6-47 花咲く夜の裏側で
時間は少しばかり遡る。
橙色の空を引き連れて陽が西の地平線、家屋や塀の彼方へと沈み、鮮やかな白として浮かび上がった月が藍色の空を引き連れてその身を高く持ち上げて暫しといった具合の帰り道。
ふと、黄泉路は周囲の音が立ち消えたような錯覚に足を止める。
「――?」
しんと静まり返った住宅街の路地は変わりなく、煌々と灯った電信柱の明かりが白く街路を照らしている。
取り立てて不自然な箇所は見当たらないが、何かを忘れているような、靄が掛かるような違和感が胸の内に蟠っていた。
だが、それがなんであるかという決定的な回答にたどり着けないまま、黄泉路は幾度か目を瞬かせる。
「(なん、だろう……何か、すごく、大事な……)」
蟲の音すらもどこか遠く、ただ、ひたすらに静かな路地はまるでこの世界に誰もいないのではと思わせるような薄ら寒さを醸し出していた。
時折ぱちぱちと電灯が白く瞬く音だけが耳に残る中、手に持った荷物へと視線を落とし、
「(荷物……中身は食材……? 量は2人分……誰かと食べる約束――やく、そく……?)」
そこまで考えて、ふと。黄泉路は自身がどうしてこの場にいるのかという動機、理由が欠落している事に気づき、さっと顔を青ざめる。
「(僕は、何を忘れている!? いや、その前に、どうして誰もいない!?)」
周囲を見回し、先ほどから纏わりついていた複数の違和感、そのひとつに気づく。
時刻を確認するように携帯へと目を向ければ、買い物袋をみて連鎖的に思い出した駅近くのスーパーの混雑具合と相まって、自身の認識が間違っていない事を再確認した黄泉路は早足で歩き出す。
空を見上げればなるほど夜だろう。だが、時刻をみればさほど遅いとは言い切れず、職種によってはこれからの帰宅も十分に有り得、かつ、すでに在宅しているものもそこそこいるだろう時間である。
「(民家はあるのに人気がないなんて……違う、人気がないんじゃない、人気を感じられないんだ)」
まるで誘導されているかのごとく歩きながら視線を巡らせる黄泉路は内心の焦りを押し殺しつつ自身の置かれた状況を認識しつつあった。
依然として自身がどうしてこの場にいたのか、何をしていたのかを思い出そうとする度、それを邪魔するように思考に霞がかかるのは相変わらず。だが、培ってきた感覚を研ぎ澄ませば、薄い膜を一枚隔てた先に人がいる、そのようなぼんやりとした認識が明かりのついた民家から感じられた。
それはしっかりと認識しようとする意識を外してしまえばすっと霞の中へと消えてしまうような儚く頼りない感覚だったが、黄泉路はこの様な不可思議な現象に心当たりがあった。
「(つまり、僕は既に術中に居る。ってことか)」
前後の経緯は不明。しかし、現時点で敵勢力によって襲撃されているという認識が黄泉路の意識を戦闘へと傾け、動揺と焦燥が静かに水面に沈んでゆく。
住宅の少ないほうへと誘導されているという自覚はある。だが、それはそれで好都合。黄泉路はすんなりと進めそうだと認識が語りかけてくるのに任せて十字路を曲がり、
「(敵の位置も数も不明。……隔離系の能力、それも意識に対して働きかけるタイプのものかな? ひとまずは敵の出方を――)」
その足がとうとう住宅街の端を抜け、河川敷の見える高く盛られた遊歩道としても機能している天端へとたどり着いた所で、不意に誘導されているような間隔が途切れる。
「(……ここが終着? もしくは能力の制限の関係か)」
足を止め、黄泉路は現段階で考えうる理由に意識を向けていた。
それ故に法面と呼ばれる堤防の斜面を駆け上がる、静寂の中では酷く響く音への反応が遅れてしまう。
「――ッ!?」
そして、その一瞬で距離が詰まる刹那、振り返ろうとした黄泉路の首のすぐ傍に、月光に尾を引くように照り返す鉈の姿があった。
「か、ぁ……ッ」
技もなにもない。ただ、速さに任せた力押しの一撃は、黄泉路の首を歪ませて鮮血を溢れさせる。
それでも黄泉路のほっそりとした首を断ち切るに至らなかったのは、襲撃者の技量と使用された武器の限界といった所だろう。
「こむ……ろ? ――っ」
衝撃に傾いだ身体が自重に任せて崩れ落ちてゆく最中、認識すると同時に黄泉路が咄嗟に相手の名前を呟いた瞬間だった。
黄泉路は霞掛かっていた全てが晴れてゆく感覚に僅かに目を見開く。だが、襲撃者――小室駿輔にとっては、それが死ぬ瞬間の驚愕の表情に見えていた。
「は、はははっ、はひゃはははははははッ!!!」
黄泉路が知る限り、小室がこの様な哄笑を上げる所は見たことがない。
どうして、という疑問は浮かばない。ただあるのは、どうやってという疑問だけであった。
「はッ、ざまぁねぇや! クラスのモテモテイケメン様も俺に掛かればこの、程度だ!!」
仰向けに倒れ伏した黄泉路の腕に、腹に、小室の無遠慮な足が振り下ろされる。
その度に鈍い音が響き、時折骨が砕けるような硬い音が混ざる。
「どいつも! こいつも!! 俺を馬鹿にしやがって!! 俺の、俺の彩華は、俺だけのものだ!!! お前みたいな顔だけのヤツに誰が! 渡すか!!! この、クソ!! ゴミの癖に!!!!」
怒鳴り散らしながら死体を足蹴にする姿は決して見ていて心地のいいものではない。だが、それを咎める者は居らず、小室の鬱屈した感情を原動力とした異様な熱気は続く。
「お前、さえ!! いなければ!! 今頃、俺は――彩華と!」
激しい動きによって息が乱れ、途切れ途切れになった罵倒に混じるのは彩華への執着の吐露。
決して自身では踏み出す事のできなかった領域へと易々と足を踏み入れた黄泉路への嫉妬をここぞとばかりに吐き出した小室は大きく息を吐く。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
荒い息を吐き、額に滲んだ汗を拭おうと腕を上げた小室は袖に付着した返り血に顔を顰める。
「ちっ。死んでからも迷惑かけやがって……」
無論、黄泉路が小室に迷惑を掛けたという事実はない。
完全なる八つ当たりかつ逆恨みだが、小室の中では確かに黄泉路という存在は迷惑千万な存在であった。
「けど、これで彩華も俺の所に戻ってきてくれる……!」
喜色を滲ませ、最後にとばかりに黄泉路の頭を踏みにじった小室は肉と皮とで繋がった黄泉路の頭を蹴り上げる。
ぐりん、と。骨の断絶によって支えのない首が通常の稼動域を超えて揺れ、その暗く淀んだ瞳が小室を捉えていた。
「うっ……」
そうしたのは小室自身であるが、さすがに多少なりの冷静さを取り戻した状態で死体に対して心地良いと感じられるほどの感性は持ち合わせていない。
慌てて目を背けるようにポケットから携帯を取り出し、登録していたのだろう番号へとつなげれば短いコール音が響く。
「じゃあ、俺は彩華に会いに行くから。お前は後片付けをやれ」
『――』
短いやり取りの後、小室はいそいそと携帯を仕舞えば最後に黄泉路の方へと唾を吐きかけ、その唾が黄泉路にあたったかを確認する事もなく再び住宅街――嶺ヶ崎学園へと駆け出す。
慌しく、不自然に速い足音が遠くに消える。
世界から切り取られた様な静寂が舞い戻った後には、せせらぎを奏でる川の涼しげな音色だけが取り残されていた。




