7-2 夏休み2
静かになった室内にデッキブラシがコンクリートがむき出しになったままの床をこする音だけが響く。
戦闘が発生する場所に常に柔軟な床があるわけではない。むしろ、こと現代においてはコンクリートのように硬く均一に敷かれた地面のほうがはるかに多いだろう。
より実戦的な訓練になる様にとあえて道場などにある柔らかな床や板張りを使用せず、武骨なコンクリートで統一された室内の気温は思いのほか低い。
空調が正しく作動している事もあって息苦しさや体感気温ではそうでもないはずだが、コンクリートの灰色一色といった情景からくる視覚的寒さだけはどうしようもない。
既に慣れているとはいえ、この場所は黄泉路が4年の年月を過ごした実験場にも似通っており、本来であれば長居したいとは思えない場所であった。
「……」
だが、黄泉路は焦るでもなく、淡々と、より言うならば没頭して掃除に励む。
ただし没頭しているのは掃除にではなく、先ほどの訓練課程についてであった。
「(あそこでもう少し踏み込んで――いや、それもダメかな。きっとあれ以上寄せたら寄せたで投げられてただろうし。となるとやっぱりあの距離が適切……もっと強くなるには……)」
脳裏で幾度もの思索を重ね、次への改善点を描き出しながらの清掃もまた、黄泉路の日々の日課であった。
そうして思考が前を向いている事で色彩の薄い閉所に対する忌避感を克服できた事もまた、この2年での新たな収穫、成長と言えるだろう。
「(思いのほか時間掛かっちゃったな。急ごう)」
日頃繰り返したお陰で手足は思考の外にあっても的確に掃除を終え、主に自らが吐き散らした血反吐をさっぱりと洗い流した黄泉路は手早く清掃用具を納めると、駆け足で旅館の方へと向かう。
日頃から空き部屋として一般客には貸し出していない“暁の間”の床の間から顔を出した黄泉路はそのまま一般客があまり通らない裏手へと続く通路を経由して外へと。
裏手口の職員用の小さな出入口から出た途端に香る強い土と木々の匂いが夏の朝の風に乗って黄泉路の髪を嬲った。
「お待たせしました」
「いえ、こちらも道具の準備がありましたから。それにほら、まだ……」
丁度準備を終えた所らしい誠が大型の枝切りばさみやらシャベルやらが乗った一輪のリヤカーを背に黄泉路へと振り返り、苦笑交じりに言葉を濁しながらも周囲へと小さく視線を渡す。
「ああ。ふたりとも来てないですね」
釣られて周囲へと視線を向けた黄泉路は誠以外の人影がない事に納得しつつ、改めてこれから自身が踏み込んでゆく山へと目を向けた。
日頃の手入れの為に作られた小道は獣道よりは多少上等なものであるが、一般人が足を踏み入れるにはためらう程度のか細さしかなく、その先に続く山々は夏の盛りを謳歌するような青々とした葉を幾重にも茂らせて昇り始めた日差しを遮っていた。
風に乗って葉がこすれる音の重奏が耳を擽り、葉の合間から僅かな日差しが小道を照らしていた。
平和そのもの、そう呼べるだけの光景にほっと息をついていた黄泉路の背後、からりと小さな音と共に二人分の足音がやってくるのを感じる。
「おはようございます。遅くなりました」
「おはよう。黄泉にい」
「おはよう廻君。姫ちゃん」
黄泉路が振り返れば、そこに居るのは小柄な少年と少女。
2年前より幾分か身長も伸び、ほっそりした体躯こそ変わらない物の、年相応に筋力がついてきた少年は朝軒廻という、かつて黄泉路が初めての依頼によって保護した【未来予想強化】――“未来視”を持つ少年であった。
成長に合わせて新調されたジャージに身を包んだ廻が準備運動は済ませたとばかりに小さくジャンプしてスニーカーを鳴らせば、隣に立った少女、神室城姫更もやる気十分といった様子で、普段はテディベアによって塞がれていた片手をぐっと握って見せる。
「おはようございます。朝軒君、神室城さん」
「誠さん、おはようございます」
「おはよう、ございます」
「それでは出発しましょうか。台車の方は黄泉路君にお願いしましょう」
「わかりました」
誠の号令によって小道へと踏み出した黄泉路達であったが、先導する誠の足取りはある程度均されているとはいえ山道とはとても思えない程に速く、廻と姫更はその成長途中の手足を真剣に振って後を追う。
これもまた、ある種の鍛錬であり、黄泉路の訓練を見ていたふたりが率先して加わりたいと言い出して生まれた黄泉路の新しい日課である。
そんな3人の後を追って、黄泉路も台車から荷物が転げ落ちぬよう器用にバランスを取りながら山道を走る。
本来の目的である山の手入れの為に足を止める事も多いとはいえ、最近では姫更すら脱落することなく完走できるようになった事は驚くべきことだろう。
「良い頃合いですし、一度休憩しましょうか」
「――はぁ、はぁ……」
「つ、かれ……た……」
額から流れた汗を首に巻いたタオルで拭きながら呼吸を整える廻と、手元の座標を入れ替えて自室の冷蔵庫から取り出したらしい冷えたスポーツドリンクを口へ運んで呟く姫更の姿に台車を崩さぬように安置した黄泉路は苦笑する。
「ふたりもかなり身体が出来てきたみたいです」
「みたいですね。最初は一緒に体を鍛えたいなんて言った時は心配だったんですけど」
「子供は飲み込みが早いですし、なにより一緒に努力できる相手がいる環境は貴重ですからね」
無尽蔵の体力を持つ黄泉路は言わずもがな。
来年には小学校を卒業する廻にしろ現役中学生の姫更にしろ、一般的な子供とは身体能力に大きな開きができ始めていた。
誠が見る限り、この3人の中で最も頭角を現しているのは意外な事に廻だ。
体を動かし始めた当初こそはぎこちない挙動も多く、筋力不足や体力不足によってすぐに電池が切れたように倒れる事も多かったものの、相応に筋力と持久力が付き始めたことで年相応のという枕詞こそ付くが解消されつつある。
廻が持つ未来視という能力は将来自分が修める技術をも前借りで手元に引き寄せる事ができるのではないか。再現を試みたものの、身体能力がついて行かなかったが故のぎこちなさこそが、当初感じていた違和感なのだと誠はここ最近になって強く確信していた。
そうであれば、時折見せる機転の良さや判断の素早さ、筋力を要さない小手先の技量においては既に黄泉路を凌駕しつつあるひそかな事実にも納得がいく。
能力に振り回されているきらいのある黄泉路とは対照的に、身体的な足枷によって能力を十全に活かせていないのが廻という少年に対する誠の印象だ。
だがそれも、両者ともこのまま修練を積めばより高い場所まで手が届くようになるだろうという確信を前提とした懸念。
「(神室城さんは……)」
ちらり、と。思考をスライドさせながら向けた誠の視線が姫更と合う。
ちょうどスポーツドリンクを飲み終えて再び座標交換によって片づけたばかりの姫更が小さく首をかしげる姿に誠は何でもないと緩く首を振るが、その内心はどちらかといえば目の前の少女の指導をどうすべきかという方向の悩ましさが首をもたげていた。
姫更も多少体力がついてきたとはいえ、美花のような肉体を強化する系統の能力でもない為筋力の伸びにも限度がある。
加えて姫更の闘い方はどちらかと言えば黄泉路と同じ、能力を軸として立ち回るトリッキーなものだ。
それ故、指導の仕方が根本的に違うこともあって誠は大した指導ができていない事を仲間外れにされていると思われていないかと悩んでしまうのだった。
「――誠さん」
「……ああ、すみません。なんでしょう?」
「ふたりとも休憩が終わったみたいです。……大丈夫ですか?」
「いえ、すこし考え事をしていただけです。そこの樹の枝を少し切ってしまいますから、皆さんはそちらの雑草を。あと、タマゴタケは収穫できそうですね。そちらもよろしくおねがいします」
「はい!」
気持ちのいい返事を聞きながら、まずは目の前の自身の職務を果たそうと、誠は枝切りばさみに手をかけるのだった。




