6-45 黎明に咲く蓮
踏み出した彩華の足裏がコンクリートを蹴り、少女の軽やかな体重を受けて軽い音を立てる。
対して、踏み込んでくる小室の足音は鈍重なそれだが、頻度は彩華の倍以上。
足を振り上げて下ろす、それだけの動作でさえも明確に差が生じるほどの速度差ではあったが、彩華の思考はこれまで小室と相対したどの場面よりも冷静であった。
「あやかああぁああぁああ!!!」
踏み込み、次の一歩で互いの間合い――そして後出しであろうが問答無用で先手を取れる小室にとっての確殺圏内へと届くという所で、彩華は踏み出していた右足に力を込めて直前までとは真逆へと重心をかける。
前傾とまではいかないまでも、前へと向かおうとしていた上半身がぐらりと後方へと引き、右足だけを残して彩華の身体が小室の体感していた自身の間合いから外れる。
「《咲/裂いて》!」
軸足となっている右足を間合いから逃がすために更に踏み込み、後方へと飛ぶ。
同時に右足の靴底が床から離れた瞬間、頂点より傾き続けている月光に鈍く照り返す鉄色の花が、花弁と同じく鋭い刃で出来た茎と葉を伸ばして互いの間に聳え立つ。
――きぃ、ん!
間合いに入った直後に振り下ろし始めていた鉈の重みを小室は自分自身で制御できない。相手の動きに合わせてその瞬間には数手先の動作を行えるという強みを活かしきれていない小室の一撃が刃の花に噛み、硬い音を響かせて止まる。
鉈を持った右手から這い上がる痛みにも似た痺れに顔を顰める余裕はない。花の向こうで彩華がさらに次の手を仕掛け始めていた。
「(戦いを見せる、とはよく言ったものね)」
小室の死角を取るように旋回して踏み込んだ彩華の手に握られた牛刀が細かく動く。
それは怒りや憎悪に任せた大振りな――小室を殺すためにイメージしてきたそれではなく――自分の身体の構造からイメージしうる最も隙の少ない動きだった。
だが、その上でも、小室の鉈が二の腕を掠る。服の袖が鉈の先端に引っかかって解れる傍ら、自身に出来うる最善をと彩華は足を、腕を引く。
「(こうして動いてみて、判る。私は弱い)」
理想とするイメージばかりが先行し、身体がついてこない。
戦いの為に肉体を鍛えてきたわけでも、実戦という場数を踏んできたわけでもないのだから当然のことではあるが、いざ目の前で敵と相対した際にそんな言い訳が通用しないという事を痛感し、彩華は歯噛みしながら疲労で鈍くなりつつある身体を叱咤する。
「あやかぁ!!! あの時と一緒だなぁ!!」
逃げてばかりの彩華に、攻め手に回れば自身が有利である事は揺るがないと確信した小室が吼える。
喉を痛めるようながなり声を聞き流し、彩華は滑るように横へと跳ぶ。
「懐かしいよなぁ! あの日も、こうやって、逃げる彩華を追いかけてさぁ!!!」
小室の一挙手一投足から予測しうる人間が稼動しうる四肢の範囲から常に身を引いているように動きながら、彩華は小室の言葉に顔を顰める。
「最低の思い出話ね!」
彩華の足元から地を這うような角度で斜めに生えた刃の針が小室のズボンの裾を掠めて裂けば、小室は過剰反応するように大きく避ける。
その軌道上、回避した先に置く様に、鈍色の花が咲く。
「く――ぉおおあああ゛あ゛っ゛!」
普通の人間であれば間に合わないタイミング。
だが、小室は必死の形相で身を捩って見せ、片膝こそついたものの、すぐに能力を使用して立ち上がると同時に彩華へと距離をつめようと駆け出してくる。
「(くっ、やっぱり、真正面からは厳しい……っ)」
距離を詰められすぎないように、そして何よりも小室の意識が自身から離れすぎないように、彩華は慎重に立ち回っていた。
だが、所詮は素人の付け焼刃。攻防を続ければ続けるほど、能力によるゴリ押しで加速して迫る小室の動作についていけなくなってしまう。
「っ!」
とうとう捕捉された彩華が咄嗟に地へと転げるように身を屈め頭を守れば、頭の降下に間に合わずにその場に舞った後ろ髪の先端が鉈の刃に引かれてはらりと散る。
牛刀を投げ出し、コンクリートの床面に両手をついて四肢で地面を押し飛ばす気概で自らを横に転げさせれば、手をついた場所から噴出した鉄の荊が小室の追撃を牽制する。
「――はっ、はぁ、はぁっ!」
今のは危なかった。立ち上がって視界に小室を捉える事で安全を確保すれば、遅れて冷や汗が彩華の額を伝う。
首筋から前へ下りていた髪は既にこれまでの動きで乱れに乱れていたが、特に先ほど切られてた後ろ髪は不揃いになってしまっていた。
もう少し心に余裕があったならば終わった後にでも美容室の予約を入れなければと思うだろうが、今の彩華は雑事に割ける思考すらも惜しんで視線をちらりと巡らせるのみだ。
「(あと一押し……)」
彩華はちらりと視界を巡らせようとするが、小室の重心が前進の為に傾く予兆を捉えてしまえばそちらへの対処を優先せざるを得ない。
とん、と。軽く跳ぶ様に横に身を倒しつつステップを踏む。だが、先ほどまでは無尽蔵といえる程に足元から噴出していた刃が現れる気配はない。
「――ッ!」
幾度となく足元から飛び出してきた刃によって命の危機を感じてきた小室は当然、彩華の足元に注意を向けてすぐにでも動けるように気を張っていた。それ故に、拍子抜けするように何事もなかったことに驚き一瞬だけだが動きが止まる。
僅かな停滞、しかしすぐに疲労によって歪んだ視界が見せる幻でない事を認識した小室の口の端が吊り上がる。
「……ひ、ははっ」
疲労による能力の制御不能状態。それは小室にも言える事ではあったが、小室は覚醒してからの期間に一日の長がある事を疑っても居ない。
故に逡巡も一瞬、これ幸いと距離をつめるために足を踏み出した小室に対し、
「……くっ」
回避の為とはいえ咄嗟に牛刀を投げ出してしまった事を後悔するのも一瞬、彩華もまた、咄嗟に前へと足を踏み出していた。
「っ!?」
それに虚を突かれた小室だ。
何せ黄泉路と交代して戦闘が始まってからというもの、彩華の攻め手は常に消極的で、言い換えてしまえば小室が彩華を追い詰めているようにも見えていたのだ。
その彩華がいきなり踏み込んでくれば、咄嗟に何かがあると身構えてしまうのは致し方ないことだろう。
振り上げた鉈の軌道がやけに遅く見える中、彩華は戦闘前から観察して導き出していた小室の手癖と腕の稼動域に滑り込むように身をずらし、
「ぐっ!?」
「ぅ――!」
お互い、減速しないままに彩華の肩と、小室の胸がぶつかる。
衝撃に息を詰まらせてたたらをふんだ小室と、反動でしりもちをついた彩華。そこから導き出されるのは、
「は、はっ、はぁ……ははは……俺の、勝ちだ、俺のものだ、彩華、あやか、あやかは、俺の、俺の――」
勝ち誇るように鉈を手に哄笑する小室と、手元に武器もなく、新たに武器を作ったとて良くて相打ちといった間合いで床に座りこんだままの彩華。
上から見下ろす小室の瞳が雄弁に物語っていた。己が勝利を、彩華の敗北を。
だが、そこに映る彩華の表情は焦燥でも、悲壮でも、憎悪でもない。
「楽しそうね?」
「っ!?」
ゆらり、と。彩華が笑う。
疲労こそ滲んでいるものの、それも含めて妖艶と思えてしまうような表情が月明かりを遮った自らの影の下から見上げてくる事に小室は思わず息を呑む。
そして、遅ればせながら違和感に気づいた。
「暗、い……?」
両者の足元が翳っている。
一瞬、月に雲がかかったかと思ったが、それにしては影の濃さが均一すぎると思い至った小室は天を見上げ、
「な――ッ!?」
「綺麗でしょう?」
貴方にとっての棺桶よ。
上がった息を整える事もせず、彩華は静かに宣言する。
「もう貴方は逃げられない」
小室の周囲に咲き乱れた、攻撃を失敗した後の花。
だが、それらは攻撃を終えた後も様々な軌道を描きながら空へ、彩華が死角を突くために円を描くように切り結んでいた事で立ち位置がほとんど変わらなかった小室を中心に、巨大な花を紡ぎだしていた。
小室の頭上に影が降ったのも、最後の締めとして結ばれた数多の刃の茎によって支えられた大輪が結実した事による影。
蓮を模したようなその大輪はゆうに小室と彩華の頭上を天から隠し、花弁のひとつひとつが鈍い光沢と刺々しい剣呑さを宿していた。
だが、それらの些細な特徴を塗りつぶして余りある一番の特徴は、断頭台の刃が下を向くように、通常の蓮とは咲いている向きが逆だという事だ。
驚愕に小室が目を瞠っている隙にも彩華は最後の仕上げにとりかかるよう、床に接したままの両手で能力を発動させる。
「あ!? な、なんで、さっき能力の制御不全になったんじゃ――」
「そうね。さすがに上のアレを維持しながら接地してる一瞬で編むのは大変だったわ。けれど、こうして両手をつけて集中する時間があるならこれくらいは出来るわよ」
それに、もう維持する必要もないのだし。
彩華の声が遠く感じるような錯覚の中、小室は茎と茎を結ぶように刃の蔦が張り巡らされ、さながら鳥かごのように周囲を覆いつくすのを呆然と見上げてしまう。
「さ。終わりにしましょう」
「ま、まてよ彩華!! こんなことすればお前だって」
「私ね。気づいたのよ」
「な、何に……!?」
頭上の大輪が落ちてくれば、その内側に納められた彩華とて無事ではすまない。
思いとどまらせるというよりは、それをして自身の保身を求めた小室に対して、彩華は清々しい程の笑みで応える。
「私に続きはないんだって」
「――は?」
「貴方は殺したいほど憎いし、殺す事が区切りになる。そう思っていたけれど、区切ったところで残るのは人殺しという結果だけ。一般人としての生活なんてとっくの昔に終わってたんだって」
「あ、あや、あやか」
「だから、貴方を殺して全部終わらせるのが一番なのよ」
「お、おいい!!! まて、まてよ!! お、おおお、俺と、俺と一緒に生きて――」
「お断りよ」
嘆願を切り捨てた彩華の言葉と共に、頭上の影が濃さを増す。
「――ひぁあッ!?」
共に見上げた小室の顔が絶望に瞳を見開いているのを、視界を埋め尽くすような数多の刃で彩られた蓮の反射で認識した彩華はふっと力の抜けた笑みを零し、もう二度と開くつもりのない瞳を閉じる。
「――さようなら。私の理解者」
呟いた彩華の耳元で、肉が裂ける音が響いた。