6-20 アナザースクールライフ
私立嶺ヶ崎学園の体育館は敷地の中でも端の方にあり、その背面と側面が学園の塀に隣接している。
彩華が呼び出され、縁が崩落するという事故が起き、黄泉路が飛び込んで事なきを得た一連の流れを、もう一面の体育館裏とも呼べる場所から覗いていた者が居た。
黄泉路が飛び出したのを確認した段階で既にこの場に用はないとばかりに塀を飛び越え、何食わぬ顔で帰路に着いたその人物はそれなりに早いペースで商店街を抜けて駅へと向かっていた。
改札を抜けて駅構内に備え付けられたトイレの男性用個室に入り、鍵をかけたところで堪えていたものが限界へと達したらしく、青年が大きく足を踏み鳴らす。
「――く、っ、そ!! くそっ、くそっ、くそぉ!!」
同時に口から吐き出されるのは憤懣に満ちた悪態だ。
後先考えずに踏み鳴らした足がタイルと靴とで乾いた音を響かせ、痺れにも似た鈍い痛みが足の裏から這い上がる。
その痛みすら自分ではなく、憎悪の対象が悪いとでもいう様に同じ単語を何度も繰り返すが、再び足を踏み鳴らさない事から多少の理性は残されているらしい。
むしろ、怒りに任せて行動してもそこまで止まり、という辺りで、この人物が小物であることの証左であるが、それを自覚できる人間であればまずこんな所で油を売っている事もなければ、この様な事態にまで発展することもなかっただろう。
「……はぁ、はぁ、はぁ。ちくしょう。主人公気取りかよ。マジでなんなんだよアイツ……ッ!」
肺が悲鳴を上げ、肉体的に息が続かなくなった事で吐き出される息は弱々しい。
耳に入る自身の声が忌々しい記憶を脳裏にフラッシュバックさせ、無意識に噛み締めた奥歯が軋む音が口の中で響く。
ここまで休憩無しで着たため、夏へ向かう熱気とあわせて汗が髪の間を伝って額に滲むのが鬱陶しく、制服の袖で雑に拭って荒い息を整えようと洋式の便座に腰を下ろした。
「はぁ……くそ……なんでいつも俺ばっかり……」
吐き出されたのは弱音とも恨みともつかないくぐもった声だ。
全て、全て。あの編入生が現れてからだ。と、小太りの青年――小室俊輔は述懐する。
「ほんとなら俺が彩華を助けるはずだったのに。俺が彩華の隣にいるはずなのに。俺が……」
頭を抱え、耳を塞ぎ、腿の上に肘を立てるようにして座った姿勢で蹲る小室の声が個室に、骨を伝って自身の耳へと舞い戻り、内心をぐるぐると駆け巡る。
小室があの場に居たのは偶然ではない。
あの場というのは当然、体育館――ではなく。
休日の、彩華の家に近い公園で、黄泉路と鉢合わせたことだ。
かねてより戦場彩華へと想いを寄せていた小室だが、それを知るものは居ない。
何故ならば、小室という人間は学校こそ同じであったものの、近辺に住んでいる学生が多い中、遠方から駅で通学している生徒であり、その性格も相まって交友関係がさほど広くないからだ。
加えて、小室自身はアピールしているつもりだが、その実、表に現れているのは頻繁に視線を送る程度で、彩華という特殊な生徒へと向ける態度は周囲の生徒と大差ない。
意中の相手に話しかけることも出来ない奥手。悪く言えばヘタレが、小室という男であった。
その小室が何故彩華の自宅周辺――自分の生活圏から離れた場所に居たのか。その理由はやはり、編入生である黄泉路の存在にあった。
事件の後から態度が頑なになり、周囲で不穏な噂が立つようになった彩華へと思いを寄せる人間は多くない。小室自身、そうした競争率の低さを自身への言い訳にしていた節は心当たりがある。
だが、そこへ現れた黄泉路は噂も本人の態度にも臆することなく彩華へと近づき、どういう訳か彩華の懐へもぐりこんでしまった。
彩華を愛してるのは自分だけ、そう言い聞かせてきた4年越しの片思いを続ける小室としては気が気ではなかったのは当然といえる。
ようやく本人に対して真っ向から話をしようと思い至ったものの、学校では黄泉路は常に人に囲まれ、その黄泉路が近くに居ることで彩華の周囲にも人が居る状況で話をする勇気などない小室である。
本人は至極真っ当な思考のつもりで彩華の家の周辺を歩き回り、偶然を装って休日の彩華にあえないかという行き当たりばったりの計画を実行していたのだ。
「……あー。くっそ、やっぱりアイツの所為だ」
結果から言えば、小室は彩華に話しかけることは出来なかった。
小室が彩華を発見したときには、既に近くには黄泉路がおり、その隣には見たこともない――おそらくは中学生だろう美少女まで一緒に居た所で、小室の計画は見事に頓挫してしまっていた。
手ぶらで帰ることも気が進まず、ストーカー紛いに彩華が黄泉路達を自宅へと招く姿を遠くから目撃した小室はこれからどうするべきかと失意のまま公園に……そして、黄泉路とばったり出くわしてしまうというミスを犯してそそくさと撤退したのだった。
「アイツさえ居なければ……アイツさえ……アイツさえ……ッ!!」
思えば今日のことも、おいしいところは黄泉路が全てかっさらってしまっていた。
彩華が黄泉路を家に招いたという話を、黄泉路の事を頻繁に話していて、それでいてガラの悪い女子の机にそっとメモ書きで忍ばせて彩華を呼び出させ、困っている彩華の前に颯爽と現れて助ける。
言葉にすればいかに穴だらけな計画であるかというのは分かろうものだが、小室はこれが完璧な計画であると疑わず、この1週間ほど、条件に合致する女子を物色していた。
そうして、奇跡的なバランスで成り立った計画が実行された小室はそっと先回りをして様子を窺っていた。
だが、結果は散々たるものであった。
彩華が能力を使い、瓦礫が宙から降り始めた瞬間。それは小室にとっては願ってもないチャンスであったはずだが、その瞬間を得たのは憎きライバル。
「邪魔ばっかりしやがって!!!」
ふつふつと再び湧き上がってくる激情に任せて個室の壁をたたけば、薄い壁板が大きな音を立てる。
その反動で痺れを訴える拳すらも全て、世の理不尽のように感じてしまう。
今でもなお、自分ならばという思いが強いが、実際に黄泉路が現れなかったところで小室が飛び出せたかどうかは怪しいものだ。
実際、あの瞬間に思考が固まっていたのは小室も同じであり、今小室が抱いているのはただの結果論である。
「……はぁ。まぁ、アイツがあれで大怪我したのは見れたし、ちょっとすっとしたな」
黄泉路がバカ女を庇い、その額に大きな怪我を負った事を思い出してくつくつと忍ばせた笑いを上げていると、
「おい! さっきからうるせぇんだよクズ!! とっとと出てこいよ子豚ァ!」
「っ!?」
ガンッ、と。扉を外から足蹴にする音と共に罵声が響く。
小室にとっては聞き慣れた――そして、最も聞きたくなかった声に小室はビクッと肩を跳ねさせた。