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6-30 松虫草と沈丁花2

 黄泉路が消えた。

 つい先ほどまで隣を歩いていた同級生の少年が忽然と姿を消したことに目を瞠った彩華はさっと視線を周囲へと向ける。

 視界に広がっているのはブロック塀に挟まれ、左右はさほど道幅が広いとはいえないコンクリートで舗装された、何処にでもある住宅街の風景だ。

 申し訳程度の白線の余白も狭く、そもそも車が通ろうとなれば、通行人が端によって、安全を考慮するならばどちらかが通り抜けるまで片方が止まって待つのが正しいと言える様な狭い路地。

 横道は少し前に通り過ぎたばかりであり、身を隠せる可能性のある遮蔽物など、それこそ今彩華の足元を照らしている灯りが取り付けられた電信柱程度だろう。加えて、黄泉路が何の意味もなく、ただの一言も声をかけずに姿を消すなどという事がどれだけ確率の低い出来事か、それなりの付き合いがあると自負している彩華は脳内に浮上したその仮定に否を突きつける。


「(悪戯――は、迎坂君が私に仕掛ける意味がない。意味のない悪ふざけをするタイプでもないし)」


 ほんの一瞬目を離した。たったそれだけの事で人がひとり、忽然と姿を消してしまうものだろうか。


「(違う、この感じは何か……)」


 彩華の視線は繰り返し路地を移って行くが、いくら探したところで黄泉路の姿はない。

 窓から室内照明の灯りが漏れる人家からの喧騒すらどこか遠く、夏に近い空気が喉にへばりつく様な不快感にこくりと小さく喉が鳴った。


「(そうだ。これは――)」


 自身の足場が不意に消失したような、浮遊的な不安感。

 日常という地盤が泥沼に変わったような――非日常の兆しに気づいてしまえば、遅ればせながら彩華の背筋に薄ら寒いものが走る。

 緩みかけていた意識が急速に覚めて行く。ぬるま湯に浮かぶようだった思考が高速で研ぎ澄まされて、鋭くなった感覚が捉える首筋に滲んだ嫌な汗の感触に僅かに眉を顰め、


「……出ろ。って事なのね」


 非日常を認めたくない感情によって無意識に目を逸らしていた、手の中で震え続ける携帯電話へと視線を落とす。

 飾り気のない着信画面。映りこむ非通知の文字に、彩華は意を決してボタンへと触れる。


 ――ピッ。


 短い電子音。そっと耳を寄せれば通話が繋がったことを示すかすかなノイズが電話口から漏れてきており、時折、息遣いの様な短い音が混ざっていた。


「……」


 通話をつなげれば相手から要件を告げてくるだろうか。そう考えての行動だったが、数秒もすれば向こう側からの応答がない事に苛立ちを覚えた彩華は端的に告げる。


「……性質の悪い悪戯なら切るわよ」

「――ッ!!」


 対して、通話口から帰ってきた反応は劇的だ。

 浅い呼吸音を思わせるノイズが一瞬凍りついたように張り詰めたものへと変わるのを電話越しに察し、彩華が今度こそ相手が何かを喋るだろうと耳を澄ませて窺っていれば、聞こえてきたのは僅かに上ずった若い男の声。


「あ、あやか」

「……どちら様かしら」


 自分の名前。それを呼ばれることが、こんなにも不愉快なことだったとは。そう口に出さなかったのを自分で褒めたくなると、内心で湧き上がる不快感をいなすために自画自賛しながら問いかける。

 今彩華を正面から見る事が出来たならば、普段の澄ました表情からは想像も付かない、顔中の筋肉全てを使って不愉快さと苛立ちを表現するような形相と対面していただろう。そういった意味で、電話口の男は幸運だった。


「お、俺だ。分からないか?」

「……生憎と。私とそんなやり取りが出来るほど親しい人間がいないもの」

「――同じクラスなのに?」


 端末の内臓スピーカーから聞こえてくる音が、言語としての意味として彩華の脳内で処理される。

 その時間は実際にはほんの一瞬でしかなかったはずだが、当の彩華にとって。そして、通話口の男にとっては、果てしなく長い時間が経過したような錯覚があった。


「……そう」


 やがて、彩華はおもむろに口を開く。


「小室君なのね」


 それはこの4年という歳月の中においてでさえも。

 最も鋭く、底冷えのするような声音であった。


「――やっぱり! 彩華は俺の事を覚えてたんだな!」


 自身の名を告げられるなり、電話口の男――小室俊輔は途端に饒舌に声を響かせる。


あの日(・・・)からずっと、ずっと彩華を見てたんだ! 彩華が人を避けるようにしてるのも、脅しで力を使うのも、ずっとずっと見てた。彩華の事は俺が一番良く知ってる」


 そんな小室の言葉の洪水が耳へと、そして、反対側の耳から抜けていくような、熱湯の中で揺蕩っているような錯覚に彩華は陥る。


「用事はそれだけかしら」


 人語として判別できる言語を吐き出せたのは奇跡に近い。

 内側で荒れ狂う様な熱と、何処までも冷めてゆく心のギャップにどこか現状と乖離してしまった思考でそんな事を考えながら吐き出した言葉。抑揚のないその音に、小室が語気を強めて否を唱える。


「あ、違う!違うんだ!! 彩華、これから彩華にとっておきを見せたくて……それで……えっと……」

「……本題があるなら早く言って。私は暇じゃないのよ」


 これから迎坂君を探すのだから。とは、さすがに口にしなかったものの、ぶつ切りにした彩華の言葉を急かす為のアピールと感じたらしい小室が通話越しで口早に宣言した。


「彩華、俺と新しい世界に行こう。邪魔なものは全部切り捨てて、俺と一緒に、俺達だけの世界に」

「は? 一体何の――」

彩華を煩わせて(・・・・・・・)いるもの(・・・・)は俺が始末するよ」


 要領を得ない小室の唐突な言葉にさすがの彩華も面食らい、咄嗟に問おうとした言葉すらも小室が重ねるようにして告げた内容によって寸断されて喉の奥で萎む。


「学校で待ってる」


 小室がそれだけを言い終えると、用は終わったとばかりにブツリと通話が途切れる。



 ……ツー。ツー。ツー。



 耳元で聞こえてくる通話終了の通知。改めて携帯を見下ろせば、画面は数年前から変わらない中学時分の趣味のままの待ち受けへと戻っていた。


「……そう。学校にいるの」


 彩華は仄暗く呟くと、鞄に携帯を戻しながらその足を学校へと向ける。

 深く肩に掛け直した鞄の中で、携帯と何かが小さくぶつかる様な微かな硬い音がコンクリートを踏み締めて歩く彩華の足音に紛れる。

 やがて聞こえなくなれば、後にはぽつりと路地を照らす街灯と、家屋からの喧騒が戻ってきた極々ありふれた夜道だけが残されていた。

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