いてしまう。
「以前、研究所の方針に異を唱えて退所した方が居た事を覚えていますか?」
「……はて。それなりに数が居た事くらいは耳にしましたが、ちゃんと口止めはしているはずでしょう?」
「その中でも現在も生きてる人の話です」
“生きている人”という我部の言葉に、テーブルにグラスを戻そうとしていた的井の手が止まる。
カラン、と。グラスの中で氷がぶつかる音が小さく鳴った。
「何か、問題でも起きましたか」
「問題といえば問題なのでしょうね」
「我部先生にしては煮え切らない物言いですな」
「――御心紗希君、という名に聞き覚えは?」
眼鏡の先、心の内を見透かす様な我部の視線が的井に刺さった。