6-5 私立嶺ヶ崎学園3
授業が始まってしまえばさすがに私語は慎むらしく、真面目に黒板と教科書へと視線を動かしてはノートに書き込む黄泉路を横目に、彩華は内心でそっと息を吐く。
教室の雰囲気にあわせて視線を黒板へと戻せば、新学期ということもあって昨年度の軽いおさらいが終わり、新しい学習範囲に入るところであった。
彩華は自慢ではないが、自分の成績を悪いものだとは思っていない。むしろ、昨年度でいえば上から数えたほうが圧倒的に早いと自負している。
というのも、単に彩華が勉学に秀でているというよりは、彩華が自身の置いている状況に対する必然的な要因が強い。
教室内に満ちる、黒板へと記入される淡々とした音と、教科書を読み上げる教師の平坦な言葉。
休み時間の騒がしさが嘘のような環境が心地よく、彩華は静かにノートに筆を動かし、教科書のページをめくる。
まだ前のページに用があるならば困った顔のひとつでも拝めるかと、隣に座った転校生へと目を向けてみれば、ノートの内容が自身のそれよりも丁寧かつ早いことに僅かに目を瞠る。
何故だか負けた気になって、彩華はすぐさま黒板へと目を向け、新たに書き込まれた問題をノートに写し込んで回答を書き入れ、気がつけば、ここ数年これだけ集中して授業を受けたことがあっただろうかというほどにのめり込んでしまっていた。
それに気がついたのは、教室の天井端に備え付けられたスピーカーからチャイムの電子音が鳴り、教師の動かすチョークの音が止まった時であった。
「今日はここまで。次は今回やった事を前提に少し応用をかけていくから、各自復習しておくように」
「起立、礼、着席」
日直の掛け声で立ち上がり、形式どおりの習慣として根付いた挨拶を教師へと向ける。
授業が終わってしまえばもはや机をつなげておく意味も、教科書を貸し出す意味もないとばかりに片づけを始めた彩華の態度を読んでか、黄泉路がすっと机を離してからノートを整理しはじめれば、休み時間が来るのを待ち望んでいたらしきクラスメイトたちがわっと押し寄せてくる。
「授業どうだった? やっぱり都会と違う?」
「うーん、どうかな。今日はまだ1年の復習だよね?」
「ばかねー。そんなにすぐにわかるわけないじゃない」
「でも、黄泉路くんすごいよねー」
「うん? 何が?」
「だって、あの戦場さんに声かけるんだもん。私びっくりしちゃったー」
「えーっと……?」
席を立つこともままならないままに笑みを浮かべて雑談に興じ始めた黄泉路を一瞥し、なぜ自分がそれほど編入生を気にかけなければならないのかと目を伏せ、そのまま机に突っ伏した彩華は不意に自分の名前が話題に上っている事に気づく。
何となしに意識だけを傾けた彩華の耳に入るのは、クラスメイトの下世話な会話だ。
「ちょっと、そういうのやめようよ。ほら、近いしさ……」
「でも噂くらいもう聞こえてるだろうし、こういうの、知っとくなら早めの方がクラスに馴染みやすいとおもうしー」
「それは、そうだけどさぁ……」
「あの、何の話?」
戸惑う黄泉路の声を他所に、ちらりと、女子の視線の一部が自身のほうへ向けられるのを感じた彩華は顔を伏せたまま素知らぬ顔を貫き通す。
人を無遠慮に探るような厭らしい視線にも慣れたもので、独特の、首筋に残るチリチリとした粘り気のような感触を無視していれば、女子は彩華が自身たちに興味がないのだろうと判断して言葉を続けた。
「――戦場さんね。中学の頃、強盗殺人で家族を亡くして以来、ずっとああなのよ」
「それは、大変だね……でも、ああって?」
「黄泉路くん、すごく良い人か鈍い? ほら、ずっと、周りのみんなを敵みたいに壁作って、ね」
「ふぅん……そうなんだ」
「犯人見つかってないから、荒むのもわかるんだけどね」
「それだけじゃないっしょー。戦場さんの近く居ると、怪我が増えるって噂」
「ちょっとやめてよー。そんな噂嘘に決まってるじゃない」
すぐ隣に居る人物の陰口を叩くと言う非常識に難色を示すものの、その声はどちらかといえば、件の噂を多少なりとも知っているが故の願望的な否定の割合が高いような調子であった。
それを理解しているのだろう、噂について積極的に口にしたがっている女子生徒はあえて無視するようにして黄泉路に聞かせるべく口を開く。
「えー。でも私去年クラス一緒だった子が中3の時戦場さんと一緒のクラスで怪我する子が多かったって言ってたよ?」
「そんなのただの偶然に決まってるじゃない。大怪我とかじゃないんでしょ?」
「それは……ちょっとした切り傷とかばっかりだったらしいけどー……でも、私はガチだと思ってるから、黄泉路くんも気をつけたほうがいいよ!」
聞き流す耳にいやでも入ってくる言葉の刃。それらを受け止め、彩華は内側で湧き上がる冷たい苛立ちが研ぎ澄まされてゆくのを感じ、唇を噛んだ。
「あはは。気にしすぎだよ。――ッ。……それに、僕は戦場さんがそんなに怖い人には思えないな」
「ううー。黄泉路くんが良い子過ぎて不安になるー」
「わかるー、ちょっと保護欲っていうかー、母性本能くすぐるっていうかー」
「だよねー」
黄泉路のやんわりとしつつも明確な否定の言葉に、どうやらこの話題は気に召さないらしいと女子生徒は揃って話題を変え、そのまま話が明後日の方向へと流れてゆく。
完全に自分の話題から関係ない方向へと飛躍したらしい会話から彩華は今度こそ意識をシャットアウトする。
いつも通りに騒音を聞き流すことに徹するつもりであったが、隣の席を中心に繰り広げられる賑やかな会話の所為で心を休める所ではなく、彩華が安息を得られたのはチャイムが鳴って各々が席へと戻り始めた頃になってからであった。
「……はぁ」
「ごめんね。隣、うるさかったでしょ?」
「……」
結局、自分とは反対側の席に位置する横山に教科書を見せてもらうことはしないらしいと、噂を聞かされたにも関わらず性懲りもなく机を寄せてくる黄泉路の笑顔にため息をつき、彩華は静かに教科書を取り出すのだった。