5-20 ハートフル7
喉の奥から響くうねりの様な低い威嚇音が呻きの合唱をかき消して、黄泉路の耳に入る音を占める。
「――あ、あ……っ」
美花の簡素な、明らかに動きやすさだけを重視して選んだだろうジャージの内側が蠢いて膨張し、窄まった袖から突き出した手が毛深い獣のそれへと瞬く間に組み変わってゆく。
サンダルを履いた素足が踏み締めただけで硬い床に刺さるほどの鋭さを帯びた鉤爪が揃った茶色いふわふわとした毛並みに覆われたものへと変わったころには、人間の服を纏った巨大な猫科の何かとでも表現すべき存在へと変容していた。
デフォルメされた猫のお面だけが、妙に浮いたような、アンバランスな猛獣の身体が跳ねる。
「 」
ざりっという床が削れる音がしたかと思えば次の瞬間には黄泉路の視界から美花の姿が消える。
直後、廊下側から迫ってきていた子供たちの最前列が倒れる音だけが、やけに大きく響いたように黄泉路は感じた。
思考に身体が追いつかない。肉体と精神が剥離してしまっているような不自由な視界の追いつかせようと、ギリギリとでも音が鳴りそうなほどのぎこちない仕草で音を追って首を廻らせる。
硬質な爪が床を抉り、壁を蹴る音が響くたび、複数の倒れる音が重なる。
辛うじて眼で追うことのできる茶色い異形が検査衣のみを纏った貧相な少年少女を倒してゆく。
「ぅ、ぁ……」
目の前の光景に触発されて、埋没させていた記憶が、恐怖が泥に浮かぶ気泡の様に沸き立って黄泉路の身体を強張らせた。
黄泉路をそうさせるのは、平凡で安寧だった人生が一瞬にして崩れ去ったあの瞬間に引き戻されたような錯覚だった。
袖口から伸びた人のものではない前足、その先端についた鋭利な輝きが蛍光灯に反射するたびに、倒れてゆく子供が自身と重なる。
沸き立つ恐怖に喉が渇き、仮面の隙間からひゅーひゅーと荒い息が漏れるのを自覚していても止められない。
一歩も動くことができず、室内を縦横無尽に暴れまわる人の大きさをした化物の残像を前に立ち尽くす。
断続的だった音が止む。
室内は相変わらず、忌々しいほどに白さを強調した壁に反射する蛍光灯の明かりによって眩いほどであった。
横たわった者達によって彩られたベージュとダークブラウン、ライトグリーンの地面と、それを成した茶色の体毛に覆われた異形が、濃紺で統一された制服を纏った少年と真正面から向かい合う。
「黄泉路」
獣の喉が震える。
理解できるはずの、聞きなれたはずの声であるはずなのに、声を向けられた側であるはずの黄泉路はとっさに反応できずに居た。
「黄泉路?」
獣が緩やかな足取りで――それでもサンダルからはみ出した爪は床を軽く抉りながらであるが――近づいてくる。
伸ばされた前足が自身の肩に置かれると、黄泉路がそう認識した瞬間だった。
「ひっ――ッ」
黄泉路の喉が引き攣り口から空気を引き絞ったような音が零れると同時、身体が反射的に半歩後ろに下がる。
その拍子に、踵が何かに当たった事を認識したものの、黄泉路の思考は足元へ視界を落とすことを頑なに拒絶していた。
目の前の存在から目を離したくてたまらないのに、離してしまった途端に致命的な事態になってしまうのではないかという刷り込みめいた恐怖が頭を支配して、理性と感情が摩擦しあって、それが震えという形で現れていた。
「……」
見開かれた視界の中で、獣の動きが止まる。
白く濁り、まとまらない思考の中で、何故、という疑問が湧き上がるよりも先に、獣――美花は手を引っ込めると、さっと踵を返した。
「犯人。捜してくる」
「ぁ」
黄泉路から背を向けた姿に異形の要素はすでに無い。
柔らかそうな茶髪が揺れ、逃げるように部屋の外へと早足で向かっていく背を呆然と見送った所で、黄泉路は自らの震えが止まっている事実に気づく。
「ぁ、あ、ああ……ッ」
次いで、湧き上がってくるのは、酷い嫌悪感だった。
美花に対して、ではない。自らに対しての、とてつもない吐き気に耐え切れず、黄泉路は力なくくずおれた。
恐怖が抜けたところで、到底冷静とは程遠く。黄泉路の頭の中はぐるぐると、余裕ができたことで湧き上がった疑問が渦を巻く。
「(美花さんが……獣、で……なんで、子供――保護……どうして――)」
断片的な単語だけが飛び交い、それらを繋げるための情報を求めて視線を美花の去っていった廊下のほうへと向けるものの、そこに既に美花の姿は無い。
ただ、徹底的に、何か致命的な部分を間違えたのだという理由のわからない確信だけが黄泉路を駆り立てる。
「い――かなきゃ……」
何処へ?
わからない。
「謝らなきゃ」
何を?
どうやって。
「美花、さん」
膝からへたり込んだ時と同様、気力を感じさせない覚束ない仕草で立ち上がった黄泉路は、ふらふらと子供達を跨いで歩き出す。
思考は後でいい。とにかく動かなければ。
焦燥から引き出した結論が血液のように循環して身体へと巡り、歩き出した足が廊下を踏みしめた。