6-22 迎坂黄泉路という少年
体育館裏を後にした黄泉路は校舎に入ると、保健室を目指す。
時間的にも放課後、しかもやや遅い時間であるため部活の片づけが終わった生徒が僅かに残るばかりである。
当然廊下ですれ違う可能性も低く、黄泉路は誰とも遭遇することなくほんの数分足らずで保健室の扉の前へと到着していた。
「失礼します」
声をかけて入室すると、保健室特有の薬品と消毒剤の匂いが鼻につく。
だが、黄泉路がそれに何かを思うよりも早く、駆け寄ってくる影があった。
白衣を身にまとったそろそろ40代に届くかというほどの女性の対面の診察用の丸イスに腰掛けていた女子生徒――高桐だ。
「黄泉路くん!!! 大丈夫? ちゃんと歩ける!?」
「あはは……大丈夫だよ」
高桐と黄泉路のやり取りに割って入るように、しっかりとした作りのイスに腰掛け白衣を身にまとった女性――千草が声をかける。
「ほら高桐。迎坂君が歩きづらいだろう。心配ならこっちに連れて来なさい」
そろそろ40代にさしかかるかという具合の年齢だが、明るめの髪色と柔らかくカールの加えられたボブカットのお陰で若々しい印象があり、目だった皺が少ない所為か見ようによっては30代の前半にも見える。
全体をして清潔感がある小奇麗な印象を持てる養護教諭の窘める様な指摘に、それもそうだと自身の行動を省みた高桐がばっと黄泉路から一歩引く。
「あ、は、はい! すみません!!」
どうやら、つい先ほどまで泣いていた様子の高桐の頭をぽんと撫でて苦笑を浮かべる。心配させてしまったのは確かな事であるため、さすがに非があるとはいえこれくらいはいいだろうという黄泉路の気配りであった。
涙によって赤らんで腫れた目元とは別の熱が顔に集まったまま放心している高桐の脇をすり抜け、先ほどまで高桐が座っていて温度が残る革張りの丸イスへと腰掛ければ千草が黄泉路の頭を寄せるように覗き込み、
「……聞いてたよりは大きな怪我じゃないね。軽く切れてるだけみたいだから、消毒してガーゼで包んでおけば問題ない。ただ、頭を打ったという話だから、後で脳神経外科に行くように。なんならCT撮っとけばなおよしだ」
「はい。わかりました」
「本当になんでもないんですか……?」
「ああ。頭の傷っていうのは派手に出血するものだからね。もしふらつくようなら怪しいが、こうしてしっかりしてる分には貧血の心配もない」
太鼓判を押しつつてきぱきと――高桐から聞いて準備していたのだろう――消毒液をしみこませたガーゼで血をふき取り、ガーゼを噛ませた包帯を巻いてゆく。
「ちなみに何て聞いてます?」
「ん? ああ。迎坂が崩れてきた瓦礫で怪我したから見てくれとしか聞いてない。何があったんだ?」
「忘れ物をとりに戻ろうとして、途中で体育館の脇を通りかかったタイミングで崩れてきたんですよ」
「そりゃあ運が悪かったね」
「ええ。不運な事故でした」
額をぐるりと軽く包帯で巻かれた黄泉路が鏡に映った自身の見た目が重大に見えてしまう事に小さく笑みを漏らせば、ようやく高桐も安心したようすで息を吐いた。
「さて、高桐も落ち着いただろうからそろそろ帰りなさい。迎坂君は養護教諭として話を聞かなければならないから残るように」
包帯の残りや消毒液の入った容器を箱へと収めながら千草が解散を宣言すれば、高桐は一瞬だけ黄泉路のほうへと視線を向ける。
「ほら、僕はこの通り大丈夫だからさ。そろそろ暗くなるし、女の子なんだから早く帰ったほうが良いよ」
何でもないと示す様に席を立って高桐の荷物を手に保健室の外まで付き添う黄泉路に、高桐は罪悪感と淡い期待の入り混じった目を向け、
「あ、あの……黄泉路くん」
「今日の事はただの事故。怪我した僕を見かけて高桐さんが千草先生に連絡してくれた。それだけだよ」
「……うん。……また、明日ね?」
「うん。また明日」
気付いた黄泉路が苦笑しつつ窘めるように首を振れば、諦めて千草と黄泉路に一礼して保健室を去っていった。
高桐が遠ざかる足音が遠く、小さくなり、保健室の中を壁掛けの時計が秒針を刻む規則正しい音が満たしてゆく。
ややあって、室内を一瞥した黄泉路が口を開く。
「それで、お願いした調べモノはどうなりましたか?」
「……終わっています」
しんと静まり返った室内の静寂を破って交わされる会話は先ほどまでと打って変わった淡々としたものだ。
特に顕著なのが、養護教諭として黄泉路の対面に座っているはずの千草である。
教師と生徒、ではない。別の何かを表す態度で促す千草に、黄泉路は苦笑して応える。
「普段どおりに接してくださいよ」
「いえ。私みたいな末端の依頼のヘルプにあの不死身と名高い【黄泉渡】さんが入ってくれるとは思っていなかったものですから」
「あの、って……僕なんてまだまだ至らないところだらけですよ。それに、今回は僕が条件的にあっていただけ、でしょう?」
「それはそうなんですが、やはり萎縮してしまいますね」
「僕は僕で、6年振りの学園生活を満喫してますから、普通に学生として扱ってください」
交わされる会話から伝わるのは、千草の黄泉路に対する態度はまるで部下と上司のそれである。
実際、立場の上下はないに等しいのだが、それでも千草は黄泉路を下に置くのを良しとしないらしい。これも、黄泉路がこの学校に編入してきてから頻繁にあったやりとりの一幕であった。
もはやお約束に近いやり取りを終えた両者の間に沈黙が降り、どちらからともなく、視線が千草の持つ鞄へと落ちる。
「……こちらが調査結果の報告書になります」
黄泉路の視線に応じるように、千草は鞄から先ほどのものとは別の書類を手渡すのだった。