7-8 夏休み8
パラソルの影まで戻った黄泉路と姫更を出迎えた廻は分かっていたとばかりにタオルを差し出してくる。
「おかえりなさい。もう少ししたら昼食の連絡が来ると思いますよ」
「ん」
タオルを受け取って肩から羽織る姫更が頷けば、足裏が背後で上を向く様に片足立ちになる。
上げた足の真上の空気をどこかの真水と入れ替えたらしく、ぱしゃりと水が弾ける音と共に足に掛かった水が砂を落とし、姫更はいそいそともう片方も同様に洗った後に足を拭けばシートの上に上がり込んだ。
能力を当然の様に使いこなし、最近ではますますそれに磨きがかかっている姿に感心する反面、良いように手軽に使っている姿がどことなく標を連想させて悩ましさも滲む黄泉路であった。
「黄泉にいも、洗う?」
「それじゃあ、お願いするよ」
とはいえこの場において海水以外の水を入手するにはホテル状になっている本部の建物に戻るしかない。
態々そんな理由でひとりで山道を再び上る気にもなれなかった黄泉路は思考に蓋をして好意に甘え、姫更に倣う様に足を洗ってレジャーシートの上に上がり込む。
日焼け止めを塗っていた辺りであらかじめ姫更に出してもらっていたスポーツドリンクを手渡してくる廻の配慮に感謝しつつ、ペットボトルに口をつけた黄泉路はふと、廻は泳がないのだろうかと首を傾げた。
「そういえば、廻君は泳がないで良かったの? ほかに人がいるわけでもないんだし、荷物番みたいな事してなくても良かったのに」
自分がこのぐらいの年の頃はという思考は目の前の大人びた少年にはあまり意味がないかも知れないが、それでも時折顔を出す年相応の言動からしてそういったことに全くの興味がないというわけではないと知っている黄泉路が問いかければ、廻は保護者譲りの曖昧な苦笑を浮かべて首を振る。
「こうして海を眺めてるだけでも十分楽しんでますから」
「……そう聞くと、どっちが年上だかわからなくなるね」
「あはは……。そうですね。――っと、姫姉さん。そろそろお宮さんの所に顔を出した方が」
「わかった。行ってくる、ね」
「はい。戻ってくる頃には美花さんも標さんも戻ってくるかと」
「ん」
この2年でいつの間にやら仲良くなっていたらしい姫更と廻が打てば響く要領で昼食までの段取りを整え、姫更が音もなく姿を消す。
美花と標もそろそろ戻ってくるとは廻の言だが、海を見る限りではまだふたりは遠泳の真っ最中。標に至ってはどこにそんな元気があったのだろうと普段の引きこもり具合と比較して疑惑が尽きない所ではあったものの、黄泉路は海水浴が決まってから――否。支部長会合への代理出席が決まってから、ずっと気になって居た事を問うチャンスを優先する。
「ねぇ、廻君」
「はい。なんですか?」
「どうして支部長会合についてくるなんて言ったの?」
「――。海水浴がしたかった……は、通じませんね。先ほどの問いかけは布石でしたか」
「そんなつもりはなかったんだけど、まぁ、結果的には」
廻は当初、同行したかった理由を“海水浴ができるから”と言っていた。
しかし当の本人は海で泳ぐわけでもなく、加えて矛盾を指摘するならば、恐らくこの海水浴自体が廻が計画・実行しなければ恐らくは実現しなかっただろう事を薄々察していた黄泉路が真剣な瞳を廻へと向ける。
別段、廻が黄泉路を嵌めようとしているだとかは考えていないが、何を思って暗躍じみた事をしはじめたのかが気にならないと言えば嘘だ。
「……黄泉兄さんは、もし誰かを選ばなきゃならないとしたら、身近な人の中なら誰を選びますか?」
唐突に発された廻の問いに、黄泉路は言葉を詰まらせる。
仮定の話、そう割り切るには、廻という少年の言葉は重みが過ぎた。
それはまるで仮定ではなく、“過程”の話――起こりうる道筋の話をしているような、深く重い言葉だった。
「僕は、兄さんを選びました」
「……僕を?」
「だから、後できっと僕は兄さんに叱られる。けれど、こうするのが一番確実で、こうしないと、きっと兄さんは後悔するから、きっと何度だって同じように、同じことをします」
「廻君――君は……」
一体誰なんだ。
口から出かかった言葉を咄嗟に飲み込んだ黄泉路は、自分の言いかけた言葉に驚愕する。
だが、目の前の少年の放つ雰囲気がいつの間にか、半歩程ずれているような錯覚に、その言葉が間違いではない事を直感的に認識した黄泉路は無言で廻の瞳を覗く。
「――僕は僕。朝軒廻ですよ」
黄泉路の追及をかわすというよりは、ただそうであると断言するだけといった意味合いで廻が答えれば、黄泉路は暫く廻の顔を眺めていたものの、諦めてふっと肩の力を抜く。
「……未来の君は僕のことを兄と呼んでくれるんだね」
「今からまた、そう呼んでも良いですか?」
「もちろん」
どこか怯えるような、何度やっても慣れない事をしているような様子で見上げてくる廻に、黄泉路はにっこりと頷き返す。
いつかの未来、廻に兄と慕われる様な自分がいる。そう分かっただけでも、今は十分だと思えた。
「黄泉兄さん……」
「何?」
「すこし、休んでも良いですか」
「……うん。おやすみ」
黄泉路が足を正して肩に掛けていたタオルを膝に敷けば、ふらりと倒れ込んできた廻の頭が黄泉路の腿に乗る。
程なくして規則正しい寝息を立て始めた廻の穏やかな顔にホッと息を吐き、黄泉路は海へと目を向け、海から上がってきた美花とその肩に俵担ぎされた標に向けて、そっと口元に人差し指を立てるのであった。