5-32 ハートフル19
赤い塵が舞う。
その度に、どん、という力強い足音が響き、幅跳びの様な歩幅で白い回廊を少年が疾駆する。
あまりにも早く、駆けている当人ですら身に覚えがない程の力強さに戸惑うものの、現時点で速く動けることにはメリットしかない事から少年――黄泉路は深く考えることをひとまず思考の隅へと押しやって研究所の廊下をひた走っていた。
経路は既に頭の中に入っており、駆ける足に迷いはない。
幾度目かの角を曲がり、最後の直線に入ったところで、それは黄泉路の目に留まった。
「――ッ。 (こども……!)」
慌てて、慣性によって空回ろうとしていた足に制動をかけて勢いを殺す。
今更忍ぶもなにもない様に思われたが、しかし、それは洗脳を使う能力者がその場に居ればこそ。
廊下、それも美花が身を潜めている目的地の扉の脇で直立不動に中空を見つめる幼い男の子と女の子の姿だけであるならば、様子を見るべく立ち止まるというのは選択肢としては間違いではない。
「(画面には、あと4人居たはず……あの人と一緒に既に中に? ――美花さんは? 無事なのか?)」
咄嗟に曲がり角まで引き返して身を隠し、部屋の扉をはさむようにして立つ少年少女の様子を窺う。
子供達の様子は明らかに尋常ではない。遠目からでは呼吸をしているのかすらも疑わしく思えるほどに直立不動で、糸の張り詰めた操り人形のようであった。
明らかに洗脳されている。そう確信し、心蝕者と他の被洗脳者は既に中に入っているらしいと仮定した黄泉路は、少しでも洗脳された子供達の様子を観察して役に立つ情報はないかと目を凝らす。
耳を澄ませば部屋の中から戦闘音らしき物音が断続的に響いていることも聞き取ることができ、その音が響いている間はまず間違いなく美花は無事であるという確証が黄泉路をより冷静に、慎重にさせていた。
断続的に続く音が途切れた事で、何も案が浮かばずとも行動を起こすべきかと黄泉路が重心を移した時だった。
部屋の中から再び何かが落ちるような鈍い音が響き、直立不動だった扉前の少年と少女のうち、少女の方がふらりと何の予備動作もなく動き出した事で黄泉路の足が鈍る。
「(何が起きた? いや、そもそも、子供を外に控えさせた理由は何だ? ま、さか――ッ!!)」
まず思い至ったのは、子供は心蝕者から何らかの指示が得られなければ動かないということ。
これは実験区画での子供達の行動も観測室からモニター越しに見ていた心蝕者が指示を出していたのだとすれば納得がいく。
次いで黄泉路の頭に浮かんだのは、では何故今、外に待たせている子供が片方だけ入っていったのか。
中で不測の事態――この場合は心蝕者にとって不利な事態だ――が起きたからだろうと、確信はなくとも推察は出来た。
そして、最後に至った思考。心蝕者は何故、追加の手勢を必要としたのか。追加人員を何に使うつもりなのか。
最後の思考が纏まりきるよりも速く、黄泉路の足は思考を置き去りにして廊下を駆け、一足飛びに未だ少年が立ち尽くしたままの扉の前へと到る。
立ち呆けている少年がまさに視界には映っているはずの黄泉路を認識している様子はなかった。
その様子に、やはり洗脳された対象に主導性はなく、心蝕者が適時指示を出さねば無害であると確信するも、今はそれどころではないと思考に蓋をして扉を壊すつもりで足蹴にする。
――ガァンッ、という、重い響きと、キシリと蝶番が折れる音が混ざり合う。
蹴り飛ばした扉が中ほどで拉げ、室内へと向かって折れるように崩れる。
扉を蹴り飛ばした音に混ざって酷く聞き覚えのある不快な音と、焼け付くような匂いを感じ、黄泉路の背筋に冷たいものが流れた。
「――美花さん!!!」
扉という障害がへし折られ、あらわになった室内。
半ば背を向け、突如現れた黄泉路に対して首だけを驚愕の表情と共に向けた青年と、その青年の腕に抱かれ、微動だにしない検査衣の少女。
そして――火を噴いた形跡が如実に残る青年の手中の黒い筒と、驚いたような、泣きそうな表情のまま黄泉路を見つめるジャージ姿の女性の姿があった。
「よみ――じ」
わき腹あたりからあふれ出した液体によって黒ずんだジャージを隠すように、否、咄嗟に傷口を押さえた美花の口から、現れた少年の名が紡がれる。
「な――あぁっ!?」
ピンクのフレームが特徴的な眼鏡の奥で目を瞠る。というのも、青年、心蝕者自身、自らが発砲したという事実に今更気づいたというような様子で反動で痺れた自身の手と、突如現れた黄泉路に困惑していたからだ。
そんな隙だらけの心蝕者を突き飛ばし、黄泉路は美花へと駆け寄る。
美花の姿を目にし、その負傷に気づいてしまった今、敵を倒すことや子供を助けるといった思考は黄泉路の頭からすっぱりと欠落してしまっていた。
それは間違いなく愚行だっただろう。だが、それでも、黄泉路は美花のもとへと駆けつける。
「美花さん、美花さん!!!」
ぐらりと傾いだ美花の体をすんでのところで抱きとめた黄泉路が声を張る。
その声に引き戻されたように、美花はゆるりと眠たげな瞳を起こして黄泉路を見上げた。
「な、んで……?」
「喋らないで――いや、違う、えっと、そうじゃなくて……」
あったら真っ先に謝ろう。そう決めていたはずなのに。
いざ対面する度に間が悪く、謝罪をしようにも場違いな気がして。黄泉路は駆け込んできたときの勇ましさなどどこへいったのやら、いつもの調子で言葉を選び始めてしまう。
そんな様子に、最初こそ怯えたような、何かを探るような色を見せていた美花の表情が僅かに和らぐ。
「――美花さん。こんな時に言うことじゃ、ないかもしれませんが。……聞いてくれますか?」
「ん」
美花が腕の中で小さく頷く。姿勢を安定させるために身を屈め、座り込みながら美花を床に寝かせつつ、黄泉路は口を開いた。
「……美花さん。さっきは、いえ、あの時から。無神経な事ばかりしてて、ごめんなさい。カガリさんから聞きました。美花さんが自分の能力を、あまり見せたがらない事。信じてくれたのに、裏切るような真似をしてしまった事を……許してください」
「……」
許さなくても良い、とは、言えなかった。
黄泉路にとって美花は、夜鷹の面々は、すでに第二の家族といっても良いほどの大切な人であったから。
また見捨てられたくないという思いから、気づけば黄泉路はその言葉を選び取っていた。
そんな黄泉路の内心を察してか、美花はゆるりと、傷口を押さえていなかったほうの手を黄泉路の頭に乗せる。
「みか……さん?」
「いい。黄泉路も、私と同じ。これから信じてくれるなら、流す」
「ありがとう……ございます」
黄泉路が思わずなきそうな顔で笑えば、美花は出来の悪い弟のようだと苦笑を交えるも、腹部の傷の痛みに思わず顔をしかめるのだった。