5-34 ハートフル21
手に確かな感触を返す黒塗りの凶器を握りしめ、黄泉路は自信の目論見、賭けが成功したことを表情には出さずに安堵していた。
「さて、もう、隠し弾はないよね?」
そう、黄泉路があえて心蝕者を挑発するような言葉を吐いたのも、人質を無視するように近づいたのも、全ては憶測からの賭けだった。
はじめに違和感を覚えたのは、心蝕者の銃の使い方だった。
人質を使い捨てるつもりならば最初から人質と共に美花を脅迫しに入ればいい。抵抗するなら一人二人撃ち殺しても見せしめにはなってもアドバンテージの損失はさほどではないはずだが、黄泉路が部屋に飛び込み、美花を机裏へと避難させる間に確認できた弾痕と銃声は美花に命中してしまった一つ限りであった。
この時点で心蝕者は人を撃つ覚悟がないのではないかという仮説が頭の片隅によぎっていた。だが、それはあくまで希望的な仮説でしかない為、どうしても意識を子供にではなく、黄泉路自身に向けさせる必要があった。
次いで、黄泉路がハッタリを仕掛けるに踏み切った最たる理由、それは心蝕者が黄泉路に対して最初に言い放った言葉であった。
『どうやって俺っちの能力を回避したのか気になるしな』
黄泉路は確かに、つい先ほどまで心蝕者の能力によって囚われていた。
だが、その事実をまるで認識していないかのような心蝕者自身の言葉で、ひょっとしたら心蝕者の能力【傷心】は、細かい制御ができないのではないかと黄泉路は思ったのだ。
精神を疲弊させ対象を支配するという触れ込みの能力であっても、相手の心まで読めるわけではないのならば、虚勢を張る意味もあると考え、見事、黄泉路の策は的中した。
普段から銃に頼っていないことも、言動を見ればよくわかる。その程度には、黄泉路は銃器の前に立つ経験が多かった事も幸いしていた。
「ぐ――この……」
「往生際が悪いな」
手の中で暴れようともがく銃を握ったまま、体勢を崩すように心蝕者を引き寄せる。
ふわりと片足が浮くようなひ弱さでもって引き寄せられた心蝕者に足を引っ掛けて床に引き倒せば、ピンク色のフレームの伊達眼鏡がカランと床に転げ、ヘッドフォンが揺れた。
手加減なく転ばされ、痛みに呻く心蝕者の上に跨りながら黄泉路は告げる。
「これで詰み。ですよね?」
まだ策はありますか、とでも、尋ねるように。淡々と何の気なしに告げられた声に、心蝕者は引き倒された時の衝撃から立ち直り、痛みに対する苛立ちを隠しもせず、しかし、どこか軽薄な調子を崩さぬままに口を開く。
「はっ。銃なんかただの飾りさ。どうやって逃げたかは知らねぇけどな……俺っちにはまだこれがある!」
「っ!」
するりと伸ばされた手が蛇のように、黄泉路の袖の中、素肌の腕を掴む。
途端に、皮膚の外から浸透するような不快感に襲われ、黄泉路の上半身がぐらりと揺れる。
「はっはっはっ、やっぱり俺っちの【傷心】は最強だ!! 触れちまえばこっちのもんだからなぁ!!!」
勝ち誇ったように、意趣返しをしようと掴んだままの黄泉路の腕を引き、床に倒そうとした心蝕者の耳に、ヘッドフォンから漏れる音楽以外の音が混ざる。
「――い」
腕を、引いた。そのはずだった。
しかし自身の上を占有したままの黄泉路が倒れないことに、心蝕者の内心で疑念が湧き上がる。
「……あ?」
聞き違いかと思ったその音は、心蝕者と黄泉路の目が合った瞬間、事実だった事を理解させられる。
「僕は、ここで止まれない」
「――う、そだ、何だよ、何なんだよちくしょう!! 俺は確かに触ってる、能力だって使ってる!! 何でだよ、意味わかんねぇよ!!!」
「少しずつ……貴方の能力がわかってきたよ」
「何でだ、どうしてだ!? 何でお前は俺っちに支配されねぇ!!」
混乱したように、何度も触る場所を変え、終いには首に掴みかからんとする心蝕者に対し、黄泉路は顔を近づけて淡々と囁く。
「貴方の能力は、触ることで相手を操る――精神支配の能力。だけど、操るまでには手順が要る。相手が反抗できないように、精神的に追い詰める必要が」
「だからなんだってんだ!! 俺っちの能力は完璧のはずだ! 何でかからねぇんだ意味わかんねぇよ畜生!!」
「貴方はいつだってそうやって、外側から相手の恐怖心を煽るだけで、その内容を選ぼうとしない。相手を理解しようとしない」
「あぁ!?」
訳がわからない。心蝕者の顔にはそうありありと書いてあるようで、黄泉路は嘆息する。
事実、心蝕者は能力に目覚めて以降、他人などいつでも支配できる木偶候補か、自分に都合のいい駒程度にしか考えたことはなかった。
自分に忠実で、自分のためだけに存在する人形。それらに囲まれ育った心蝕者にとって、思い通りに行かない事などあってはならない事だったのだ。
「……貴方は卑怯者だ。だからこんな簡単なことも判らない。心を操る能力を持っていても、他人の心に触れようとしない貴方には――」
「何だと!?」
黄泉路の言葉を理解するだけの素地のない心蝕者であったが、それでも、悪感情という点についてだけは人並以上に敏感であった。
憐れむようですらある黄泉路の言葉を、嘲りと受け取った心蝕者が噛み付こうともがく。
「僕の中の恐怖はもう捻じ伏せた。だから、もう勝負はついてる」
「っ!?」
「子供達の洗脳を解いてくれるかな。それとも、強制が必要?」
「……うるせぇ、うるせぇうるせぇうるせぇ!!! 俺っちは――俺っちが!! 俺っちが一番偉いんだ!!! 指図してんじゃねぇよ見下してんじゃねぇ!! お前のその目がすっげぇムカつくんだよ! さっさと俺っちの駒になれよクズがッ!!! 上から目線で説教垂れてんじゃねぇよ!! さっきまで獣相手にビクビクしてたクソガキの分際でよぉ!!!」
精神的に追い詰められることのなかった心蝕者にとって、既に現在の状況は限界を超えてしまっていた。
自身の状況も、戦況が既に行き着くところまで終わってしまっているにも関わらず、ただ闇雲に暴言を吐き散らして暴れる。今まではそれで全て何とかなってしまったが故に、その行為でしか自身のストレスを吐き出すことが出来なかったのだ。
ひとしきり騒ぎ、暴れ、それでも黄泉路の拘束から抜け出すことの叶わなかった心蝕者が息を乱している様子をじっと見下ろしながら、黄泉路はいっそ冷淡なまでに静かな命令を口にする。
「これから、少しだけ八つ当たりします。口、閉じないと舌噛むよ」
心蝕者が反応しようとした瞬間、黄泉路の握り締められた拳が横合いから心蝕者の頬に突き刺さった。