6-32 松虫草と沈丁花4
やっと殺せる。
そう告げる彩華の左手に握られた包丁――牛刀と呼ばれる主に肉を切断することを目的とした包丁――が風を切る。
ただの凶器程度ならば、手に触れる物があればいつだってその場で作ることが出来る。そんな彩華が日頃より忍ばせていた非日常は、その決意の表れであったことに他ならない。
彩華の殺意の塊ともいえるそれが、呆けたまま事態を飲み込めずに居る小室が立った教壇のほうへと迫る。
「……は? え……?」
喉から声とも呼気ともつかない音を漏れている事にも気付かないまま、小室は迫り来る刃物に対して咄嗟に回避行動をとろうとして足を引く。
「――ぁ、あ゛ぁ゛!?」
だが、日頃の運動不足や、命の危険を明確に感じる突発的な事象に慣れていない小室の身体は意志とは無関係に縺れ、乖離した先行する精神に引き摺られた身体が崩れ――
ヒュォン!
尻餅をついた小室の頭上、残された髪すれすれに牛刀が通り抜ければ、小室の心拍が跳ね上がる。
「ひぁあぁ!?」
たまらず転がるようにその場から退いた小室を彩華が追う。
「こうしてみても、貴方の気持ちなんてわからないわね」
悠然と、駆けるでもなく追いかける彩華の声に応じる余裕など小室にはない。
理解不能な現状から脱出すべく入ってきたばかりの扉へと手をかけ――引き手へと触れた指先から奔る痛みで異変に気付く。
「ぃ゛ッ!?」
「テリトリーに誘い込んだのは此方も同じ。逃げられるだなんて、思わないことね」
スライド式の扉、その開閉に使うための取っ掛かりとして埋め込まれている金属製の引き手。その内側が、剣山の様に鋭く連なった棘に覆われていた。
暗い中確認もせずに突っ込んでしまった小室の指から滴る血が、悪戯の度合いをとうに越したものであるという事実を痛みと共に小室の脳へと突き刺さる。
「ぐ、くそ、このぉ!!」
何とか手に持った鉈だけは取り落とさなかったのは行幸といえただろう。鉈の柄を引き手の角へと掛けて扉を開く頃には、背後から迫る彩華との距離はだいぶ縮まってしまっていた。
廊下へと駆け出した小室の脳内は恐怖で満たされ、執心して用意周到に行ったはずの告白など今や思考の隅にすら存在しない。
あるのは、能力を使用してでも彩華から距離を――同じ場所から一刻も早く離れること。
こと、“何かから逃げる”という行為に関して、無意識かつ自虐的でありながらも絶対の自信を持っていた小室は広く長い廊下を走り出せた事に安堵を抱く。
ぐんぐんと離れていく教室になど見向きもせず、ただひたすらに来た道を戻るように階下へと向かっていた。
能力を得てからというもの、自分が逃げ切れなかったものはない。そう都合よく思考を纏め上げる行為そのものが逃避であるという事実からも逃避する。実に小室らしい思考。
それ故に。逃げ続けても現実は変わらない事を小室は失念していた。
「――な、ぁ……う、そだろ……なん、え……えぇ……?」
肩で息をしながらも呆然と立ち尽くしているのは、かつては昇降口と呼ばれた――つい数分ほど前に彩華と共に潜り抜けてきたガラス製の扉が並ぶ大きな玄関口だった。
だが、現在小室の視界に広がっているのは真っ暗な壁。ガラス扉だったとかすかに認識させる程度に残滓を残すマーブル状に素材が混ぜ合わされて作られたぬり壁を前に、理解の許容量を超えた小室は掠れた声で呟く。
「扉……扉何処だよ……下駄箱あるのに、なんで――」
「そこにあるじゃない。――正確には、扉だったもの、だけれど」
「っ!?」
突然降って来た声に肩を揺らし、大げさなほどに動揺して振り返った小室の視線の先に、それは居た。
「どうしたの? 貴方と同じバケモノなのでしょう? そんな目で見られるのは心外だわ。私はまだ、貴方と違って誰も殺していないのに」
校舎を、備品を、手足が触れる先から鈍色の花へと変えながら、彩華は歳相応の少女の様に華やかに嗤う。
「ひっ、く、くるなぁ゛!! 俺が何したって言うんだよ!!!」
「……」
錯乱にも似た小室の叫びが廊下に反響する。
人の声というよりはもはや鳴き声に近いそれが日本語として機能する意味を頭の中で整理した彩華の足が止まった。
表情など見える距離ではない。だが、明確に縮まり続けていた距離が止まれば、一番の危機が去った事で高鳴り続けている鼓動を余韻に残しつつも、小室の思考は多少の冷静さを取り戻す。
思考に余白が出来たことで即座に考え付いたのは、いかにして会話で時間を稼ぐか。先ほどの言葉がとっかかりなのは間違いないと判断した小室は正しかっただろう。
「な、なぁ、冷静になれよ。俺はただ彩華を苦しめてたヤツを懲らしめただけだぜ?」
「……」
「それにしても彩華はすごい能力だよな! やっぱり俺と組めば裏で最強も夢じゃ――」
「……ああ。ほんと、ろくでもないわね」
ただし、それが紛れもなくマイナス方面への取っ掛かりであった事に気付けない小室には、もう遅すぎる話ではあったが。
再び開いた彩華の口から零れだした悲嘆とも苦悩ともつかない震えを帯びた、しかし明確に苛立ちを孕んだ地を這うような声音に小室の言葉が遮られる。
「あ、あや」
「何をしたですって? 言うに事欠いて……何を――何を――」
「どうし」
「ふざけんじゃないわよ!!!!!」
怒声。それはこの4年間で最も彩華の感情がこめられた一声であり、自らの喉を挽き潰さんばかりの悲鳴じみた音であった。
「ひぃい!?」
「忘れたとは言わさないわ! 私のお父さんとお母さんを殺した日の事を!!!」
「だ、だってあれは事故で、それに、彩華は俺を許して――」
「ゆるす?」
何を言ってるのだろうか。一週回って平坦な機械的ともいえる声音を吐き出した彩華に言い募るように、小室は言葉を重ねる。
「あ、ああ! だってそうだろ!? 彩華はちゃんとあの日俺を見てた!! なのに警察が来た後も俺を突き出さなかったのは――」
俺を庇ってくれていたんだろう。と、言い募る最中に自身が抱いた恋心の根幹に触れた事で僅かに調子を取り戻した様に小室の声に自信が篭る。
だが、彩華の答えは決まりきっていた。
「そんなの、猶予に決まっているじゃない」
「……は?」
「お父さんもお母さんも、私が復讐だとしても人殺しをしたらきっと悲しむわ」
「そ、そうだぜ。だから――」
「だから。条件を設けたのよ」
手に持った牛刀へと目を落とし、彩華はしみじみと呟く。
そして語られるのは、彩華という狂気を形作る原型だった。