5-21 ハートフル8
一人取り残された黄泉路が廊下へと出れば、ひやりとした地下の空気が心なしか強くなったように感じられてふるりと身震いしながら左右へと目を向ける。
というのも、部屋から美花が出て行った事は確かなものの、どちらへと進んだかを観察するほどの理性は保てていなかったのだ。
今もなお、ようやっとその事に思い至って足が止まる程度には動揺は抜けておらず、意識とは無関係に整わない呼吸を苛立たしげに感じてしまう。
廊下に出る直前まではただ衝動的に、美花を追わなければという焦燥感で動き出していたものの、いざ、理性でもって選択を迫られてしまえば衝動だけでは立ち行かず、熱を帯びて逸る心と立ち止まらざるを得ない身体が鬩ぎ合う。
足を止めた途端に脳裏に湧き上がってくるのは、美花が異形へと変貌して行く姿。そして、その異形が子供たちを次々と手にかけてゆく光景。
「――ッ」
ぶるりと、先ほど感じた空気の冷たさとは違った、身体の芯を冷やすような怖気に両の腕で己を抱きしめて、黄泉路は挫けそうになる膝を叱咤して堪える。
道敷出雲として生きてきた平凡な少年が、迎坂黄泉路という非凡なる存在へと変容したその契機ともいえる獣の異形。それは黄泉路にとって忌まわしき象徴であった。
獣人とも言うべき能力者の牙が、爪が、出雲という少年を殺し、貪り、全てを狂わせた。その事実は恐怖によって装飾され、黄泉路自身も知らぬうちに心の内側で育った大きな爆弾となっていた。
曲がりなりにも収容施設で数多の死を乗り越えてきたからこそ、今まで意識したことすらなかったトラウマである。その事実に直面し、自らのトラウマを自覚してしまったが故に。頭に靄がかかったような思考のまま、ふらりと足を動かす。
「(わからない、こわい。こわい、けど、けど、何? でも、だって……)」
ぼんやりとした意識で夢心地のような視界に自らを繋ぎ止め、無意識のうちに、一番最後に残した美花の言葉を追って歩き出す。
今誰かが黄泉路の姿を見れば、幽鬼か何かと勘違いしたことだろう。
心ここにあらずといった風に無機質な研究所の廊下を歩く少年の姿は、それだけで妙に恐ろしく見える。
白い蛍光灯と壁面に照らされた蒼白の肌に、喪服めいた学生服と無貌の仮面が合わさってある種のホラー映画のような様相を呈していた。
だが、黄泉路がそれを自覚することは無い。施設内に鏡などあろうはずもなく、また、自覚するだけの余裕もなければ、焦燥と恐怖と義務感に支配された一握りの理性が時間を惜しんでいたからだ。
「(ほんとうに、ここはよく似てる)」
少しでも考えを止めないように、思考がとまれば、その途端に恐怖に支配されて足が止まってしまうような、そんな焦りから、黄泉路は意識して頭を働かせながら歩く。
病的なまでに白い廊下は1人で歩くにはやや幅が広い。成人3人がすれ違うには窮屈に感じるだろうが、小柄な黄泉路であれば、美花が居ないという余白はより大きく感じられた。
先ほどまでは2人、それも早足で駆けながらであった為に意識せずに済んでいた事が黄泉路の心を揺さ振って、廊下の壁面に寄りかかるようにして荒く息を吐く。
見れば見るほど、自身が監禁されていた施設の廊下を思わせて、人工的な浄化によって無味無臭になった空気が生きた心地を奪う。
空気にも味があるのだという事を、あの日救い出された時に知ってからは、余計にこうした人工的に異物を排除された空間というものが心地悪く感じられて、黄泉路は志向が悪い方向へと向かい始めたことを自覚すると同時に打ち切った。
ただ、歩くことを、前を向くことだけを考えろと自身に言い聞かせて歩くうちに、ふと、自身が廊下を歩く衣擦れと靴音だけが小さく反響していた中に別の音を感じて立ち止まる。
「(いま、何か……)」
改めて耳を澄ますも、すでにそれらしい音は無く。聞こえてくるのは静寂の中でサイレンの様に鳴り響くきいいんという高い耳鳴りだけであった。
そのまま数秒、息すらも止めて声を待っていた黄泉路であったが、再び音が聞こえないという事実だけを受け取り、それならばと音がした気がした方へと足を向ける。
乗り気ではない、だが、それでも何の指標も持てずに歩き回るよりは幾分かマシだと思ったからだ。
それがたとえ、嗤う様な、どろりとした耳障りな声のように聞こえたものであったとしても。
「……(確か、こっちのほう……だった気がするんだけど)」
自らの不確かな感覚を頼りに歩くこと数分。再び終わりの見えない探索の様相を呈してきた事への辟易と焦りが沸き立ち、やはりただの気のせいではと思い始めていた。
幸いなことに、多少の時間と捜索という作業によって意識がはっきりとし始め、理性と呼べるものを取り戻すことができている事だけが、進展といえば進展だろう。
全身を蝕むような倦怠感と、意思に反して美花を探すことを拒絶しているような身体を恨めしく思いつつ、壁伝いに歩いていた黄泉路であったが、不意に、壁についていた手から背筋にぞわりと嫌悪感の様なものが駆け抜ける。
「――ッ!? う、わ」
壁から手を、背筋から脳髄へと流れ込んできた一瞬の衝撃とも取れるようなマイナスの感情を煮詰めたようなイメージに、思わず黄泉路は力いっぱいに壁を突き飛ばすようにして手を離す。
すると、今まではただの壁にしか見えていなかったはずの白い廊下がギギィという音と共にズレる。
「え、あ……何、これ」
隠し通路、そう呼ぶのが正当なのだろう。だが、突如として目の前に現れたそれに対して黄泉路は反応するだけの心のゆとりは無く、少年心を擽る仕掛けを目の当たりにしても、その先に続く廊下と同じ白で統一された細い道から感じる嫌な予感に唾を飲む。
記憶にある地図に、このような立地は果たしてあっただろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、黄泉路は意を決して隠し通路へと足を踏み入れた。