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6-35 明けない夜と月下美人

 小室が教室に身を隠して数分。

 密閉されたことによって循環しなくなった空気が静寂と闇に溶けて肺を満たし、重苦しく神経をすり減らしてゆく錯覚の中、小室は漸く落ち着き始めた自身の鼓動の音で予兆を聞き逃すまいと耳を欹てて廊下の様子を窺っていた。

 外から聞こえてくる音が立ち消えて久しい。静寂特有の“きいいいん”という耳鳴りが責め立てる様にすら感じられ、小室は大きく息を吐く。


 この場を動かないことが一番の安全だ。そう囁く直感に従い小室は体感にしてほんの1、2分程度。

実際の時間にして5分以上は教室の片隅に身を潜め続けていたが、彩華という追跡者の気配が消えた今となっては冷静になった思考がその判断に疑問を投げかける。


「(全力で走り回って出口を探したほうがよかったか? ……いや、でもあのまま追いかけられてたらそんな事考える余裕も無かっただろうし……)」


 闇に慣れた目がちらりと見やるのは、逃走経路を読んだように封鎖された教室の窓。壁の素材とガラスが混ざり合い、手を向ければ闇の中で指先につるつるとした触感を返してくる壁は一分の隙間も無い。

 幸いなことに手元に鉈はあるものの、それのみを頼って人がひとり通れるサイズの穴をあけるというのは現実的ではない事くらいは小室とて重々承知していた。

 その上、作業をするならば当然発生するだろう騒音はこの静か過ぎる空間にはさぞよく響くだろう事は想像に難くなく、彩華が明確に自身の命を狙ってきている現状でその様な冒険に出る事は不可能であった。


「(どうしちまったんだよ彩華……俺のこと、庇ってくれてたんじゃなかったのかよ……)」


 堂々巡りの思考。混乱の最中にあっても迷うたびに浮かんでくるのは、小室にとって初恋と呼べる相手であり、今まさに自身の命を狙ってきている少女の事ばかり。それはある意味では余裕があると言えなくもないが、余裕を自覚するだけの冷静さを保てないでいる小室にとってはただ悩みが増すだけであった。

 小室がゆっくりと腰を上げる。今更に過ぎるだろうという自覚はあったが、これ以上このままというわけにもいかないからだ。

 能動的というよりは受動的に立ち上がった小室は指先の熱を帯びた痺れを気遣うように目を擦る。

 気分的には泣きたい所。だが、幸いにも涙が出ていないというのは最低限の男としての矜持を保てているような気がして、闇に慣れた瞳にほんのりと気力が宿る。


「(今は、とにかく出口を探さないとな。彩華の事を考えるのは、ここを出てから、そう思うしかない)」


 小室は多少ぶつかったとしてもびくともしない机や椅子を避けて扉へと向けて歩き出す。

 壁を壊す道具にされることを危惧したか、それとも、小室が持ち上げて凶器にする事を警戒したか。

 どちらにせよ、机や椅子といった手に持てる類の備品を一つ残らず床と接合して固定するという用意周到さは、この場所で確実に小室を仕留めるという彩華の無言の宣誓のようにも感じられる。

 だが、未だに自分の殺人を他言せず、庇ってくれていたとしか考えられない小室は無意識にそれを否定するように机や椅子を視界の外に追いやって廊下を覗き込む。


「(……音は、しない。近くには居ないみたいだな――って、うお……っ)」


 廊下のちょうど中央。暗いながらも床面に何かが生えている事に気づき、小室は目を細める。

 よくよく観察するように焦点を合わせれば――どのような種類の花かなどは植物に詳しくないが故に判別付かないものの――確かに、蔦の様に茎を伸ばして葉を生い茂らせて花開いた植物のようなナニカが一筋の道のように。もしくは、車道の中央分離帯が如く、暗闇に包まれた廊下の中央を縦に分断していた。


「(やっぱすげぇな彩華は……っと、感心してる場合じゃねぇ。速く移動しないと)」


 そろりと踏み出した足を慎重に廊下の無事な床へと降ろし、つま先に体重をかけて異変がないことを確かめた小室はそっと息を吐くと、刃の花を横目に廊下を進み始める。

 だが、慎重だった足取りが乱雑なそれに変化するのにそれほどの時間はかからない。


「(――ここも)」


 慎重だった歩みがその移動距離と比例して焦燥に駆られた物に変化している事にも気づかず、隠れ潜んでいた時から幾度も頭に過ぎっては動き出すリスクに足を竦ませて先送りにしてきた嫌な想像が目の前に現実として現れ始めている事を実感していた。


「(こっちも……!)」


 1階のすべての通路を歩き終えた足が階段を登り、2階の廊下を歩く頃には、その足取りは早歩きに変わっていた。

 絶えず通路の中央に咲き誇る花を踏まないようにという最低限の配慮はあれど、もはや足音を気にする余裕もなくした小室は小走りで教室を覗き込んでは次の教室へと足を向ける。


「(出口が――ない!)」


  暗闇の中を行く小室には自身の吐息と足音、心臓の鼓動だけが強く響いているような気さえしていたが、それらの錯覚も2階にあったはずのものが消失している事に気づいた時点でふっと立ち消え、代わりに呆然とした声が闇に溶けるように零れた。


「……うそ。だろ」


 正直に言えば、まだ希望はある、そう思っていた。

 そしてその希望が摘み取られることを恐れ、結局後回しにしていた小室であったが、2階までのすべての教室を覗き、自身が彩華に思いを告げようと整理した自分のクラスまでも再確認した後となってはもはや逃げようもない。


 縋るような気持ちで足を運んだ渡り廊下。

 だが、今目の前には小室が期待した光景は無い。

 あるのは渡り廊下――だったと思しき、床面の材質や壁の一部の材質が違う廊下だけだ。

 教室が固まった校舎から専門の授業をするための校舎へと移動するための空中回廊。

 本来ならば手摺と融合した胸元付近まである壁に挟まれた簡素なつくりのもので、当然、天井と壁の間には外の景色が窓などに隔てられる事もなく広がっているはずであった。


「は、はは……ははははは……」


 もはや見慣れてしまったマーブル状の壁が本来開いていたはずの手摺から天井までの空白を埋め、空中回廊が密閉された通路へと変貌してしまった光景を前に、小室は今度こそ自身の先ほどまでの躊躇を後悔するのであった。

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