6-41 明けない夜と月下美人6
闇に閉ざされた通路を歩く彩華は、階段を登る足に僅かな疲労を感じつつ、同じくここまでずっと走り通しだったはずの相手を見やる。
数歩前でさりさりと金属が擦れ合う音が響いている事を歯牙にもかけない様子で軽々に階段を上がる姿は見た目の華奢さからは想像も付かない体力の底を感じさせた。
「ねぇ……ちょっと」
「ああ、ごめんね。さすがに疲れたよね?」
声を掛ければ、すぐに足を止めて振り返る相手はたしかに自分を心配してくれているのだろうと彩華は思う。
ちょっと座ろうか、と、刃の花が退けられた踊場の階段に腰を下ろして手招く黄泉路に従い、隣へと腰を下ろした彩華は小さく息を吐く。
「それもあるわね。でも――」
だが、それと同時に強く抱くのは何故という疑問。
幼さの残る容貌の涼やかな転校生。誰にでも優しく、ついつい口が滑るような聞き上手で、勉強もできれば運動も出来る。
そんな絵に描いたような転校生――悪く言えば、作り物臭い転校生が、どうして自分をここまで気に掛けるのだろうか、と。
初めはさほど気にならなかったそれも、こと、この場にまで至ってしまえば、互いの交流の積み重ねでは言い訳のできない隔たりを感じざるを得ない。
「確認しておきたいの。迎坂君、アイツと戦うつもり?」
「え。……うん。そのつもりだけど、どうして?」
きょとんと、何を今更な事を言っているんだろうという顔が暗がりから見返してくることに、彩華はやはりと内心で気を引き締める。
彩華自身が抱く事には強い矛盾があるものの、黄泉路のような害のない能力であれば、能力者になった後も日常――平和な世界で生きることは可能だ。
逆に彩華のように極端に振った例の方が少ないという自覚もある。だからこそ、黄泉路がここまで修羅場慣れしている事が、怪しくて仕様がない。
「まともにやりあってわかったけど、とんでもなく素早いのよ。当たると思って振ったのにいつの間にか数歩離れた所にいたりするし。迎坂君、能力に詳しいならあいつの能力がどんなものか目星でも付いているのかしら?」
純粋な問いに重ねあわせた、迎坂黄泉路を試す問い。
隣に座る転校生の目的がなんなのか。そこまで吐かせられるほどの腹芸をするには情報が足りなさ過ぎるが、それでも、尻尾程度は捕まえておかなければ。自身の直感を信じて、彩華は踊場で小休止して足を休める傍ら、黄泉路の表情を観察する。
「やりようはあるよ。……僕は少し見ただけだから彩華ちゃんに確認したいんだけど、小室君の素早く動く、っていうのはどう素早かった?」
「どう、って……そうね。なんていうか、あいつだけ、私が一動作するまでの間に、三つも四つも動作していたような、そんな身のこなしだった気がするわ」
思い返して始めて気づく小室の動きの奇怪さに、自身でも首を傾げながら彩華が答える。
まるで目の前の光景と現実との間に齟齬があるような不思議な感覚に回答を齎したのは、それを聞いていた黄泉路であった。
「たぶんだけど、【反応起動型】の【速度強化】、じゃないかなぁ」
「何よそれ」
いきなり登場した謎の区分と用語に思わず怪訝な顔を見せた彩華に、黄泉路は小さく苦笑を浮かべて、まるでここ最近では慣れた勉強会のときのような調子で口を開く。
「【速度強化】は文字通り、速度、素早さ、敏捷さ。それらを強化する能力の総称だよ。【反応起動型】っていうのは、そうだね……スイッチのオンオフで能力を使う人たちの区分、かな」
「貴方の能力は?」
「僕のは【常時発動型】【自己再生力強化】。常に自分自身の回復力が高くなる能力、だよ」
どうせまともな回答は望めないだろうと鎌をかけたつもりの質問だったが、打てば響くように返って来る黄泉路の回答に彩華は一瞬面食らう。
隠す必要ない情報、と、確かにいえるかもしれない。自己を健全に保ち続けるだけの能力、そう言われれば確かにそこまでの警戒を要するとは思えない。
それよりも、気になる事が増えてしまった事に頭の重さを感じつつ、彩華は毒を食らわばの精神だと自身に言い聞かせて質疑を続ける。
「色々、気になることは増えてしまったけど。それはもういいわ。最後にひとつ。これだけは聞かせて」
「何?」
気負い無く、最後という言葉から再出発を察して立ち上がった黄泉路が振り返る。
「――貴方は、何者?」
これまで以上に短い、それでいて核心を突く質問に、黄泉路の表情に一瞬だけ影が落ちる。
打てば響くような回答とは一転して、黄泉路は困ったような、笑みで押し隠すような――日頃からよく浮かべていた表情で、彩華に問い返す。
「その質問は、今必要?」
「……ええ」
彩華の喉が、知らずこくりと鳴った。
目の前の少年の異質さは知っている。自身の能力は強いのだという自負はある。それでもなお、目の前の少年と事を構えた場合のリスクが頭を過ぎる。
彩華の体感では十数秒。痛いほどの張り詰めた沈黙の後、黄泉路はやはり困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんね。事情があって、今は言えない。この件が片付いたらいくらでも答えるから、その約束で勘弁してくれないかな」
「そう。一旦はそれで退いてあげる」
「ありがとう」
立ち上がり、再び上層へと足を運ぶ黄泉路を横から見やり、彩華は思う。
「(何がありがとう、よ。……でも、いいわ。あいつを片付けた後で、迎坂君には洗いざらい吐いて貰いましょう)」
彩華は気づかない。
黄泉路が自分に嘘を吐いていないという信頼の上に、その約束が成り立っている事に。
否、本当は気づいていた。それでも、それを一旦は信じてしまいたくなるような信頼を感じている自身を、彩華は自分自身からも隠したかったのかもしれない。
「そうだ。彩華ちゃん」
「何?」
「ひとつ、最初に話していた事に関して提案があるんだけど」
そう口を開いた黄泉路との間に、彩華は普段通りの日常を確かに感じていた。
気安く言葉を交わしながら階段を登る。再び修羅場に向かう足取りは軽い。
危機感も、復讐心も、衰えてはいない。だが、それでも。
彩華はこの僅かな時間を大切にしたいと、そう思った。