6-31 松虫草と沈丁花3
彩華の自宅から私立嶺ヶ崎学園まではさほど遠くない。
もとより最寄の、中高で環境が変わらない学校をということで入学したこともあって道のりもなれたものだが、今日に限っては夜の暗さもあって普段以上に時間が掛かるように感じられた。
学園の正門前へと到着した彩華は一切の灯りが消えた校舎を見上げて息を吐く。
「……趣味が――いえ、センスがないのね」
小室と彩華が共通して足を運ぶ場所など他にないといえばこの場所は確かにそうだろう。
だが、お互いにとって決して心地の良い場所ではなかったはずの場所を待ち合わせに選ぶなど、彩華の感性からすればそうした感想が漏れざるを得ない。
さすがにこの時間では敷地内から人も消えているらしく、彩華の正面を塞ぐ閉じた門は侵入者を拒む本来の仕事をしっかりと全うしていた。
「(待ってるというのなら。鍵くらい開けておきなさいよ)」
金属製の格子の門は重く、彩華の腕力では到底押し開けることなど出来るはずもない。
また、飛び越えるという選択肢も、自身の格好と身体能力を過信していない彩華は自明として否定する。
「……まぁ、私には関係ないのだけど」
ならばどうするか。彩華にとって、それらの選択肢を選ぶよりも最も手近で、かつ確実なものを、彩華は迷いなく選択した。
彩華の白くか細い指先が、淡い緑色の塗料で染色された格子門を構成する棒の一つへと触れた瞬間。
――ギチ、ギッ、ギィ……。
指先が触れた鉄柵から連鎖するように金属が擦れるような音が響き、まるで生きているかのように捩れうねって花開く。
見る間に月明かりを受けて鈍く光を反射する刃の花が鉄門を侵食し、彩華一人が通り抜けられる大穴へと変化するのに数秒と掛からない。
……さりさりさり。
鉄の葉が揺れる。彩華の通行に支障ない広さという条件によって変化を免れた格子の名残へと絡みつくそれは、元の塗料の色が表面に残っているが故に、一見すると本物と遜色ない蔓植物の様であった。
何の気負いもなく通り抜ける彩華の背後。名残惜しむというよりは、ただの後片付け。そう言わんばかりに残していた後ろ手の指先が月光とによって紫に色づいた花弁を滑り、彩華の歩みによって離れると同時、再び微かな擦れ合う音を響かせてその姿が元の緑色の鉄門へと戻ってゆく。
「――人を呼びつけておきながら。遅刻かしら」
正門から入ってすぐに植えられた早咲きのハナミズキの樹が夏を手前に瑞々しい緑を枝一杯に広げた様を一瞥して声をかける。
どこに潜んでいるという確証はない。ただ、粘り付くような嫌な予感だけが喉の奥で存在を主張していた。
肩掛け鞄の重みを意識し、黙ること数分。恐らくは5分と経っていないだろうが、今の底抜けに機嫌が悪く、それでいてそれが不快かと言われると一概にそうと言い切れないという、夢見心地のような心境が普段であれば付き合いきれないと帰宅を意識し始めていただろう彩華を引きとめていた。
「……っ」
不意に、風が吹いた。
風は月光を遮る色を持っており、何より、その纏う空気は湿気が気になり始める季節の中で濃密な主張を彩華の嗅覚に訴えかけていた。
「……血の匂い」
「ああ。悪い彩華。でもこれくらいのほうがいけてるだろ?」
ハナミズキを正面に見据えた彩華の背後にいつの間にか姿を現していた同級生――小室俊輔の馴れ馴れしい言葉遣いに、彩華は言葉を飲み込んで振り返る。
普段学校で見かけていた制服姿とは違い、その姿は黒いジーンズに同色の無地のシャツ。闇夜にまぎれるといえば聞こえはいいが、季節感やファッションセンスという意味では評価に値しないと一瞬で断じた彩華は小さく鼻を鳴らす。
何より、その手に握られた大振りの血塗れた鉈と、全身から漂う濃い鉄の匂いが、彩華の視線を鋭くさせていた。
「と、とりあえず教室に行こうぜ」
冷ややかな彩華の瞳に圧し負けたように緊張から僅かに上ずった声に彩華が小さく頷けば、彩華の横を通り抜けて小室はそそくさと歩き出す。
距離を開けて後を歩く彩華に対し、小室が振り返らないままに声をかける。
「今日は貸し切って貰ったんだ。すごいだろ。セキュリティは全部落ちてるから安心して入れるぜ」
どこか自慢気に告げながら下駄箱が並ぶ生徒用の昇降口のガラス戸を引き開ける小室の仕草にはさすがにイラッと来たものの、彩華は小さく深呼吸することでこれ以上の心の動きを制御するように校舎の中へと足を踏み入れる。
校舎の中は外に比べて更に光源に乏しく、廊下の奥へと闇がどこまでも続いていくような錯覚さえ感じられた。窓から零れた月明かりと消火用の非常ベルの赤いランプだけが妙に強調されたような、昼の校舎とは打って変わったホラーのワンシーンを髣髴とさせる静けさに包まれていた。
さすがの小室も立て続けに無視されてしまえばこれ以上気を利かせようと捻ったセリフも浮かんでこない様子で、ただただ足音で彩華が後ろをついてくるのを確認しながら黙々と歩き、【2-C】というプレートが下がった教室へと――彩華と小室の所属するクラスへと到着する。
全ての机が教室の端へと並べられ、事前にここに彩華を呼び出すための準備をしていたらしいと理解すれば、彩華は広く取られた中心付近へと歩を進め、教壇側から動かない小室へと向き直って口を開く。
「それで、こんな所に呼び出して、なんのつもりかしら」
「そうカリカリするなよ。美人が台無しだぜ」
「御託はいいわ。さっさと用件を話して」
切り捨てるが如き彩華の鋭い言葉に、今度こそ冗長なセリフは逆効果だと正しく理解した小室は小さく咳払いし、意を決したように彩華へとまっすぐ視線を向けた。
「彩華、俺は彩華が特別な人間だって良く知ってる。並のヤツじゃふさわしくない。だから俺と一緒に、裏の世界で生きていかないか?」
「――は?」
一世一代の告白。そんな気迫すら滲ませて言い募る小太りな同級生を前に、彩華は思わず開いた口から声を漏らしていた。
自身の声音が現実味を引き剥がされたようだった彩華の思考に反響し、一層滑稽だとすら思うほどの現実逃避。
「何を言ってるの……?」
辛うじてそれだけを紡ぎ出した彩華であったが、そんな彩華の心境を躊躇いと取り違えたらしい小室は手に持った鉈を掲げて誇らしげに告げる。
「彩華を惑わせてた邪魔者はついさっき始末した。彩華の表面しか知らない人気者気取りなんかに、彩華はふさわしくないからな」
「……迎坂君を殺したのね?」
静かに確認する彩華の表情は小室からは見えない。
「ああ。だからもう彩華を縛るものは何もない。俺と一緒に――」
「くふっ」
不意に、興奮気味に捲くし立てていた小室の声が途切れる。
彩華の様子に気付いた――のではなく、彩華から零れる声に気付いたからだ。
顔を俯け、僅かに肩を震わせる彩華の姿は、つい先ほどまで一緒にいた同級生の死を受け入れたくないが故のもののように見える。
だが、そこから漏れ出た音が、その印象を決定的に違えていた。
そして、限界を迎えたというように彩華が顔を上げ、
「ふ、あは……あははははははははっ!!!!」
哄笑が教室に響いた。
「ええ、ええ本当に、貴方の言うことは理解不能でしかないけど、迎坂君が表面しか知らないのも、私を縛っていたのも、その通りだわ」
肩掛け鞄に手を入れながら、彩華は笑う。
「――ああこれで、やっと貴方を殺せる」
しゃらり。と、鞄から滑る様に抜き放たれた包丁が月光を受けて彩華の手の中で鈍く光った。