5-24 ハートフル11
自らの口から零れ出た名前の意味を黄泉路自身が理解するのと、対面の檻から飛び出してくる獣の鋭い爪が胸元へと迫るのはほぼ同時であった。
「――ッ!?」
動揺していても反応してくれた身体に感謝しつつ、黄泉路はサイドステップを踏んで人型の獣から距離をとろうとコンクリート製の床を蹴る。
猛追してくる人型の獣という光景に否が応にもトラウマが刺激され、室内がぐっと――まるで、初めて能力者に襲われたあの路地裏のように――暗くなったように感じられ、息切れなどしない筈の身体が呼吸の浅さに息苦しさを訴えかけてくる錯覚に囚われる。
それらが絡み合い思考が狭まってゆく中、目の前の恐怖からどうにか逃れようという意識と、身体に刷り込まれた経験だけが黄泉路を突き動かしていた。
幾度と無く背後で鋭い爪が空を切る。時折首筋を掠めるチリチリとした熱にもにた痛みに背筋を凍らせ、検査衣に掠る度にその距離が一向に変化しない事に焦りが広がってゆく。
しっかりと素足で足場を捉えて蹴り動くことで無駄のない足運びができているにも関わらず、徐々に距離を縮めつつある美花の姿に、黄泉路は思わず冷や汗をかきながら広く取られた室内を駆けた。
「み、か……さん」
「……」
口からこぼれるその名は、現実であったらいいのにと願った、夢かもしれない人の名前。
苦し紛れの呼びかけに応じる声は無い。だが、それも当然かと黄泉路は思う。
「(……助けてもらっておきながら、無神経な事を言って怒らせて)」
逃げ回りながら、恐怖から逃避し始めた思考が空想の追憶へと浸り、脳裏を掠めていくのは夜鷹の面々との数ヶ月にも及ぶ共同生活。
その中で美花に幾度と無く助けてもらったこと。美花の嫌う話題で、知らなかったとはいえ美花を傷つけてしまった事。
「(結局、謝れず仕舞いかぁ……)」
目まぐるしく流れてゆく、虚構とはとても思えない思い出。
意識が目の前の現実への認識を上回った瞬間、幾度とない追走劇の最中に美花の足爪によって抉られた溝に足を取られ、黄泉路の身体がぐらりと傾ぐ。
「――わっ!?」
思わず身体を捻り、美花と向かい合う様に倒れこむ鼻先を爪が掠る。
背筋にゾッとした感覚が走った直後、受身を取ったことで最低限に留められた衝撃が背を打った。
「……つ――ぅ」
一瞬の硬直。そして、大きすぎる隙。
それを逃す美花ではない。そのことは、黄泉路もよく知っていた。
仰向けに倒れこんだ黄泉路の上に跨り爪を振り上げた美花を見上げ、逃れようの無い詰みともいえる状況で初めて、黄泉路は気づく。
「(……こうして真正面から顔を合わせたのは、初めてかもしれない)」
諦めにも似た境地の中、わずかに美花の面影を残した猫の顔を見つめる。
振るわれる爪が喉元に迫る。抵抗しなければという危機意識と、詰んでいる状況でこれ以上の抵抗に意味はあるのかという諦観が混ざり合い、度を越えた恐怖が思考を現実から引き離す。
走馬灯。そう呼べるものが眼前を埋め尽くし、先ほどの回想の続き、夢の終わりが目の前に広がってゆく。
「(――あ、れ?)」
ともに潜入した施設。無人の回廊。洗脳された子供。
獣へと変じる美花――その、直前。
黄泉路は今の今まで忘れていた美花の言葉を思い出した。
『黄泉路――信じてる』
直後のインパクトで忘れていた。
美花もまた、黄泉路に歩み寄ろうとしていた。その事実に思い至り、黄泉路の思考は鮮明に、早回しをするかのように続きの回想から、今まで気づかなかった事実を拾い上げてゆく。
獣と化した美花は、果たして本当に子供を殺していたのか。
違う。よくよく思い返せば、確かに倒してはいたものの、血は一適も流れていなかったではないか。
「――ごめんなさい」
「……」
ぽつりと黄泉路の口から零れた謝罪と、あと1ミリでも深く届いていれば薄皮など容易に引き裂いて喉に傷を作っていたであろう美花の爪を両手で食い止めたのは同時であった。
なおも、視界の中では映像が、取りこぼし意識の外へと押しやっていた光景が溢れ出し、自らの行いに歯噛みしたい気持ちを押し殺して、迫る爪をとめる腕に力を込める。
ギリギリと無表情のまま爪を押し込もうとする美花を見据え、黄泉路は口を開く。
「僕だけじゃなかった……僕だけが、怖かったわけじゃなかったんだ」
黄泉路が恐れから、衝動的に美花から距離をとってしまったあの瞬間。
美花は酷く傷ついた目をしていた。
だから、と。黄泉路は吼える。
「今更過ぎるけど……! 気づいたから……僕は、もう一度――美花さんに会わなきゃならないんだ!!」
先程まで拮抗していた美花の手を払いのけ、強引に美花の姿勢を崩すと、そのまま転がるようにして距離をとりながら立ち上がる。
「夢に、溺れてる時間は無いんだ」
黄泉路より遅れ、ゆらりと立ち上がった虚ろな眼をした美花の形をした幻影に、黄泉路は毅然と言い放って、初めて拳を構えた。




