6-3 私立嶺ヶ崎学園
空気が暖かな日差しによって爽やかな熱を帯び、風に微かな花の香りが混じる季節。
例年よりも比較的気温が高い事もあって、シンボルツリーとして植えられたハナミズキが薄ピンク色の花弁を纏って揺れる。
まだ午前、それも9時をやや過ぎたあたりという頃ではあるが、辺りに人影はない。
人がまったくいないというのではない。なんのことはなく、今この場にいるべき人間の大半が一箇所に集められているからであった。
「――以上で、学園理事長の講話を終わります」
壇上で原稿を読み上げていた白髪の目立つ老齢の男性が一礼し、年の割にはぴんと張った背筋を伸ばしたまま脇へと歩いてゆく。
その後を追うように起こる拍手の数は多いがその質は低く、個々の雑な拍手が集まって大合奏を形成したものだ。
中高一貫の進学校、嶺ヶ崎学園の講堂としても利用される校舎に併設された体育館にて新年度の挨拶が終わるところであった。
式が終わればクラスごとにぞろぞろと校舎へと。学年もあがって新しくなった自身の教室へと足を向ける。
流れてゆく人の波の中、少女のため息は群衆の雑踏に溶けて消えた。
◆◇◆
少女――戦場彩華は最後列窓際、教室の端にある自身の席で机に頬杖をついて窓の外へと視線を向けていた。
ブレザーの肩に乗って前方へと下ろされたセミロングのやや明るめな黒髪は差し込んだ日光によって艶やかに光沢を見せ、それと同色の瞳は無感動に外の景色――中等部の校舎と、中で行きかう後輩たちを捉えている。
だが、その表情は感情が乏しく、元の清楚な印象の顔立ちには影が帯びているようで、どこか不安定さとも呼べる雰囲気をかもし出していた。
印象のアンバランスさがあってなお彩華の容姿は人目を惹くものではあるが、物憂げにひとり、喧騒の中にある教室の端のほうで微動だにしない姿には他者が声をかける事を躊躇われるものがあった。
まるで戦場彩華という存在はこの教室に存在しないのだと言わんばかりの空気の中、不意に彩華が壁掛け時計へと目を向けるべく視線を教室内へと移す。
――しん。
と、その所作だけで、まるで空気が凍りついたように個々の雑談で形成されたざわめきがボリュームを絞られたような錯覚。
息を呑むような小さな気配すら、たどろうと思えばたどれてしまうのではないか。そんな錯覚の中、彩華の目は目的のもの――時計へと向けられ、その視線の向かう先を理解したことで教室内のざわめきが再び音を取り戻したように大きくなる。
彩華が確認した時刻は9時30分を指す所で、そろそろ担任が入ってきてもいいはずの時間であった。
しかし、教室の両端の扉は開く気配はなく、仕方なしに視線を再び窓へと戻そうとしたところで、不意に彩華の視線が一瞬だけ、教室の入り口近くの席で止まる。
目が合った男子生徒がハッとなったように顔を背ければ、彩華は興味を失ったように再び窓に顔を向け、何を見るでもなく頬杖をついた。
彩華の意識が再び外へと向けられた事を察すれば、教室内は再び喧騒を取り戻す。
なんでもない、ただの日常。
それは戦場彩華にとってもそうであったし、クラスの――ひいては、嶺ヶ崎学園においても、極々当たり前の日常の光景であった。
やがて、時刻が40分を回ろうかという頃になって、ようやく担任が姿を現したことで各々が席へとつき、教室内の喧騒が大人しくなった。
新年度にあたっての諸連絡や、喫緊の行事予定等、当たり障りのない話をする担任が、最後に言葉を区切って自身が入ってきた扉のほうへと目を向ける。
何事かと、生徒たちも釣られて目をむけ――生徒が抑えていたざわめきが堰を切ったようにあふれ出す。
生徒たちの視線を一心に集め、少年が教壇の前を歩く。
やがて歩みは担任の隣で止まり、少年の体は生徒たちが腰掛ける机が並ぶ方へと向いた。
「本年度からこのクラスで皆の仲間になる編入生だ」
担任が生徒のざわめきを断ち切るようにきもち大きめに張って声を上げれば、あわせるように少年が小さく頭を下げる。
「一身上の都合で東都から引っ越してきたばかりだそうだ。不慣れなことも多いだろうから、皆、気を配ってやってくれ」
肩に担任の手が置かれれば、少年は居並ぶ生徒たちへと向けていた視線をそのままに、照れか苦笑か、どちらともつかない曖昧な微笑みを浮かべる。
夜空を思わせるような黒髪がさらさらと揺れる。同色の愛嬌を感じさせる瞳は興味深そうに教室を見渡しており、全体的に小柄で、目元を隠しがちな童顔もあいまって、高校2年生というにはやや幼い印象であった。
都市部とはいえ片田舎、そうそう大きなイベントやニュースもない安定した、悪く言えば停滞した世界に突然現れた編入生にざわめく生徒たちの中、彩華だけは冷めた目でその少年を見ていた。
一瞥も終え、元からなかった興味も尽きた事で再び視線を窓の外へと戻そうとした彩華と、クラスを見渡していた少年の目が合った瞬間、僅かにその目が細められたような気がして、視線を外すタイミングを逃してしまった彩華をよそに、担任に促された少年が自己紹介をするべく口を開く。
「ご紹介に預かりました。迎坂黄泉路です。皆さんと学園生活を送れることを楽しみにしています」
少年の口から飛び出したのは、外見に違わない声音とは裏腹な、どこか成熟したような大人びた口調だった。
教室内は先ほどまでとは別種のざわめきが収まるまでの間、終始微笑を浮かべたままの少年に、彩華は今度こそ視線を窓の外に投げる。
そこには、誰であっても関係がない、興味がないという、明確な拒絶の意思が聳えていた。
「じゃあ迎坂、席はわかるな?」
「はい、ありがとうございます」
編入生に対する質疑応答、とは聞こえがいいものの、内実はただの質問攻めを強引に打ち切った担任の言葉で彩華はようやく静かになるかと内心でそっと息を吐いて視線を教室内へと戻し、
「これからよろしくね」
隣から聞こえてきた黄泉路の声に、しばし固まることになるのだった。