5-26 ハートフル13
前後左右どころか上下の判別すら危うい闇の中。
霞に足をつけて歩いているような錯覚に陥りつつも、これが外へと続く道なのだと信じて歩き続ける黄泉路の足が、不意に別の音を奏でる。
「……あれ、服が」
自らが立てた足音に応じて視線をおろした黄泉路は自身の服装が検査衣から、見慣れた学生服へと変わっていた事に気がつく。
先ほどの足音も、どうやら素足から靴へと変化した事で発生したものだったらしいと理解してさらに一歩踏み込む。
すると、今度は靴の底を通して曖昧だった床が固定されたような感触へと変化する。
一歩進むたびに別の景色へと確定してゆく闇が晴れたころには、黄泉路は再び覚えのある場所に立っていた。
「趣味が、悪い」
思わずそう呟いたのも、黄泉路からしてみれば当然である。
何故なら、今まさに黄泉路が立っている場所こそ、初めての依頼として赴いた町。その依頼人の家の前だったのだから。
この後何が待ち受けるのか、先ほどの体験からするに碌なことはないと確信していた黄泉路の髪を、空から降りはじめた数多の雫が濡らす。
突如振り出した大雨にますます持って嫌な予感を募らせながらも、黄泉路は目の前の邸宅――朝軒家の門を開けた。
「――ああ。やっぱり、そういうこと」
門をくぐり、足早に入った庭から見える予想したとおりの邸宅の様子に、黄泉路は諦観と辟易が入り混じった息を零す。
窓は割れ、嵐のようにたたきつける雨がフローリングの床に吹き込んで水溜りを作った薄暗い屋内。
あの時同様靴を脱がずに踏み込めば、割れた窓ガラスの破片がシャリシャリと音を立てる。
迷い無く、しかし重い足取りで廊下へと向かった黄泉路は、雷鳴と共に照らされた壁にもたれかかり、自らの血に沈んだ老人の亡骸を目の当たりする。
それはあの日と変わらない。黄泉路が救えなかった結末の再生であった。
「……ごめんなさい」
二階へと向かう傍ら、一瞬だけ立ち止まってそう口の中で呟いた黄泉路は階段に足をかける。
これは幻だ。そう確信しているからこそ、黄泉路はここで立ち止まる事が、かえってこの老人の本物――朝軒巌夫に失礼だと感じたからだ。
階段を上り、もはや見慣れた、しかしだからこそ、あえてこの光景を選んだのだとしたら趣味が悪いと言わざるを得ない廊下を歩く。
散乱したインテリアの破片を踏み越えて。これでもかと荒らされた、扉だったものの残骸の先に見える室内を一瞥しながらも、黄泉路は一切立ち止まることなく目的地へと向かう。
荒らされた物置があった。壊された客間があった。今にも床が抜け落ちそうな無人の寝室があった。――見覚えのある老婆が、首を曲げてベッドに横たわったままの寝室があった。
「……」
幻だ。そう再度、自身に言い聞かせる黄泉路であったが、無意識のうちにかみ締めた歯がぎりっと軋む音を立てる。
一瞬だけ足を止め、朝軒妙恵の幻影に心の中で、巌夫にしたときと同じように謝罪を呟いて、黄泉路は目的地、おそらくこの場所で言う目的地ならばここしかないだろうという場所を目指す。
どこよりも強く壊された形跡のある扉の前。
朝軒廻が自室としていた部屋の前までくると、今までと違う様子が一目で見て取れた。
「――ずいぶんと、端折ったものだね」
扉としての機能を成さず、ただの穴、通路と化してしまった部屋の入り口から見える室内。
壊れた壁面から降り注ぐ豪雨を身に受けて、全身を返り血と雨水に濡らした大男が、小柄な少年の首を掴んでいる所であった。
か細い首を掴んだ大きな手は、少し力を入れるだけで容易くその首をへし折ってしまうだろう。
だが、それは叶わない。実際には、そんな事は起こっていないのだから。
「確かに、この光景は僕が一番ならないでほしいと思った光景だ。……だけど、すでにこれは破綻してる」
破綻している以上、怖くはない。
そう続けようとした黄泉路の声をさえぎるように、別の音が室内から差し込まれる。
「――ずいぶんと冷静だなァ? 終わッちまッた事には興味ねェッてか?」
「!?」
「おーおー。驚いた顔してんなァ? 喋ッたのがそんなに意外か?」
「な、ん……っ」
異音。それは声であった。
野卑な笑みを浮かべた大男が発したその声に、黄泉路はとっさに言葉を詰まらせる。
「まるで死人に会ったみてェな面ァしてんなァ」
ゲラゲラと哄笑を上げる男の皮肉に黄泉路はハッとなり、反射的に言葉を返す。
「そんな事は良い。今すぐその子を放せ」
「つれねェなァ。何、こいつァちィとばッかしのお節介ッてヤツさ」
「何の話を――」
「コイツは幻、知ッてんだろ? コイツ等はテメェの罪悪感で作られた人形だ。ならテメェに都合のいい事を囀るはずもねェッて事は、承知の上だろ?」
「……いいから、廻君を放せ」
「はいよ」
黄泉路が自身でも驚くほど冷え切った声音で、隠しようもない殺意を向けながら男に命じれば、男は意外なほどあっさりと首を掴んでいた少年――朝軒廻を解放する。
床へと落とされ、座り込んだ廻に駆け寄ろうとした黄泉路に対し、幽鬼のようにふらりと立ち上がった廻の口から音が漏れる。
「――どうして」
「え」
「どうして、おじいちゃんとおばあちゃんを、助けてくれなかったの」
「――ッ」
「どうして? どうして? どうして? 黄泉路さん」
虚ろな瞳が黄泉路を見上げる。
その問いに、黄泉路は言葉を返すことは出来なかった。
「……な? 面白くもねェだろ?」
案の定、とでも言いたげに、男は肩を竦めて嗤う声が、黄泉路の耳にやけに強く残った。