6-26 それは坂を下るように3
週半ばから始まった試験は金曜日で終わりを迎えた週末は試験明けという心情を合わせても清々しい快晴。
あと2週間足らずで1学期が終わりを迎えるという、いち学生としては何の憂いも無い休日であるにも係わらず、
「ここ、時間が足りなかったのよね……」
「途中に時間が掛かる問題あったし、順番通りに解いてると確かに」
「そういう迎坂君はどうなのよ」
実に6年ぶりとなる勉学の成果に手応えを得ていた黄泉路は今、机を挟んで彩華の対面でペンを動かしていた。
壁掛け時計が秒針を動かす規則正しい音を掻き消し、ペンが紙の上を走るカリカリという音と、お互いに意見を合わせる声が断続的に室内の空気を揺らす。
外を照らす眩い日差しもさすがに室内になれば落ち着いたもので、代わりといった具合に点灯している淡いオレンジの照明が室内の色合いを暖かく演出していた。
「僕はこっちの問題がちょっと引っかかってて……」
「あら。ちょっとした引っ掛けじゃない。大方、ここに目が行き過ぎてたんじゃないの?」
「……あ、あー。そういうことか……」
初めて訪れた際には刃の花畑へと変貌してしまったはずのリビングに、黄泉路の惜しむ様な声が溶ける。
今ではすっかり何事も無かったかのように極一般的な洋風建築の一室へと戻っている戦場家だが、まったく変化が無いわけではない。
ここ暫く黄泉路という来客が通いつめている事で、以前よりも意識して掃除しただろうことが覗える事も変化のひとつ。これはまだ小さい部分と言えるだろう。
淹れられてからさほど時間がたっていないことを示すように湯気を立てる紅茶の傍に置かれたお茶請けなど、来客を想定していない以前であればありえないものだ。
はじめは家での勉強会に際して黄泉路が気を利かせて持ち込んだものであったが、今用意されているものは、さすがに毎度客人にお茶請けを用意させると言うのは体裁が悪いと判断した彩華のものである。
それはつまり、客人をもてなそうという意識を彩華が持っているという精神的な変化に他ならない。
当人にその自覚があるかは怪しいところであるが、確実に彩華の態度が軟化していた。
「……休憩にしようか。お手洗い借りるね」
席を立った黄泉路を見送り、机に広げられた参考書を片付けてしまえば途端に手持ち無沙汰となってしまった彩華の視線が室内を泳ぐ。
何の変哲も無い、生まれてから今日に至るまでを共にし続けてきた室内。全ての配置を記憶していると言っても過言ではない空間で、ふと、大型テレビと同じ台に置かれた写真立てが目に入る。
「……」
そこに映されているのは止まった世界。
笑って並ぶ両親と、間ではにかむような、現状に不満など持っていないという顔で笑う、中学に入学したての彩華自身。
幸せを切り取ってはめ込んだ、優しかった頃の世界だった。
「大丈夫?」
「っ!?」
いつからそこにいたのだろう。分かりやすいほどに肩を揺らし、咄嗟に手に持っていたペン先を突きつけながら振り返った彩華に黄泉路は目を瞠る。
たかがペン……されど、彩華の手にあるという条件を加えれば容易に人を傷つけうる凶器として正しく認識できるはずのそれを向けられてなお、黄泉路が驚いたのはその行為自体だった。
その証拠に、黄泉路の視線はペン先ではなく、彩華の目へと向けられていた。
咄嗟にペンを向けてしまったものの、そのような視線を向けられてしまえば彩華としては居心地が悪い所の話ではない。
今更どう取り繕ったところで遅きに失しているという自覚はある。それでも最大限の体裁を整えるように緩やかにペンを下ろし、代わりといった風に手近にあったリモコンをつかんでテレビの電源を入れる。
『こういうのはですねぇー。若者特有の――』
流れ出したコメンテーターの空論は寒々しく、まるで無理に取り繕おうとする自分のようだと皮肉にすら感じられるそれが一層、自身の失態を上塗りするようにすら感じられた。
「……なんでも、ないわ」
「本当に?」
気まずさから辛うじて苦々しい声を絞り出せば、間髪いれずに問いを重ねてきた黄泉路に、彩華は逸らしてしまっていた瞳を反射的にそちらへと向ける。
刹那的な負けん気で睨み返す様に視線を向けた彩華だったが、黄泉路のまっすぐな瞳とかち合った瞬間、出掛かっていた言葉もどこかへと飛んでしまい、思わず息を呑んでいた。
「――」
冥い。
ただひたすらに光すらも呑む様な深い色の瞳が、まっすぐに彩華を見つめていた。
これほどまでに寒気のする目をしていただろうかという疑問すら吸い込まれてしまいそうな錯覚の中、黄泉路の声音が再び同じ音を繰り返す。
「本当に?」
「っ、なんでもないったら! この間もそう言ったでしょう!?」
「納得してたら何度も訊いたりしない」
「……っ」
思わず叫び返すような声とは対照的な、あくまで普段通りの黄泉路が冷静に問いを重ねれば、彩華はハッと目を瞬かせて臍を噛む。
「最近、彩華ちゃんの様子がおかしかったから」
心配なんだ、と。困ったように――いつもと同じく微笑む姿に彩華は溜息を零す。
一気に脱力してしまったような感覚に思わず席へと腰を下ろせば、黄泉路も倣う様に席に座って彩華の言葉を待つ様に黙り込んだ。
ややあって、彩華は諦めたように口を開く。
「そんなに分かりやすかった?」
「どうかな。たまたま彩華ちゃんをよく見れる位置に居ただけかもよ」
「……そういうの、誤解を生むからやめたほうがいいわ」
「?」
無邪気ともいえる、何の含みもないような顔で小首をかしげる黄泉路の目はやはり深い色を宿している。だが、さきほど感じたような仄暗さを感じなかった事から、彩華は勘違いだろうかと内心で首をかしげながらどう答えるべきかに思考を伸ばした。




