幕間4-6 猫館善喜の回顧録5
別の方向へと注意を向けすぎていた為に咄嗟に反応することすら出来ず、背後の闇より伸ばされた腕が猫館の胴を抱え、口元を塞ぐ。
「――!!!!」
口元を塞がれた事で声を上げることもできず、曇った悲鳴じみた音を微かに漏らした猫館の姿が闇に溶ける。
その数秒後、先ほどまで猫館が立っていた路地に頭を覗かせたのは揺れる金髪。
「っかしいなぁー。絶対こっちに逃げたと思ったんだけどー」
「ね、もういいでしょ、帰ろ? 僕もう嫌だよ、ねぇ祐理、帰ろうよ……」
小道を覗き込んだままガリガリと苛立たし気に頭を掻く祐理の背後から不安に揺れた声で悠斗が言い募れば、不満を隠すつもりもないらしい祐理の頭が小道から外れる。
「もしかしたら頭とか打ってるかもしれないし先生に診てもらわなきゃ――」
「だーかーらー! 頭は打ってねーって言ってるだろ。悠斗は心配しすぎだっつーの。ほら、今は何ともないしここまで普通に走ってこれてるだろ。だから何も問題ねーって」
まるで祐理の言葉を聞いて居ないかのような、未だ取り乱している事が如実に伝わってくる悠斗の言葉をむりやり遮った祐理の大声が路地に響く。
「……ぁ、ご、めん……」
「……いや。俺も言い過ぎた」
「あの、さ。目的は果たしたんだし、引き上げよう? また、たとえまぐれでも、そのまぐれで死んじゃうことだってあるんだし」
「つってもよー。俺たちのお仕事ってあいつぶっ殺す事だろ? このまま帰ったら診てもらう以前にお叱りコースなんじゃねーの?」
「ううん。本当は殺すのが良いんだろうけど、たぶん警告にさえなっていれば、良いと思う。……もし怒られるなら、その時は僕が代わりに怒られるから、ね?」
縋るような声音は小さく震えており、ここで断ればまた情緒不安定になってしまいそうな危うさを孕んだ悠斗の様子に、祐理は静かに息を吐く。
「わぁったよ。悠斗がそう言うなら」
「うん!」
一転して弾むような声音で頷いた悠斗の姿が小道の前を横切り、その後ろをポケットへと両手を突っ込んだ祐理が続く。
「――チッ」
未練、というよりは、相手の悪運を称えるような。そんなニュアンスを含んだ舌打ちを残し、今度こそ祐理の姿が見えなくなる。
ふたり分の足音が徐々に遠ざかってゆき、ビルの間を時折吹き抜ける風が駅の方角からほんのわずかな残響として運んでくる喧騒に溶けるほどまでに小さくなった頃、
「――ぷはぁっ!! ぜぇ……ぜぇ、うっ、ぷっ……」
「あーあー」
飲食店の裏口の扉が勢いよく開くとともに、荒く呼吸を繰り返して噎せる男性の声とそれを心配する様な声が響く。
「大丈夫ですか? 猫館さん」
先に小道へと飛び出してきた男性――猫館の後に続き、同じように路地へと姿を現した赤茶色の髪の青年が声をかければ、ややあった後に猫館も反応を返すべく青年へと向き直る。
「助かったよ……常群君。でも、できれば匿ってくれた後は口を塞ぐのをやめてほしかったなぁ」
「何言ってるんですか。パニクって肘入れられた腹がまだ痛いんですよこっちは。見つかったらふたり揃ってピンチな時にそんな配慮できるわけないでしょう」
「……ごめんなさい」
「お相子ってことで。後で何か奢ってくださいよ」
「はぁ……警察って皆が思ってるほど高給取りじゃないんだよ?」
ため息はつくものの、それはどちらかというとこうして再び常群と気安い会話を交わせるという平和への実感からくる安堵に近く、そういった空気をあえて作ろうとしてくれている常群の配慮に甘えるつもりで肩を竦めることで了承を返す。
改めて自身が匿われていた場所へと視線を向けると、そこは昼営業をメインとしているらしい飲食店であり、夕方営業が終了して既に店を閉めた後であることを窺わせる人気のなさが内部の静けさから伝わってきていた。
「にしても、どうしてこんな場所にいたんだい?」
特殊な目的でもなければ絶対に立ち入らない――そもそも合法的手段で立ち入れるかも怪しい、施錠されているはずの施設へと身を潜めていた常群へと疑問は当然といえるだろう。
それによって助けられたのは事実とは言え、目の前で不法行為をしていたというならば咎めないわけにはいかないのだ。
「当然、猫館さんを探してですよ」
そんな疑惑を向けられている当の本人はあっけらかんとした様子で携帯を取り出しつつ応じ、
「遅刻しそうだったんで永冶世さんに連絡しようと思ったんだけど、電話したら代わりに猫館さんを寄越してるって言うし。それなら猫館さんに連絡しようかって思えば繋がらない。挙句待ち合わせ近辺で局所的な停電と来たら、嫌な予感のひとつやふたつするでしょ。……経験上、俺はそういう予感みたいな物は信用してることにしてるんで」
地図アプリを表示したままの画面を猫館へと向ける。
「あとは停電と猫館さんが応答しない事に因果関係があると仮定すれば、停電範囲の中に猫館さんがいる。と。加えて言うなら、この規模を一気に停電させる根回しなんて後でどこから足がつくかわからないし、やるとするならそういう能力かなって事で、地図で検索した円形の停電範囲の中心から猫館さんならどっちに逃げるかを予想して逆側から走って、足音が聞こえてきた時点で手近な所に隠れて様子を窺うことにしたんですよ。あとはご存知の通りです」
質問は? と。理路整然と、まるでそれが当たり前の行動であるかのように口にする常群に、猫館は驚きを禁じ得ない。
猫館が知っている常群は、学生という割にはどこか垢抜けていて、それでも時折年相応な顔を見せる気さくな青年である。
思慮深いというのは言動の端々から感じてはいたものの、それはあくまで一介の大学生としての物であり、命のやりとりとは程遠い一般人という認識に揺るぎはない。
にも拘らず、警察であればそういった機会は少なからずあるのだと遠巻きな覚悟のあった猫館ですら直面した瞬間にはパニックに陥りかけた生死の係った局面を予め想定していたかのような、他のプロフィールを上書きするほどに浮き立った非日常への対処能力の高さ。
その事に驚き、無言になってしまっていた猫館に対し、常群は携帯を仕舞いながらおどけるように声を上げる。
「じゃ、飯食いに行きましょうか」
「え、今から!?」
「お互い走って喉乾いてるし、ビール飲みたいっすね。もち猫館さんの奢りで」
「あはは……」
常群の気の抜けるような軽快な声音に釣られ、猫館も緩やかに笑うのだった。