6-34 松虫草と沈丁花5
『私が一般人として生きるために』
そう呟いた彩華は牛刀へと落としていた視線を上げる。
一瞬落ち着いたように見えた彩華の雰囲気に安堵しかけていた小室だったが、その気配が再び――否、先ほどよりも鋭い感情に変化していることに気付く。
小室という少年にとって他人のマイナス方面の感情の機微とは、自身を取り巻く環境の中で最も割合を多く占めているものだ。逃げるために敏感になった悪感情への感性が、小室にかつてないほどの寒気を怖気を抱かせた。それほどまでに彩華がむき出しにしたソレは激烈であった。
「戦場彩華は貴方を殺してケリをつける」
宣言と同時に彩華が力強く地を蹴るのと、気圧された小室が無意識に後退りしてマーブル状のガラス戸だったモノに踵をぶつけた音が響くのは同時だった。
「しっ!」
「ひぃ!?」
しなやかな踏み込みから一閃。首を狙った突きが放たれ、小室は本能的に身を屈めて転がるように横へと飛んだ瞬間、
――ガギッ!
小室の首があった地点に牛刀がその鋭さを示すように突き立てられ、切っ先が僅かにマーブル状の壁にめり込んで彩華の手元に痺れが走る。
「うっ」
いくら殺意を研ぎ澄ましたところで表立って練習などできるはずもない。どこを傷つければ的確に人を殺せるのか。どのように刃を動かせばいいのかなど調べ、素振りだけとはいえそれなりに手に馴染ませてきたつもりだが、あくまで一般人の枠で考えうる限りでの想定である。本番で想定どおりに行かない事まで織り込み済みである事を加味すれば十分及第点といえるものだが、しかし、現実的に小室を仕留め損なった事に変わりはない。
対して小室の行動はすばやかった。本能的と言ってもいいほどの見た目からは想像も付かない――それこそ小室だけがカメラの早回しをしているかのような身のこなしで廊下を駆け、再び暗がりへと身を躍らせる。
「(……焦っちゃダメ。ここで凡ミスして御破算なんて耐えられないもの)」
痺れに身を強張らせていた彩華が立ち直り、視線を向けた先に小室の姿はない。だが、彩華は努めて冷静になるように自身に言い聞かせる。
「(純粋な力比べにさえ持ち込まなければ身体能力に大きな差は出ないはず。それに、扉の仕込みとこの壁で、あいつの能力は私と相性がいいのも判ってる)」
小室は教室から逃げる際、取っ手に仕込まれた針を道具を使って避けていた。その事から小室の能力が身体を強化する類のものではなく、加えて昇降口を封鎖するマーブル状の壁を破壊して脱出するという手段をとらなかったことから、直接的な攻撃力はないとあたりを付けた彩華は切っ先が突き立ったままの牛刀を引き抜くために力をこめる。
「大丈夫……私の棘は、あいつに届く。ゆっくり、しっかり。追い詰めて殺すだけ」
引き抜かれた牛刀は硬い壁を突き刺したにも拘わらず刃こぼれひとつなく、鈍ることのない彩華の殺意を体現していた。
握り締めた牛刀を振り、風切り音を立てた彩華は闇が大口を開けて待っているような、外から差し込む光ひとつない廊下へと歩き出す。
その背後では彩華の歩いた足跡のように花が咲く。……本物の花であればさぞ少女的で可愛らしいものであっただろう。
だが、夜の校舎にしゃり……しゃり……と金属の擦れ合うような、刃物を砥ぐかのようなかすかな音を響かせる鉄の花を従え、包丁片手に徘徊する様は、どこをどうみても少女的ではなく猟奇的なそれであった。
◆◇◆
明かりひとつない、どこまでも続くような暗闇が蟠る廊下を、小室は恐怖と疲労からくる荒い息を吐きながら走っていた。
「はぁ……はぁ、はぁ、はひ、ひぃ……っ」
彩華という目に見える危険から逃げるために能力を使い、その姿が見えない程度には距離をとれたまではよかった。
だが、それは事態の好転を意味しないことくらいは、ただ逃げ続けていた小室にとってもたやすく理解できる程度には、現状は最悪であった。
「く、そ……どこも、閉まって……」
息を整えるヒマも惜しい。縋る様な気持ちで踏み込んだ、普段ならば下級生が授業を受けている教室は暗い。電気をつければその限りではないが、この状況で照明をつけるのは自殺行為だということくらいは誰の目にも明白であった。
しかし、普通であれば月光くらい差し込んでもいいはずの教室は常闇。それが意味することとはつまり――
「ここも……か……」
窓が閉まっている――のではない。
窓自体がこの校舎を外界から隔離するかのように消失していた。
目が慣れたとはいえ一切の光のない教室は入り口から見えはしないものの、窓が昇降口の扉よろしくマーブル状に固められている事は想像に難くない。
どうしたものか、否。そもそも、どうしてこうなってしまったのだろう。
そんな現実逃避にも似た思考が頭を擡げていた所で、小室の敏感になった聴覚が最も捉えたくない音を拾う。
――こつ、こつ。こつ、こつ。
誰かが廊下を歩く。ゆったりとした足音。
それと同時に聞こえる、何かが擦れ合う様な耳障りな、背筋に寒気が奔るような音が続く。
さり、さり……しゃりっ、しゃり……しゃり。
「(やばい、やばいやばいやばい!! どっか、隠れ――)」
近づいてくる足音に、小室は咄嗟に開けっ放しだった教室の中へと入り、扉を出来る限り静かに閉める。
そのまま教室の奥の方まで一足飛びで移動し、身をかがめて息を潜めた。
――こつ、こつ、こつ。こつ、こつ。……こつ。
教室のすぐ近くで足音がとまる。
今にも飛び出しそうな程に鼓動を早める心臓を痛いと感じつつ、本当ならば荒く息を吐きたい衝動を堪えて小室は耳を澄ませた。
――こつ、こつ、こつ……さりさりさりさりさり……。
やがて再び聞こえ始めた、彩華の移動する音が離れてゆく。
その音が完全に聞こえなくなり、金属の擦れ合う音もおとなしくなり始めた頃。小室は漸くといった具合で息を吐き出した。
「はぁ……どうして、俺ばっかり……こんなはずじゃなかったのに……どうしてだよ……」
悲嘆に満ちた声が闇に溶ける。
小室にとって最悪の夜はまだまだ始まったばかりであった。