6-39 月夜の主役と曼荼羅華
◆◇◆
彩華がフェンスをすり抜け、その身体が宙へと投げ出される。
小室駿輔はその瞬間をまるでコマ送りの様に鮮明に捉えていた。
「あやかぁ!?」
能力を使い、逃げた足を引き戻す。重く感じる身体を忌々しいと思う暇もない程に高鳴った鼓動だけが耳を打つ様な錯覚の中、彩華が突き抜けたことで歪み、穴が広がったフェンスの切れ間に腕を差し入れる。
だが、その手は彩華を掴むことなく空を切る。彩華の姿が自身の伸ばした腕の影で徐々に小さく――遠くなってゆく。
「(そんな、彩華、いやだ、いやだ!! いかないでくれ!! あやかぁ!!!)」
能力のお陰で上昇した知覚能力が現実の時間を引き延ばす中、愛する人を失う恐怖と、これでもう命を狙われずに済む、目撃者が消えるという安堵が入り混じった感慨が小室の内心で浮かぶ。
「(俺は頑張った、努力した。それでも手が届かないなら……仕方ない、仕方なかった、俺は、俺は……悪くない、悪くないはずなん――だ?)」
彩華への想いが保身、自己弁護へと変わってゆく中、小室は見た。
正門の側から、小柄な影が駆け込んでくる姿を。
影が地を離れ、二階の窓の残滓である凹みを足掛かりに壁を蹴って更に上へ――今まさに落下の最中にある彩華の元へたどり着く様を。
「彩華ちゃん!」
月光に照らされる姿は一見華奢で、ともすれば中学生にすら見えるほどの少年。
その体格に見合った優しげな、それでいて男性のそれと分かる声音に緊張をみなぎらせ――つい先ほど、小室が殺したはずの恋敵が、そこにいた。
「な、あっ、あぁああ!?」
なんでアイツが、そう口にしようにも、目の前で起きたことから目が離せず、小室の口からは意味を成さない音だけが零れた。
戦場彩華を空中で姫抱きにして着地する様は、さながら映画の一幕のようで。
柔らかそうな黒髪を夜風になびかせ、月光の下ではいっそ青白いとすら思えるような白い肌の端々に土汚れを滲ませた姿は、ヒロインのピンチに咄嗟に駆けつけたヒーローのようであった。
思考が現実に追いつくにつれて、小室の視界は地上へと、何事か言葉を交わしているらしい迎坂黄泉路と戦場彩華へと集中し、周りの景色が消失してしまったような錯覚に陥ってゆく。
「(なんで、どうして、なんでだよ!? あいつは俺が確実に殺したはずなのに!!!)」
そうして湧き上がってくる激情は、彩華が助かったことへの安堵でも、死んだはずの人間が舞い戻ってきた事への恐慌でもない。
「(本当は俺がそこにいる居るはずだったのに! どうしていつも俺の居場所を奪うんだ!!!!)」
自分が彩華を助けるはずだった。
命を助ければ今までの行為が清算できる。きっと彩華は自分への想いを再び抱いてくれる。
根拠のない仮定が積み重なり、既にどうしようもない所まで――初めから土台が違うという前提すらも無視した思考が、彩華を地面へとおろす黄泉路へと向けられる。
「――」
「っ!」
不意に向けられた視線がぶつかり合い、黄泉路の口元が小さく動く。
それは黄泉路にとって見れば小室と彩華、両者の殺し合いが決着する前に介入できたという安堵の呟きであった。
だが、口の動きだけで内容を察するなどという芸当が出来るはずもない小室にとっては、自身の思考を中心にその言葉を推察するしかなく、
「――は、はは。ははははははっ!」
小室が握りこんだフェンスがガシャリと音を立て、狂気を孕んだ声と混ざり合う。
「お前の所為か!」
盛大に声を張らねば届かない距離。それ故に、地上では小室が何かを喋っている事すらも伝わるか怪しいほどだが、小室はそれで構わなかった。
「お前が彩華を操ってるんだな!!!」
なぜならば、それは既に小室にとって確定した事実であり、結論のついたものだったからだ。
「(迎坂が幻を見せる能力を持ってるなら全部説明がつく。俺がアイツを殺したと思っていたのも、俺がアイツに幻を見せられたからだ。彩華が、クラスの奴らが、アイツにいい顔するのも、全部、全部、アイツが都合のいい幻を作ってたからだ。……なんだ、考えてみれば簡単じゃねぇか。死んだ人間が生き返るわけがないんだから。はははっ、迎坂、とうとう尻尾を出したな!)」
細かく考えなくとも、彩華が小室に殺意を抱く、殺害を決行する原因が小室にあることは疑いようがない。
その原因から今日に至るまで、黄泉路が関わったのは最後の数ヶ月程度であり、それまでの4年間にも及ぶ空白をどう説明するかなどという、冷静な思考をしていればまず突き当たるであろう壁を、自らの逃避癖によって無意識に除外した小室は薄く笑う。
「(待ってろ彩華、今俺が目を覚まさせてやるから!)」
小室は決意する。
掛け違えたボタンが最初の一つ目であったことなど気づかずに。
連れ立って戻ってくるつもりのふたりを見下ろし、もう一度、今度は彩華の前で黄泉路を殺してみせる。そうすれば、彩華に掛かった幻が消えると信じて。