7-7 夏休み7
無心での作業が終わり、身体的な疲労とはまた別の疲労感にシートの上で膝を抱えた黄泉路はそっと息を吐く。
「(空……青いな……)」
『よみちん黄昏てるーうけるー』
「(標ちゃん、うるさい)」
『ひっどーい!!! よみちんだって満更じゃなかったくせにー!』
「……はぁー……」
頭でキンキンと響く標の声に、再度深々とため息を吐いた黄泉路を覗き込むように差した影。
ふと見上げた瞬間、白いホルタービキニで強調された谷間が目の前に広がり、黄泉路は思わず視線を更に上へと押し上げる。
「黄泉路……嫌だった?」
「違うんです……違うんですけど……」
「何?」
「状況のギャップについていけていないというか……現実味が薄いというか……」
黄泉路自身、何が悪いと思うわけではない。強いて上げるならば事前に教えてくれなかった廻や悪乗りしてきた標を悪いと断ずることは出来るかも知れないが、結果的には役得と言えなくもない状況を棚に上げて非難するほど黄泉路の自己主張は強くはない。
家族と海に出かける事はあっても、こうして歳の近い異性に囲まれて海で遊ぶという経験がない黄泉路は戸惑っている自身の心境を言い表せず、お決まりの様に困ったような笑みを浮かべる。
「遊べるのは、余裕がある証拠。余裕があるのは、平和な証拠」
「……そうですね」
「どうせ明後日には忙しくなる。それまで、息抜き」
諭す様に頭を雑に撫でてくる美花に、黄泉路は内心で敵わないなぁと思ってしまう。
黄泉路の笑みに苦いものが抜けたのを察した美花はそのまま黄泉路の手を取り引き上げて立たせ、パラソルの外へと出る様に促す。
「あっちで標と姫も待ってる」
そう促されて向ける視線の先では、既に浅瀬で水の掛け合いに興じている姫更と標の姿があった。
『よみちんよみちんーはやーくー』
「……相変わらず器用だなぁ」
事前に準備していたらしい水鉄砲のタンク内に常に水を転送しながら連射してくる姫更から逃げ回りながら頭に声を響かせてくる標に対し呆れとも感心ともつかない心情を吐露しながらも、黄泉路達も波打ち際までたどり着く。
サラサラと、それでいて焼け付くような砂場を超えて湿った砂が鈍く沈み込む感触を足の裏で感じ、寄せた波が足首までをも濡らす。
引いて行く波によって足裏の砂が攫われ、砂浜にぼやけた足跡が残る様に、海にくるのはいつ以来だろうかと黄泉路の思考に感傷が浮かんだ。
波の音が耳を抜け、強い潮の香りが鼻を刺激する。日常では中々味わうことのできない自然の風情に目を閉じていれば、
「――んぶっ!?」
「隙、あり?」
『あはははっ、そんな所で突っ立ってるからですよー。よみちんもこっちきなよー』
バシャン! と、頭の上から突然降ってきた水の塊――口元に感じる味から、おそらく海水なのだろう――にびっくりした黄泉路が顔を挙げれば、少し離れた浅瀬で姫更と標がしてやったりという顔で黄泉路の事を見ていた。
「……まったく」
どうやら水中の座標と自身の頭上の座標を入れ替えられたらしいと理解した黄泉路は手のかかる妹を見るような視線を向けながら小さく息を吐く。
「黄泉路、仕返ししよう」
「……了解」
隣を見れば、黄泉路の余波を喰らったらしい美花が肩を濡らして標たちを見据えており、互いに小さく頷いて浅瀬を駆け出す。
『うっわ! ミケちゃんガチ走りじゃん!? にっげろー!』
「にげ、る!」
「逃がさない」
「ふ、あははっ」
突如始まった追いかけっこ。姦しく逃げ回る標と姫更は実に楽しそうで、黄泉路は釣られるように笑いながらも後を追う。
初めこそ膝に届くかどうかという水深の浅瀬を駆け回るのみだった追いかけっこも、足の速さでは分が悪いと踏んだ標が早々に沖の方へと逃げ始めたのを切っ掛けに、いつしか水泳大会に変わる。
主犯の標を追って、遊びであっても本気度が思いのほか高かった美花が離れてしまえば、残された姫更と黄泉路は足を沖の方へ向けはするものの、追いかけっこというよりは遊泳に近いゆったりとした速度に落ち着く。
元よりそこまで本気で追いかけていなかった黄泉路である。追いかけられる側の姫更もそれはすぐに察せる事であり、波間を縫うように泳ぐ姫更の後に続く黄泉路はどちらかと言えば保護者に近い。
「っ、ぷわっぷ」
思いがけず高い波に浚われ、拍子に口に海水を含んでしまった姫更が思わず噎せながら姿勢を起こせば、すぐ後ろから追いついた黄泉路が沈まぬように身体を支える。
「――っと、大丈夫?」
「からい」
腕の中で海水に――より正確に言うならば、不意打ち気味に高くなった波に対して――不満を呟く姫更の様子に黄泉路は安堵を浮かべ、改めて視線を辺りへと向ける。
浜辺からはそれほど遠くはないが、潮の流れの関係だろう。少しばかりビーチパラソルの位置からは遠のいてしまっていた。
「一端、パラソルまで戻ろうか」
「まだ、泳げるよ?」
「海は逃げないんだから休憩も挟まないとダメだよ」
「……わかった」
言うが早いか、腕に抱き着いていた姫更が黄泉路の胸に飛びつくように姿勢を変え、それと同時に黄泉路の視点がぐらりと揺れる。
「うわ、っとと」
次の瞬間には黄泉路の足からは水を掻く感触が消え、慌てて水を掻くための足の運びから地面に立つための姿勢に切り替えた。
直後に足の裏に砂を踏みしめる感触が伝わって、姫更を抱えている分の重量がずしりと両足に掛かる。
「到着」
「次からはせめて一声かけてね……僕の足はさておくとして、転んだら姫ちゃんだって危ないんだから」
「ん……。ごめんなさい」
「わかればよし」
抱き着いていた姫更をおろし、手をつなぎなおした黄泉路は廻の待つパラソルへと歩きだした。