6-25 それは坂を下るように2
翌週の水曜日。
それまでの無断欠席が嘘のように姿を現した小室に対してクラスメイトから向けられたのは僅かばかりの好奇の視線だけであった。
だが、それも担任から問われた欠席理由に体調不良と答えた事ですぐに霧散し、日常の延長として処理される。
それらが意味する事というのはつまるところ、クラスメイトの誰にとって見ても小室の1週間にも及ぶ欠席は自身とは関わりのない事であり、どうしたのだろうという僅かばかりの好奇心や心配はあっても、声をかけてまで気に留める必要性を感じていないという意思の表れであった。
些細な異常は日常によって掻き消される。それはどこであっても変わらず、誰にとっても当たり前のように過ぎてゆく。
「……」
――ただひとり。戦場彩華という生徒を除いては。
「彩華ちゃん、どうしたの?」
「なんでも――いえ。迎坂君」
心配するような声に引き戻され、咄嗟に癖でなんでもないと言い掛けた彩華はでかかった言葉を飲み込み、改めて黄泉路へと視線を向ける。
「何?」
「小室君。どうしたのかしらね?」
「――病欠だったみたいだね。それがどうかしたの?」
彩華同様、ちらりと視線を小室へと向けた黄泉路は僅かな間を置いてから、いつものような柔らかな声音で首をかしげる。
その様子が僅かに引っかかったものの、彩華は黄泉路の表情の奥にあるものまでは見透かすことが出来ず、また、それでどうなるというものでもない事であった為に緩やかに首を振る。
「……いえ。やっぱりいいわ」
その声音や態度は既に普段の戦場彩華そのものであり、淡々としていて怜悧、清楚な外見を埋めるほどの涼やかなものであった。
彩華の態度が僅かにおかしかった事は気になりはしたものの、試験前の時間ということもあってあえて人の多い教室内で追求することもないかと言葉を飲み込み、最初の科目を担当する教諭が入室してきた事を機に試験に集中する事にしたのだった。
……カリカリ、カリカリ。
複数のペンを動かす音が断続的に響く。
試験が始まってしまえば私語などあるわけもなく、あるとしても時折問題に悩む生徒の苦悶じみた呻きにも似た声だけが静寂に溶ける教室内。
迷いなくペンを動かしつつも、彩華の思考は試験とはまったく別の所で固定されていた。
ちらり、と。時折――試験という環境でなければすぐに黄泉路が気づいたであろう頻度を時折と表現するのであるならば、であるが――時間を確認するように顔を上げ、一瞬だけ別の場所へと視線が止まっては、再び机の上の解答用紙へと落とされる。
「……」
誰もが気にも留めないクラスメイト。
その微かな変化が頭から離れず、彩華は何度目かになる溜息を心のうちに仕舞い込む。
今は少なくとも、試験に集中すべき時間であり、自身の決めた在り方を守ろうとするならば、小室に構っている暇はない。
そう言い聞かせてテスト用紙へと縛り付けた彩華の意識が解放されたのは、丁度最後の問題の解答を書きはじめたタイミングで鳴り響いたチャイムであった。
「あ……」
「そこまで。後ろから回収するぞー」
担当教諭の掛け声に、さすがにここでペンを動かすのは往生際が悪いと判断した彩華は眉の端に僅かな悔恨を宿しつつ、書きかけの最後の回答を諦めて席を立つ。
隣でも、最後尾の生徒が前へとテスト用紙を回収していく慣わしから黄泉路が前列へと歩き出している所であり、その表情を見るに何の問題もなくテストを終えたという雰囲気に、彩華は自分の失敗を殊更大きく感じざるを得ないのだった。
「……彩華ちゃん、もしかして調子悪い?」
「え?」
幾度目かの休み時間に入り、黄泉路にそんな風に声をかけられたのも当然といえば当然であろう。
試験までの数日間、お互いに勉強の為に向かい合っていたのだ。一度気づいてしまえば彩華が集中を欠いているというのは明白であった。
「そうみえる?」
「もし辛いようだったら保健室で休んだほうが良いんじゃないかな。試験なら後で受けさせてもらえるし」
体調を気遣う黄泉路の言葉に、彩華は自身がそんな風に分かりやすい態度だっただろうかと眉根を寄せる。
「何でもないわ」
「本当に?」
「……本当よ。ちょっと思ったように問題が解けなかっただけ」
じぃっと、まるで内面まで透かす様な、吸い込まれそうなほどに黒い黄泉路の瞳に後ろめたいものを感じるものの、嘘は言っていないと本心を塗り隠した声音で彩華が応じれば、ひとまず追求すべきではないと判断したらしい黄泉路がふと、話題を変えるように表情を和らげる。
「ああそうだ、彩華ちゃん。試験が全部終わったらまたお邪魔してもいい?」
「? 試験勉強は終わりでしょう?」
当初の彩華からすればありえないくらいにすんなりと受け入れた提案である。
「それはそうなんだけどさ。問題用紙はもらえるみたいだし、後でお互いに答え合わせしたいなって。ダメかな?」
「……いいけど」
だが、回答に不安があると取れるような発言をしてしまった手前、そう言われてしまえば彩華としては断りづらい。
加えて、体育館での事故の一件以降は勉強会をお互いの家でしていた事や、話題を変えた黄泉路の配慮への引け目から彩華は了承を返すのだった。
「それじゃ、試験の続きも頑張ろうね」
最終調整に入ろうと、自身の席で参考書を広げた黄泉路が気遣いつつも励ます様な調子で微笑めば、心配されているというのが手に取るようにわかった彩華はふんと鼻を鳴らして強気の姿勢を示すように不敵に笑う。
「なんなら点数で勝負してもいいわよ?」
「いいね。勝ったらどうしようか」
「……ベターだけれど、願い事ひとつでどうかしら」
黄泉路と彩華の気安い会話は大きな声ではないものの、普段から何かと注目される両者であるためにクラスメイトからの関心は高い。
向けられる視線はここ数日増えた気安い会話への慣れや、彩華の態度の軟化に対する感慨染みた物――
「あはは。わかった。願い事考えておくよ」
「勝てる前提なのが腹立つわね」
深く濁った偏執が混じっていた。