6-36 明けない夜と月下美人2
小室が姿を隠して暫し。彩華は無人の廊下を我が物顔で歩いていた。
壁沿いに手を這わせ、指先で壁をなぞるようにして歩く姿は小学生児童などが戯れに行うそれに似ている。
無論、彩華は戯れているつもりなど微塵もない。待ちに待ったシチュエーションに多少胸が高鳴りはするものの、それは仇を殺害できるという結果に対しての緊張や興奮であって、殺人その物に対する興奮ではない――と、彩華は自身の心境を冷静に分析する。
彩華は基本的に無駄なことを嫌う主義だ。自身の目的にとって正しいと思える道筋があれば、それが例え刃で出来た茨の道であろうと迷わず足を踏み出す。ある意味では小室とは真逆の性質を持っていると言える。
そんな彩華が壁に手をついて歩く。それが意味することとはつまり、目的の為の下準備に他ならない。
「念のため。少しペースを上げたほうがいいかしら」
ぽつりと呟く声は月光が差し込む廊下に微かに響き、やがてどこからか吹き込む隙間風にすら負けるように溶けて消える。
彩華が現在歩いている場所は美術室や図書室といった特殊な教室が並ぶ、生徒が普段授業を受ける学級教室が入っている校舎とは別の校舎であった。
彩華の前に広がる月明かりが照らす廊下の景色は青白く、普段歩きなれた廊下であってもまるで別世界のようだとすら感じる。だが、目的を優先する彩華はそれ以上の感慨にふけることも、立ち止まって窓の外を見ることもなく、ただ指を壁に這わせて歩く。
そんな彩華の背後は暗い。
彩華を境に光が消失したかのような闇が、ただ広がっていた。
それもそのはず、彩華の指が触れた場所を基点に埋め込まれた柱が、壁材が、窓が、それらすべてが溶けるように混ざり合い、一部の隙間もないマーブル状の物質へと変貌して光の入り込む余地を完全に奪っていた。
――校舎の封鎖作業。
それが、戦場彩華が小室に呼び出され、校舎の中へと案内されたときに真っ先に浮かんだことであった。
自信満々に前を歩く小室に悟らせぬ様に昇降口のガラス戸を封鎖し、自身の教室へと向かう道すがら、次に通ったときにはすぐにでも封鎖できるように予め壁の片面を溶かして周り、小室が昇降口で二の足を踏んでいる間に仕上げをして、逃げられたとしても既に封鎖作業が完了している廊下へと誘導できるよう、あえて技術校舎の側から姿を現した。
すべてがすべて計算してのことではなく、そもそもをして学校に呼び出されたこと自体が想定外もいいところであったものの、元より屋外で襲われた場合と屋内で襲われた場合の想定を積んできた彩華は学校程度ならば封鎖できると極々自然に想定してきたことを実践したまでの事であった。
「(でもよかったわ。本格的にアイツとやりあうまえにアイツの能力にアタリがつけられて)」
技術校舎の2階を閉鎖し終えた彩華が踵を返し、自身の封鎖した道を戻るように歩き出せば、その背後ではもはや聞きなれた金属が擦れ合い、研ぎ澄まされる様な音が響く。
足が離れるたびに背後で床を糧に花開く月下美人は茎から葉、花に至るまでが鈍色の刃によって形作られ、時折存在する消火栓の非常灯を反射して赤黒く照り返す。
血に濡れた様な色合いが恐怖を誘う光景。だが、
――カツ……ン。
今や闇に飲まれた――封鎖済の廊下の先から響く、自身以外が立てる音を捉えた彩華はすぐに意識を音源へと向け足を速める。
「――っ」
学級校舎から続く渡り廊下だったもの。そこを渡り切ってすぐの、廊下が交差することでやや開けた場所。
天井から吊るされた非常口の緑の明かりが作る人型のシルエットを発見した彩華は静かに息を殺す。
「こっちもかよ……って、くそ。階段がなくなってる」
彩華の存在に気づかずに、前もって封鎖しておいた1階へと続く階段があったはずの――今となっては登り階段しか存在しない階段へと悪態をつく青年の姿。
なれない探索で疲弊したのだろう、闇の中に溶ける声は初めの自信など欠片も感じない、疲れが見える姿勢の影に、彩華は手にした牛刀の感触を確かめるように握りなおし、息を極限まで吐いた上で呼吸を止めて地を蹴った。
「しぃっ!!」
「ッ、あっ、あ゛ッ!?」
彩華の牛刀の切っ先が小室の肩を掠める。
小室がこの一撃をかわせたのは単なる幸運だ。
密閉された無音に近い空間を歩き続けてきた小室にとって、乾坤一擲の一撃を加えるべく踏み込んだ彩華の足音は完全に慮外のそれであり、過剰に反応してそちらを向いた結果として姿勢が崩れた事による産物だった。
だが、幸運は長くは続かない。
「いい加減、死になさい!!!」
「あ、あやか! なんで、俺――!」
「うるさい!」
もはや会話することなど何もない。そう言わんばかりに片手で牛刀を振り回し、踏み鳴らした足元に鉄の花を咲かせた彩華が舞う。
脅しで刃を向けられる事はあっても、本当に殺す気で刃を突き立てられる経験など小室にあるはずもなく、小室は必死に自身の能力でもって彩華の殺意をかわす。
彩華が横薙ぎに牛刀を振れば小室は刃が届くほんの数瞬の間に二歩ほど後ろへと跳び退き、それを追いすがる彩華の足元で咲き乱れた月下美人が足場を奪う。
「う、わっ、わぁ!?」
「ちょこまかと――!!!」
運動と縁遠い小室の息は既に上がっており、極度の緊張と合わさって酸素を求める心臓は張り裂けそうなほどに脈動していた。
耳に這う血管の音が激しく波打つ中、小室は必死に打開策を探して視線を首をめぐらせる。
広かったはずのT字路の中央は、牛刀を鋭く振りかざす彩華の歩みと共に、定点カメラの倍速でもしているかのように急速に発達した植物状の金属によって埋め尽くされて今や足の踏み場は当初の半分も残されていない。
それはつまり、小室が逃げ回れるスペースが半分以下になってしまったということを意味していた。
「(こ、のままじゃ……捕まる――いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ!!! “捕まる”のは――)」
意識した途端に小室の耳からは音が消え、視界がすっと狭まる。彩華の振う牛刀の切っ先しか見えないほどに狭窄した視界とは裏腹に、意識が加速し、思考が先鋭化するような感覚。
小室にとって捕まるということは、自分という存在の終わりとも言えるものだ。無自覚ながらに築き上げられた小室の価値観に抵触した瞬間、小室の思考はそれからどうやって“逃れたらいいか”で満たされ、
「う、わああああぁあぁあぁぁああ!!!!」
絶叫。それは思考の許容量を超え、理性をかなぐり捨てて衝動に寄ってしまった事で今の今まで押さえ込んでいた恐怖が発露であった。
彩華に背を向けて走り出した小室の悲鳴だけが尾を引いて廊下に響き渡り、その姿が再び闇に包まれる。
「な――ん!? ……って往生際の悪い!」
突然の絶叫に一瞬身を強張らせた彩華であったが、我に返ると同時に慌てて駆け出すのだった。