6-38 明けない夜と月下美人4
普段以上に近い少年との距離。
不意の落下によって冷え固まっていた鼓動が跳ねるのを感じる間もなく、口を開きかけた彩華を静止するように黒髪の少年――迎坂黄泉路が苦笑を浮かべる。
「とりあえず、話は着地の後で」
「ちょっ、貴方どうやって――!?」
言われ、改めて自身の身が中空にある事を思い出した彩華は咄嗟に下へと視線を向け、そしてすぐに後悔する。
両腕で抱きかかえられているとはいえ、無事に着地できるとは到底思えず、それを事も無げに言う黄泉路に目を瞠る。
「口、閉じないと舌噛むよ?」
「っ!!」
思考の水底から次から次へと湧き上がる疑問を口にしようとする彩華を諭すような、平時と変わりない落ち着いた声。
こんな状況で悠長に、と。彩華が抗議の声を上げる暇もなく、リミットはすぐに迫っていた。
「――!」
ぐんぐんと近づいてくる地面に、危険に、元より戦士や殺人鬼といった覚悟を持たない、死を恐れる一般人である彩華は思わずといった具合に黄泉路の首に腕を回して体を強張らせれば、抱きつかれた当人であるところの黄泉路は小さく息を吐く。
――ドッ……
直後、コンクリートの地面に質量のあるモノが叩きつけられたような鈍い音が響く。
それと同時に折れた骨が皮膚を破ってズボンの中に零れた血肉に混じって赤い塵が舞い、両足で着地したことによって黄泉路の身体がぐらりと上下に揺れる。
それでも、彩華を衝撃から守るために着地の瞬間で体を撓らせ、膝から腰、腕へと順に流れるように曲げて全身をクッションにする辺り、ある種の慣れや経験則に基づいたものを感じさせた。
「……はぁ」
だが、当人としては腕の中に他人の命を預かっている事に緊張していたらしい。
緩やかに上体を起こした黄泉路は大きく息を吐いて肩を解す様に首を振った。
「人を抱えての着地って、何度やっても慣れないなぁ」
「……、……っ!?」
自らの下肢がズボンの下で無残なことになっている事をまるで意識していない、下手をすれば気づいていないのではと思わせる程に自然な声音でぼやく黄泉路に、言葉を失って小さく口を開閉させる彩華の反応は至極真っ当といえるだろう。
普段の彩華を知っていればまずありえない醜態だが、それを笑う黄泉路ではない。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫よ」
改めて声を掛けられ安否を問われれば彩華としても言語を取り戻さざるを得ず、普段通りの若干見栄を張った受け答えが咄嗟に口をつく。
強いて普段との違いを挙げるならば緊張と恐怖に引き摺られて声が上ずっていたこと位であり、それを指摘するのは黄泉路でなくても躊躇っただろう。
「どこも痛くない? 一応着地は気をつけたつもりなんだけど」
「問題ない、と思う……っ」
「どうしたの?」
怪我の有無を問われ、漸く自らの身体を――状態を確認した彩華が小さく息を詰める音が耳元を掠め、黄泉路は再度問うように彩華の目を覗き込む。
強がりの彩華のこと、もし怪我をしていてそれを隠していたならば自分の落ち度だと黄泉路が考えてしまうのも無理からぬことではあるが、返ってきた言葉はなんとも拍子抜けするものであった。
「それより……その、降ろして、もらっていいかしら……? さすがにこの歳で――って柄でもないし……」
「ああ、ごめんね」
恥じらいの混じった彩華の言葉、肝心の部分がぼそぼそと消え入るような音であったものの、そもそもとして物理的な距離が近いこともあって黄泉路が聞き取れないということはない。
――お姫様って柄でもないし。
羞恥心から自身を守る最終防衛ラインとして濁した彩華の言葉が、今の状況を的確に表現していた。
黄泉路としても他意があったわけではなく、純粋に抱えやすい体勢でキャッチした結果そうなってしまっただけの事故だ。
落下の恐怖で抱きつかれた拍子に柔らかいものが当たっていた事を気にする余裕もなかったのがなによりの証明であるが、これ以上の事故は避けるべき、そう瞬時に判断した黄泉路は普段どおりの表情を取り繕って彩華の足を地面へと促すのだった。
「……何はともあれ、間に合って良かった」
靴越しに伝わるコンクリートの固い感触がこんなにも安心感があるとは、と。内心で深い安堵を覚えながら乱れた服を正していた彩華は聞こえた呟きにふと顔を上げて黄泉路を見やる。
自身に向けられたもの――そう考えたものの、すぐに彩華は黄泉路の表情と向ける先が自身に向いていないことを理解する。
「それは何に対してかしら」
「両方、だよ」
日常と変わらない、困ったような曖昧な笑み。そこに含まれた意図に彩華は鼻を鳴らす。
「あいつは私が殺す。それだけは譲らないわよ」
彩華が小室に。または――小室が彩華に殺される前に。
二つの意味を内包した“間に合った”という言葉に、復讐の優先権は自分にあると主張していまだ屋上、切れてゆがんだフェンスの間から顔を出してふたりを見下ろす小室へと視線を投げる。
「答え合わせは、必要ないみたいだね」
「そうね。……でも、いつから私の本心に気づいていたのかは気になるわ」
すぐにでも校舎の中へと戻ろうとする背を引き止めるような黄泉路の声に応じる彩華の歩みは止まらない。だが、その背には黄泉路は断っても付いて来るだろうという信頼にも似た確信が宿っていた。
そんな後姿が小さくなる前に、と。黄泉路は小さくため息と、困ったような笑みを引っ込めて後を追う。
ふたりが闇に包まれた校舎へと消えた後、再び静寂が戻ってきた学校の中庭を、小室のギラついた瞳だけが見下ろしていた。